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静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウス つれづれ (3)プディングの味

2016-09-14 21:22:18 | 日記

                                            <「Z3 プディングの味(プリニウス随想3)」の改訂版>

 

   (一)ローマの入浴嘔吐術

プディングの味

 「『兄さん、其<の>プッヂィングを妾(あたし)に頂戴。ね、好いでせう』とお重(しげ)が兄に云った」。漱石『行人』の一節である。

 プディングというのは『資本論』にたびたび出てくる。「プディングの味は食べてみなければわからない」という文脈で。その食べものがどんなものか、訳注を見ても要領を得ない。翻訳者もよくは知らないのだろうと思っていた。ずっと後になって国語辞典を見たらプリンのことだという。その頃になると巷にプリンというプルプル・フニャフニャした菓子が出回っていた。なるほど英語とドイツ語の違いだなと、一人合点していたが、もっとずっと後になって、プリンというのはプディングの一種に過ぎないことを料理の書で知った。『行人』の兄さんの家のデザートはプディングの方だったろう。プディングの本家はイギリスだそうだ。マルクスがプディングにこだわったのは、『資本論』構想中もいろいろな味のプディングを食べさせられたせいかもしれない。いや、とことん貧窮生活を送ったマルクスには、たびたびプディングなど食べる余裕があったとも思えないのだが。この言葉はすでに一つの箴言になっていたようだから、たんなることわざとして用いたのかもしれない。それと違って、漱石のロンドン留学生活は、経済的には苦労していないから、プディングだっていろいろ味わっていたのだろう。

小説に戻る。妹のお重は兄嫁と上手くいっていない。夕食を早々と済ました兄嫁は無言のまま立ち上がリ娘の芳江を手招きする。芳江もすぐ立った。「おや今日は御菓子を頂かないで行くの」と兄嫁、デザートに未練がある芳江だがばたばたと母親の後を追って二階へ上がる。お重はその後姿を忌々しそうに見送る。兄の一郎は遠くの方をぼんやり眺めている。そして先の「兄さん、其のブッヂィングをわたしに頂戴」となるのである。兄の一郎は弟の二郎と自分の妻との関係を疑っている。兄の精神状態を心配した二郎は、兄の旧友Hに頼んで兄を旅に誘ってもらう。その宿先で兄とHがいろいろ議論をかわす。Hはその様子を詳しく手紙に書いて二郎に送った。

それによると、兄さんは深い不安の中に陥っている。四六時中どこにいても何をしても安住できない。兄さんは、落ち着いて寝れないから起きる、起きるとただ起きていられないから歩く、歩くとただ歩いていられないから走る、走り出した以上どこまで行っても止まれない、止まれないどころか刻一刻と速力を増して行かなければならない、その極端を想像すると恐ろしいと言う。そこでHは、そういう不安は人間全体の不安で、何も君一人で苦しんでいるのではないと悟ればそれまでではないかと反論する。すると兄さんは次のように言う。

「人間の不安は科学の発展からくる。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々にとどまる事を許して呉れた事がない。徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、何処まで行っても休まして呉れない。何処まで伴れて行かれるか分からない。実に恐ろしい」

 Hは、それがすべての人の運命なのだから恐ろしがる必要はないじゃないかと再度問う。兄さんは重ねて言う。「必要がなくても事実がある」「人間全体が幾世期かの後に到着すべき運命を、僕一人で僕一代のうち経過しなければならないから恐ろしい.・・・要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している」(『行人』「塵労」三二)。

小説の流れから見て、兄さんの告白は唐突に過ぎるともいえよう。個人的不安、妻の不倫を疑う不安、家庭的な不安を語っているうちに人間社会への不安に発展する。「人間全体が幾世期かの後に到着すべき運命」を僕一人で、僕一代のうちで、自分一人に集めた不安。一読者としては、どうしてそうなったのか、いま一つ判らないが,分かったような気もするので妙だ。

 

クジャクの舌

 漱石は美食家だったらしい。『吾輩は猫である』の初めの方で迷亭君が「この孔雀(クジャク)の舌の料理は往昔羅馬(ローマ )全盛のみぎり、一時非常に流行致し候ものにて、豪奢風流の極度と平生よりひそかに食指を動かしおり候・・・」などと苦沙弥(クシャミ)先生に手紙を送るところがあった。クジャクの舌がどれだけローマで珍重されどれだけ流行したのか、よくわからないが、舌ではなく肉の方は食べていたことは事実のようだ。プリニウスによれば、雄弁家のホルテンシウスが神官就任の饗宴の席で、ローマで初めてクジャクを食卓にのせたし、マルクス・アウフィディウスという人物がクジャクの飼育で大もうけをしたともいう。ローマでは一般的な食品となっていたことが伺える。二世紀の人アテナイオスは、ローマ市内にはおびただしいクジャクが飼育されておりその数は大変なものだと言っている(『食卓の賢人たち』)。しかし、それが珍味であったかどうかはわからない。その代わりというか、ローマ第一の美食家といわれたアピキウスが、ベニヅルの舌は特別の風味があると宣言したという。迷亭君の話には、ベニヅルとクジャクの混同があるのかもしれない。見えっぱりのローマ人は、珍奇なものを食卓に並べて自慢しあっていた。こういう風潮に対してプリニウスは、人間の舌を皿に盛ったりすることよりはましだがと、際どい冗談を言っている。クジャクの肉を食べるというのも、見事な羽をもつ鳥を食べてみたいという好奇心からのものだったのだろう。

 ポンペイの遺跡の下水やトイレ、ゴミ捨て場などを調べたところ、キリンの関節や、フラミンゴを食べた形跡などが発見されたそうだ。『博物誌』にはそれは書いていないが、十分ありうることだ。一般にローマ人は食品としては小動物、とくに魚や小鳥を好んだようだ。ガイウス・ヒリウスという人物はヤツメウナギの大きな養殖場を経営し、カエサルの凱旋饗宴に六千匹のヤツメウナギを提供したという。ホルテンシウスという弁護士は自分が飼っている一匹のヤツメウナギに深い愛情を持つようになり、それが死んだとき泣いたと信じられているとプリニウスは報告している。特に珍重されたのがボラ、とくに赤ボラが第一等だった。贅沢について工夫することにかけて天才であったアピキウスは、赤ボラの肝で練り物をつくることを推奨したという。魚以上に喜ばれたのが小鳥である。アピキウスはベニヅルの舌を推奨したことは先に述べたが、それ以外に、エゾライチョウ、ウ、小ヅルなどいろいろな珍しい鳥が珍重された。また、いろいろな鳥の飼育法・調理法などが開発された。たとえば肥育されたメンドリの肉を、そのメンドリの肉汁で照り焼きにするという有害な習慣が始まった。そこで第三次ポエニ戦争の少し前、執政官のガイウス・ファンニウスは、肥育されないメンドリだけの料理ならいいが、それ以外のどんな鶏料理も供してはならないという法律をつくった。プリニウスは、この法律はその後も更新され、ローマのすべての奢侈禁止法を通じて生きつづけてきたと述べている。ところが、この禁制からの逃れ道を発見する人間が現れる。オンドリに牛乳に浸した餌を与えて肥育する方法で、その調理法をも紹介している。そんな調理法まで調べて書き連ねるなんて、ご苦労なことだ。

 さて迷亭君の手紙のことだが、迷亭君は「ご承知の通り、孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半ばにも足らぬ程故健啖なる大兄の胃袋を充たす為には・・・是非共二三十羽を捕獲致さざる可からずと存候」と、さらにクジャクは、「動物園、浅草花屋敷等にはちらほら見受け候へども」普通の鳥屋などには一向に見当たらないので苦心すると、もっともらしく語ったうえ、先生にクジャクの舌をご馳走したいが、胃弱の先生が食べすぎて腹をこわすといけないから、食後入浴したのち食べたものを吐き出してはまた食べるという、ローマ人の胃の洗浄法を研究してからにしましょうと、苦沙弥先生をかつぐ話であった。なんとも平穏無事なお話ではあるが、迷亭君は次のような趣旨のことも書いていている。

日露戦争第二年目になった折り柄、われら戦勝国の国民はぜひともローマ人にならって、この入浴嘔吐の術を研究しなければならない。その機会が到来した。このようにしなければ、せっかくの大国民も近い将来、ことごとく大兄(苦沙弥先生のこと)のように胃病患者になることをひそかにおそれている・・・と。漱石が胃弱であったことは広く知られたことである。多少付言すれば、迷亭君のいう入浴嘔吐の術というのは、ローマでの嘔吐法とは幾分異なるように思うが些事にはこだわるまい。さらに余談だが、小生(筆者)往昔、東洋史の先生に、中国の王侯貴族は目の前に何百皿もの馳走を運ばせ、食べては吐き吐いては食べたこと、さらには、最高の馳走は、生まれたばかりの白ネズミを蜂蜜だけで育て、食べごろになったら、生きたまま飲み込むことだと聞かされた。飲み込むとき喉もとで「チュウ」と鳴くのがたまらないのだそうだ。その話をしたときの先生のしたり顔は今でもしっかり覚えている。

 

ローマ人の食と入浴

 一世紀の頃、つまりプリニウスの頃の一般市民の普通の生活習慣は? 共同浴場から帰ると夕食が待っていた。ローマ市民は、自宅に友人を招くか招かれるか、いずれにしても夕食は友人などと共にするのが普通だった。富裕者たちは豪華に、庶民はつつましく。カトーのような質実剛健な典型的ローマ人でもその生活習慣は守っていたようである。

 ローマの饗宴生活については数々の人が書き残している。誇張も多いのでそのまま信ずるのは危険だが、信じられないほど豪華な食卓から至極慎しい食卓まで多様である。それらはわが国でも詳しく紹介されている。なかでも有名なのは、ネロの時代のペトロニウスの作品とされる小説『サチュリコン』に描かれた「トリマルキオの饗宴の場」だろう。ローマの桁外れに贅沢な晩餐の描写では右に出るものはない。それこそ食べては吐き、吐いては食べる宴会だった。ペトロニウスはプリニウスの少し前の人であり有名人だったが、それについてプリニウスは何も書いてない。

 プリニウスの少し後の風刺詩人マルティアリス(後40頃―104頃)の、友人への饗宴招待文の一部を紹介しよう。

・・・まず近所の浴場で入浴を済ませ(日本の銭湯のような浴場があちこちにあったらしい)、食卓についたらまず前菜としてレタス、リーク、ゆで卵、ヘンルーダを添えたマグロ、チーズ、味つけしたオリーヴの実などを出そう・・・と続く。

 きわめてありふれた献立である。卵はローマの食事では定番。問題はその後。君に来て貰うために嘘をつこうと言って、メインデッシュに豪華なメニューを並べ立てる。実際にそれらが出たかどうかは不明、飾り文句かもしれないのだ。だがその友人にとっての最大の魅力はその招待文でマルティリアスが、私は何も朗読しない、だが君は気のすむまで自作品を読んで聞かせてくれたまえと約束したことだった。

 宴会の席で、自作を著名人に聞いてもらうことは、文人にとっていかなるご馳走よりも魅力的なことだった。ローマには各地から文筆で名を上げようとする人々が雲霞のように集まっていたに相違ない。マルティアリス自身がヒスパニアから青雲の志を抱いてやって来た一人であった。彼は運よく皇帝の寵児となって、著書も売れ、農園もある家屋敷を構えることができる身分になった。そのマルティアリスに自作の朗読を聞いてもらえるのはなんと幸運なことか。トリマルキオの饗宴は馬鹿げた乱痴気騒ぎだったが、このマルティアリスの食卓は静かな落ち着いた宴だったに違いない。

 プリニウスが敬意を表していたキケロは、ある友人に、来る日も来る日も、読書か著作に没頭し、その後は、友人たちを少しは喜ばせる目的で彼らと食事をする。奢侈禁止令を守っているのはもちろんのこと、たいていはずっと少ない出費で済ましてい

ると書き送っている。プリニウスと違って、食事中も読書に没頭したとは書いていないが、ローマの高官でも奢侈禁止令を守ろうとする姿勢があったことを教えてくれる。いや、高官だからこそ、かもしれない。トルマキオは成金の解放奴隷であり、その宴会に招かれた客もほとんど成金の解放奴隷だったらしい。ローマ社会も大きく変わってきていた。

 ところで、吾輩が苦沙弥先生の入浴状況を観察した一文がある。銭湯に忍び込んだ吾輩は、浴場で少年と喧嘩をしている先生を発見する。「元来主人はあまり堅過ぎていかん。石炭のたき殻見た様にかさかさして然もいやに硬い。むかしハンニバルがアルプス山を超える時に、路の真中に当たって大きな岩があって、どうしても軍隊が通行上の不便邪魔をする。そこでハンニバルは此(コノ)大きな岩へ酢をかけて火を焚いて、柔らかにして置いて、夫(ソレ)から鋸で此大岩を蒲鉾の様に切って滞りなく通行したそうだ。主人の如くこんな利目(キキメ)のある薬湯へ煮(ウ)だる程入っても少しも効能のない男は矢張(ヤハ)り酢をかけて火炙りにするに限ると思ふ」。

 ハンニバルの話はリウィウスが『ローマ史』で伝えるところだが、「吾輩」の話は少し変えてある。『ローマ史』の方は、熱した岩に酢をかけてから砕くのであり、先に酢をかけるのではない。また鋸で切るのでもない。いくらなんでも、蒲鉾のように切ったりはできまい。それにしても吾輩は物騒なことをいう。吾輩が蒲鉾のように切り刻みたかったのは、ほんとうは誰だったのだろうか。こうなると、苦沙弥先生も、吾輩にかかってはさんざん、猫は言いたい放題である。それにしても、こんな銭湯では入浴・嘔吐の術など使えそうにもない。やはりローマ風呂に入らなければならないのでは?

ここで平均的ローマ人の入浴について。多くのローマ市民は暇だったので、共同浴場に長居する習慣が生まれた。共同浴場は平民の別荘(ウィラ)だったとローマ史家のピエール・グリマールは評している。彼は次のように描写した。

一般市民は、朝の伺候が終わり食糧の購入やいくつかの仕事を処理してしまうと、そのあと、なにもすることのない長い午後が待ち受けていた。昼寝のあと共同浴場へ出かける。女性専用の浴場もあった。ない場合は女性専用の時間帯があった。更衣室で服を脱ぐ。まずぬるま湯の温浴室、そして乾式サウナ室へ、汗に覆われると冷水室へ、次は熱湯の浴槽に、そこで垢擦りヘラで全身を擦ってもらう。最後に冷水プールで体を引き締めて終わる。浴槽が広いと少し泳ぐ。また、マッサージ師の世話になる。時間があれば何人かの仲間と入浴し、とめどもなくおしゃべりをする。あるいは寝そべって日光浴をしたりボール遊びをする。庭園の小徑で散歩する。ソーセージやケーキの売り子、居酒屋のボーイたちが独自の調子で客を呼び込む・・・。

 

プリニウスの場合

プリニウスは内風呂を使った。ローマの水道は大方が市民共用だったが、二千戸余りには個人用水道が認められていて自家用の風呂があった。彼のように、入浴中も読書や筆記に熱中するには共同浴場は不向きである。 

 プリニウスの食事や入浴については、彼の甥の小プリニウスが書き残したものがある。まず、バエビウス・マケル宛の手紙から。「夜明け前に彼は、ウェスパシアヌス帝に伺候したあと職務につくのでした。帰宅後少しでも時間があると、自分の仕事に充てました。食後(彼の日中の食事は、古いしきたりによって、軽く簡素なものでした)、夏のあまり忙しくないときには、よく陽の下に横たわり、本を読ませている間に覚え書きや抜粋をつくっていたものです」「太陽のもとで休んだあと、彼は、普通は冷たい風呂に入り、何かを食べ、短い睡眠をとりました」「そのあと、まるで新しい一日が始まったかのように仕事を始め、夕食まで続けました。夕食のあいだ中、本を読ませ、手早く覚書をつくっていました」・・・。これはプリニウスがローマで『博物誌』を執筆していた頃の話である。

 次はローマの地中海艦隊長をしている時のことである。「伯父は、現役の指揮官として、ミセヌムに駐屯していました。八月二四日の第七時頃(注・午後の早い時間)、母が、大きさも形も異様な雲について、伯父の注意をうながしました。彼は外で太陽にあたったあと、冷たい風呂に入り、横たわって昼食をとり、本を読んでいました」。彼の邸宅は、ナポリ湾やウェスウィウスまで広く展望できる丘の上にあったのだろうが、彼は靴をもってこさせ更によく見えるところに登って観測を始めた(コルネリウス・タキトゥスへの手紙)。

 少し余談だが、彼の入浴に関して少し述べる。小プリニウスは、ウェスウィウス山の噴火は八月二四日と書いており、噴火を目撃しそれを後世に伝えた人は彼だけだから、それが定説として今日まできた。ところが噴火は一一月二四日だという異説が現れた。その異論の内容や反論についてはここでは触れないが、一点だけ疑問を書いておく。小プリニウスは二度とも、伯父は日光浴のあと冷水の風呂に入ったとしている。ローマでの風呂は「夏のあまり忙しくないとき」であったし、噴火は八月二四日である。日光浴後、冷水の風呂に入るのは何ら不自然ではない。だが、一一月の下旬に日光浴と冷水風呂というのはいかにも不自然である。

 

(二) 人相学と大和魂

 

山芋どろぼう

 『猫』が雑誌『ホトトギス』に連載されたのは一九〇五年(明治三八)一月から翌年の八月まで。〇五年一月旅順開城、三月奉天会戦、五月日本海海戦、九月ポーツマス条約調印・日比谷焼き打ち事件と続く、そういう時代だった。この日露戦争は国内にいろいろな影響を及ぼし、戦争成金も多数生まれた。苦沙弥先生の向こう横丁の角屋敷の金田という金満家の実業家も多分そうだろう。その一方で、物価高騰に多くの庶民が苦しめられた。ある夜、先生宅に泥棒が入る(『吾輩は猫である・五』)。泥棒が盗んでいったのは到来物の山芋の箱と、先生夫妻の普段着。貧乏人の学者の家に入らずとも、金田さん宅にでも入ればよかったと思うのだが、これは創作だから詮索は無用。

 その泥棒の侵入にいち早く気づいたのは吾輩(猫)だが、怖くて声も出せない。しかし夜目が効くので、ちゃっかり泥棒の人相は見分けることができた。そこで「吾輩」は人相論を展開する。「人間も斯様にうじゃうじゃ居るが、同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論極まって居る・・・同じ材料で出来上がって居るにも関わらず、一人も同じ結果に出来上がって居らん」と。そのうえで次のようにも考える。神はすべて同じような顔に造ろうとしたが作り損ねてこのようになったのではないか、それは神の無能力を推察させるものだ。

プリニウスは『博物誌』でこんなことを言っていた。「われわれの顔には一〇かあるいはそれよりもほんの少しの道具立てしかないのに、無数の人類の間に、区別できない顔つきは決して二つとないことを考えてみるがよい。雛形はごく少ないのにどんな技術をもってしてもその偽物を提供することはできない」と。またプリニウスを愛読していたレオナルド・ダ・ヴィンチは次のようにいう。「自然が肢体の性質に唯一の基準を定めるとしたら、すべての顔は互いに識別できないほど似かよったことであろう。しかし自然は顔の五つ道具に大いに変化あらしめ、大きな点ではほとんど普遍的な基準を設けたとはいえ、質においてそういう基準を守らなかったので、そのおかげで一人一人はっきりと識別できるわけである(『レオナルド・ダ・ヴぃンチの手記』杉浦民平訳)。

プリニウスの頃というより古代においては、何事にかけても占いの効果が広く信じられていた。星占い‣鳥占い・・・個人はもとより国家的行事・戦争などにも多様に利用された。プリニウスは基本的に占いの効能を認めてはいないが、人心に与える心理的効果については配慮が必要だとみていたらしい。だが彼はアリストテレスの人相論などにははっきり反対した。彼は「アリストテレスがわれわれのからだにはわれわれの生涯を予告する前兆が含まれていると信じただけでなく、その信念を発表したことに驚く」として幾つかの例をあげ批判している。また、同時代人で批判的な権威者であるトログスという人物(一世紀ローマの歴史家)の言も紹介している。額の大きいのは精神が遅鈍、小さな額を持つ人は鋭敏。眉が水平な人は温和、鼻の方に曲がっている人は厳格。全体に垂れている人は悪意があり邪悪。目の両側が細いのは腹黒、広いのは鉄面皮、眼の白い部分が多いのは無遠慮。耳が大きいのはおしゃべりとたわけ・・・などなど。そして最後に「トログスはこれくらいでたくさん」と締めくくる。本当は「アリストテレスもたくさん」と言いたいのかもしれない。しかしプリニウスは、この記事の後,別項で、そっくりさんのエピソードを紹介している。矛盾した話だが別に咎める必要もないだろう。

 プリニウスの本心は、民衆が、占星術と同じように人相学にも信頼をおくことに危惧を抱いたことにあると思う。彼によれば、それらはしばしば理性のコントロールの欠如や不安定性から生まれるものであった。権力者が民衆の不安を煽り、恐怖を覚えた民衆は占星術や魔術や人相学などに逃げ場を求めるようになる。だから、人相学的な前兆は愚劣そのものだと彼はいう。人相学や手相学、生命判断などは今日でも一定の支持はあるだろうが、ともあれ今は二一世紀の世のなかである。科学的体裁を装いながら民衆の不安を助長する技術は発達している。その民衆の不安を発散させ一方的にある方向に導く手段も巧妙になっている。

 

大和魂

話を元に戻そう。この泥棒話の少しあとで苦沙弥先生は、短文を作ったからご批評を願うといって東風さんや寒月君に読んで聞かせる。ここは面白いのでそのまま引用させてもらう。改行は略。

「大和魂と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」「起し得て突こつ(高く突き出る)ですね」と寒月君がほめる。「大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」。「成程こりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。「東郷大将が大和魂を有(も)って居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」「先生そこへ寒月も有って居るとつけて下さい」「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」―三行略―「先生大分面白う御座いますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」。主人は一結杳然と云う積りで読み終わった・・・。 

 漱石の面目躍如といった風情である。この苦沙弥先生の「短文」を聞いた迷亭君が、戦勝国になったのだからこそローマ人の入浴嘔吐の術を学ばなければみんな胃弱になってしまうと、ものの道理がわかったような、わからないようなことを言う筋書きになっている。漱石は迷亭君の言葉を借りながら自分のこころを語った。日本人は誰も彼もが「大和魂」と叫んで嘔吐の術を用いず、なんでもかでも呑み込んでしまうので胃腸が破裂してしまった・・・それが漱石の実感なのだろうか。

その後、漱石は『三四郎』(1908年)の中で、日露戦争に勝利したから「これから日本もだんだん発展するでしょう」という三四郎に対し、広田先生が「滅びるね」と答える場面を描いた。

のちに司馬遼太郎は「日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る」「民族的に痴呆化した」(『坂の上の雲』あとがき)と書いた。今日の日本民族の特性は、この日露戦争によって形成されたという説もある。「大日本帝国」の滅亡によって一度冷静に戻った日本人も、平成の今日、「日本を取り戻そう」という掛け声の下、いままた民族的痴呆化への道を歩もうとしているのだろうか。狂騒の世のはじまりだろうか。

 

(三)スペルブスの本

 

 『吾輩は猫である・三』に、苦沙弥先生の細君と迷亭君との会話がある。細君は、苦沙弥先生から後学のために聞けといわれて、ローマの「樽金」という王様の話を聞かされたとのこと。迷亭君は、それはローマの七代目の王様タークヰン・ゼ・プラウドのことだろうという。実はこれは、ローマ最後の国王とされるルキウス・タルクイニウス・スペルブス(在位前534-10年)のことである。細君が先生から聞いた話というのは次のとおり。

 この王様の所へ一人の女が九冊の本を持ってきて買ってくれないかといった。王様が値段を聞くと高いことをいうので負(ま)けないかというと、その女は三冊を火に投げ入れた。王は少しは値が下がっただろうと改めて聞くと、元の値段から一文も引かないという。それは乱暴だと王がいうと、女はまた三冊を燃やしてしまった。だから残りは三冊になったが元通り一厘も引かない。王はとうとう高いお金を出してその三冊を買った・・・というお話である。これは神話や伝承の中の話である。「女」というのはアポロンの神託を告げるクマエ(キューメ)の巫女シビュラのことで、書物というのはギリシア語で書かれた予言神託集だとのことだという。これに似たような話はいろいろあり、他にシュビラは何人もいたという説もある。

プリニウスは、あまねく一致した意見だとして以下のように述べている「シビュラは三冊をタルクイニウス・スペルブス王のところへ持ってきたが、そのうちの二冊は彼女自身によって焼かれ、残りの一冊はスラの危機の際カピトル神殿が焼けたため焼失した」。彼の頃にはこれが定説になっていたらしい。こんなあやふやな話をなぜ書いたのか、彼はこの話をパピルス紙に関する叙述の中で述べているのである。彼はパピルスの生育、紙の製法、用途、文明に与えてきたなど影響など多くの紙面を使って叙述した。例えば、ローマ第二代の王ヌマの遺体の入った箱の中に数冊の本が発見された。その本が何冊で何の本であったかいろいろ論議があったこと・・・ピュタゴラスの宗教教義だとか、司教法に関するものだとか、ヌマ法典の一二冊だとか、古代人の遺跡に関する七冊だとか、ギリシア哲学の教義一二冊だとか・・・それにこれらの書物は焼き捨てられるべきだという元老院の決議だとか・・・。これらの書物の発見はヌマの即位(伝・前七一五年)から五三五年後のことで、パピル紙に書かれたこの書がこのような長期間土の中に保存された原因はなにか、プリニウスはいろいろな説や自己の見解を提示している。そしてパピルスがいかに貴重で高価なものであるかを強調している。

 さて話を元に戻すと、苦沙弥先生が細君に言いたかったことは、さほどに本というものは貴重であり高価なものだから、亭主が本を買うことに文句をつけるなということだろう。さすが、もう紙の値が高いとは言っていない。だが書籍が高価だったことに違いない。特に戦前の輸入原書はとても高価であったことを知らないと、細君の愚痴もあまりピンとこないかもしれない。漱石の給料は、熊本高校教授のときの月給百円、東大講師のときの年俸が八〇〇円。『猫』執筆当時は明治大学講師で月給三〇円。これは筆者の想像だか、洋書一冊平均五円くらいはしたのではないか。寺田寅彦が「丸善と三越」という随筆を書いている。それによると、あのころ書物の値段は正札ではなく符丁で書いてあったという。たとえばアンカナというのは一円五十銭のことだった。どんな書物のことかは書いてない。いずれにせよ、これでは細君も苦しかろう。「女中」も雇っていただろうし。その後漱石は朝日新聞社に入社し月給二〇〇円になった。中学の教師が月給百円前後だったと思うので、これはかなりの高給取りだ。しかし当時、学生が洋書を入手するのは容易ではなかった。金に困って折角購入した書物を質入れするのは日常的だった。学生の街では書物も立派な質種であり、大学や高校(旧制)の門前に古書店が並んだのも、それが質屋を兼ねていたせいかもしれない。

 迷亭君がまあまあと宥めても細君の不満は収まらない。「無闇に読みもしない本許(ばかり)買ひましてね・・・勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をして居るんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜まって大変困りました」。だが苦沙弥先生は「貴様は学者の妻(さい)にも似合はん、毫も書籍(しょじゃく)の価値を解して居らん」といって、先の樽金の話を細君に言って聞かせる次第となったらしい。もちろんこれは小説上の話ではあるが、話としては真実味を帯びている。漱石がシュビラの書の話をどこから仕入れたかはわからない。

 

(四)機械ある者は機事あり

 

獨仙先生 

  ある日、八木獨仙という人物が苦沙弥先生に説教する。

「川が生意気だって橋をかける、山が気に喰はんと云って隧道(トンネル)を掘る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。夫(それ)で永久満足が出来るものぢゃない。・・・西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大いに違ふ所は、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云ふ一大仮定の下に発達して居るのだ・・・自然其物を観るのも其通り。山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考えを起こす代わりに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ」(『吾輩は猫である・八』)

 さて、後日迷亭君が訪ねてきたとき先生は「君はしきりに時候(時候)おくれを気にするが 、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一今の学問と云うものは先へ先へと行く丈(だけ)で、どこ迄行ったって際限はありやしない。到底満足は得られやしない・・・」などと自説のように述べ立てた。しかし、たちまち八木獨仙の受け売りがばれてしまう。迷亭君はいう「あんまり人の云う事を真に受けると馬鹿を見るぜ。一体君は人の言うことを何でも蚊(か)でも正直に受けるからいけない。獨仙も口丈は立派なものだがね、いざとなると御互(おたがひ)と同じものだよ・・・」。                              

 前出のように、漱石は『行人』の中でも「兄さん」にこう言わせた。「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許して呉れた事がない。・・・何処まで行っても休ませて呉れない。何処迄伴れて行かれるか分からない。実に恐ろしい」と・・・。

 『猫』の発表が一九〇四年から〇五年にかけて、『行人』の発表は一九一二年から一三年にかけて」。「兄さん」の発言なども併せて考えると、それは漱石の真実の声だったかもしれない。

プリニウスは、この地上にあるもので充分豊かな生活ができるとし、地中深く大地へもぐり込んで鉱物を採掘したり、遠くから大理石を運んで来たり、贅沢心を助長するような金・銀の過度な採掘、あるいは戦争に用いられるような鉄の採掘には厳しい批判を浴びせていた。危険を冒しながら海中深く潜って、真珠や、染料の原料となる紫貝などを採取することにも異議を唱えていた。そして、このわれわれの世界の向こう側にあるものの追求は無駄なことであり、先へ先へといっても満足は得られない、人間の欲望はきりがなく、奢侈は人間社会を滅亡に導くと、しばしば警告を発していた。漱石も、つとに西欧文明の弊害、その行く先を見つめていたと思えるのである。

 

子貢のみたもの

漱石は荘子を愛読したという。『荘子』天地篇に出てくる話を付け加えておく。

孔子の弟子・子貢が旅先で農作業をしている一人の老人を見た。近くの井戸から甕に水を汲みあげ、畑に撒いている。大変な骨折りだが効果はさっぱり。子貢はそこで、「撥ねつるべ」というものがあり、まるで流れるように水を汲み上げることができると教える。その農夫は言った。

「吾れこれを吾が師より聞けり。機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり。機心、胸中に存すれば、即ち純白備わらず。純白備わらざれば、すなわち神生(性)定まらず。神生(性)定まらざる者は、道の載せざる所なりと。吾は知らざるに非ずも、羞じて為さざるなりと」

「わしは、わしの師匠から教えられたよ。仕掛けからくりを用いる者は、必ずからくり事をするものだ。からくり事をする者は、必ずからくり心をめぐらすものだ。からくり心が胸中に起こると、純真潔白な本来のものがなくなり、純真潔白なものが失われると精神や本性(うまれつき)のはたらきが安定しなくなる。精神や本性が安定しない者は、道によって支持されないね。わしは『撥ねつるべ』を知らないわけじゃない。(道に対して)恥ずかしいから使わないのだよ」(金谷治・訳注)

魯の国に帰った子貢は孔子にこの話をした。孔子は、その人は、ことの一面がわかっていても両面を知らない。内面の心性のことは良く考えていても外面の世間のことを配慮していないと批判した。孔子の批判は官僚的で面白くない。孔子の話はどこか大都会の秀才の言い分であり、老農夫の話は、どこか東北、たとえばフクシマの里山あたりの引きこもり賢者の言葉に聞こえる。この話は漱石も読んでいたことだろうと思う。だがプリニウスを読んでいたかどうかはわからない。彼はロンドンに留学したが居心地はよくなかったらしい。孤独に苛まされながら読書に励んだというではないか。その読書リストの中にプリニウスの『博物誌』が入っていても不思議はない。また『吾輩は猫である』の寒月のモデルともいわれる寺田寅彦からプリニウスのことを聞いた可能性もある。寅彦は、スウェーデン出身でノーベル化学賞受賞(1903年)のスワンテ・アウグスト・アーレニウスの『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』の翻訳者である。この書にプリニウスの名が出てくる。だが、漱石がプリニウスを読んでいたか否かはやっぱりわからない。

 

 

 

 


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