(一)
国連総会は、今年も、アメリカ合衆国の対キューバ経済封鎖の解除を求める決議案を、賛成188、反対2、棄権3で可決した(10月29日)と報道されている。反対した2国はアメリカとイスラエルである。同趣旨の決議案の賛成採択は連続22回に及ぶという。この2国は一貫して反対し続けている。この2国は非常に似たとろろがある。半世紀以上にわたる経済封鎖によるキューバの経済的損失は、1兆ドル以上に及ぶというではないか。
この報道の2・3日前、イスラエル駐在の日本人特派員が、現地でユダヤ系男性とパレスチナ問題で論議になったが、向こうが、「あの土地は神が私たちに与えた土地だ」と言い張り、議論は平行線に終わったという報告記事を読んだ。
それで思い出したのが、オバマ大統領の就任演説(2009年1月)である。オバマ大統領自身は「神から与えられた土地」とは言っていない。すべての人々は平等、自由で最大限の幸福を追及する価値があるというのが神の約束であると言っているのみである。だが、トクヴィルは「合衆国の民主的共和制の建設を可能にし・・・広大無辺の大陸を彼らに委ねて、自由と平等を長期にわたって守る手段を提供したのは、実に神ご自身である」(『アメリカのデモクラシー』松本訳、岩波文庫、第1巻、196頁)と、オバマ大統領の言いたそうなことを書いていた。いずれにせよ、アメリカは神のお蔭で成立した見解が厳として存在する。イスラエルの人たちとよく似ている。私の財布の底に1ドル紙幣がある。IN GOD WE TRUST (われわれは神を信ずる)と書いてある。ドル紙幣全部に書いてあるそうだ。日本の紙幣には神は出てこない。イスラエルの紙幣は見たことがない。
(二)
オバマ大統領は就任演説で合衆国発展の歴史を概観し、独立戦争でのコンコード、南北戦争のゲティスバーグ、第二次大戦のノルマンディー、ベトナム戦争でのケサンでの米兵の戦死者を賞賛した。コンコードでの戦いは、植民地がイギリス王政の横暴を排除して独立するためのものであった。ベトナムにとっての独立戦争に勝利したホーチミンは「独立と自由ほど尊いものはない」と語った。だが、オバマ氏によれば、合衆国の独立に献身した米兵と、ベトナム独立阻止に身をなげうった米兵とはともに英雄なのである。それに立ち向かったベトナム人は、アメリカの自由に歯向かう悪人なのである。しかし今は、英雄的な米兵は必要ない。無人攻撃機が地球の裏側の敵までも成敗してくれる。
オバマ大統領の就任演説のこの一節は、まことに、アメリカ合衆国の本質を表現した名言だと思う。
「世界における米国のリーダーシップはその民主主義と透明性にかかっている」。これはアメリカ大統領オバマの最近の言だという。アメリカは地球上隈なく情報網を張り巡らし、友好国の指導者の電話まで盗聴している。いまやアメリカにとって「不透明」な世界は存在しないのだろう。属国には機密保護法の制定を強要してまで、自国の「秘密」を守ろうとしている。
(三)
戦後アメリカは日本を占領し、日本人に民主主義を教え込んだ。そのGHQがわが国の各種メディアに対し事前検閲や発禁、果ては編集者の解雇を要求したりしたことなどは数多く伝えられてきた。しかし、一般市民の私信を無断で開封して検閲を繰り返していた。なぜ検閲をしていることがわかったか。封筒の下を切り取り、読後はまた封筒に入れてセロハンテープで封をしていたからである。公然と、何のためらいもなくという感じである。新憲法が公布された後も・・・憲法の人権思想はどうなった? アメリカは神の国、米国人は神の国の人であるから、人権をも左右できるというのだろうか。
今年の5月、毎日新聞が、この検閲を担当したのが日本人で、その延べ人数は二万五千人にのぼること、その名簿が確認されたことを報道した。全く驚いた。検閲していたのはGHQ所属の米国人、あるいは米国籍の日本人だろうと、ずっと思い続けていたから。そしてこの11月5日のNHKは、「新発見GHQ極秘資料"同胞監視"の闇」という番組を放映した。検閲の仕事をした人も二、三人出てきて経験を語った。検閲のアルバイトには、東大・京大・早稲などの学生もいたというので驚いた。その当時私は学生寮にいた。貧乏で毎日腹を空かせ、日曜どころか平日でも時間をこしらえて肉体労働のアルバイトをしていた。わが家も、子どもに学費を送る余裕はなかった。この同胞を監視する役割のアルバイトは通常の2倍の月給だったというではないか。母から来る手紙を検閲していたのは、彼らだったのかもしれない。
当時検閲にあたった日本人はそのことを後々までずっと語りたがらなかったそうだ。今回、数人が勇気を出してNHKの取材に応じた。初めて知ったことも多い。検閲をした人たちにも思いはあるだろう。だが、検閲された方の人間にも思いはある。半世紀たっても悔しさ、腹立たしさは消えない。日本の軍部でもやらなかった蛮行ではないか。
(四)
アメリカのいう「民主主義」がいかに胡散臭いものかは、このことでまず学んだ。その後、在日米軍のなす業によって、「民主主義」のインチキ性について多くを学ばせてもらった。戦後おきた数々のフレーム・アップ・・・民主主義の破壊としか言いようのない・・・それらが今日の日本の「民主主義」に深い影を落としている。
そのころのアメリカ国内にはマッカーシー旋風が吹き荒れ、ほとんどファシズム国家と言っても過言ではない状態だった。あれからアメリカも日本も、その資本主義経済は比較にならないほど深化してきた。ファシズムをどう定義するにしても、それが資本主義社会に特有のものということは一般常識と言っていいだろう。中世や古代や原始社会に起きたなどとは聞いたことがない。より深化した資本主義なら、より深化したファシズムが台頭する可能性がある。ファシズムとはいわないかもしれないが。
安倍内閣はファシズムへの道を突き進んでいるように見える。ファシズムの呼称ではなく「アベノミクス」という呼称のもと。「ハンナ・アレント」という映画がヒットしているそうだが、映画の紹介によると、アイヒマンという人物がナチスの大悪人のように扱われてきたが、アレントは、このアイヒマンは平凡な市民の一人でしかなかったと言っているそうだ。ナチスを支えたのは、そういう平凡な市民たちであったことは以前から指摘されてきた。ファシズムは、波風の無い平穏な社会のなかでも起き、気づいたときにはもう遅いのである。戦後のドイツ人はそれに気づき、反省しているように見える。日本人は全体として半分だけだ。ハンナ・アレントは、ボリュビオス(ギリシアの歴史家)の「始まりはただ全体の半分であるばかりではなく、終わりにまで到達しているものである」(ハンナ・アレント『革命について』志水訳、筑摩書房、266頁参照)という言を引いて警告を発しているが、恐ろしいことである。いま、もう、終わりに到達しているのかもしれないと思うだけでも恐ろしい。
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FM放送でハイドンのオラトリオ「天地創造」を聞いた。わたしにとって
話の内容はどうでもよい。流れる音と声が、心を休めてくれる。
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