静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

コンコルディア(つづき)

2015-03-16 18:46:42 | 日記

 (七)アグリジェントのコンコルディア

 古代ローマにコンコルディアという神がいたことは前述した。日本は昔から八百万の神の国だから、その中にそれに似た神がいるかと思って少し調べてみたが、どうもいないらしい。ただし、夫婦和合の神というのはいる。プライベートな神だが、あるいは人口激減の恐れあるわが国にとって救いの神になるかもしれない。

 それにどういうわけか、わが家には以前からコンコルディア神殿が写っている写真が一枚飾ってある。ただし、ローマのコンコルディアではなくシチリアはアグリジェントの神殿である。もっともこの写真は、前面に大きなオリーブの古木があって枝の向こうに小さく神殿が見え、この古木が主体で神殿はその背景に過ぎない写真である。ガイドにこの木は樹齢何年くらいか聞いたら二千年という。その前に別のところで見かけたオリーブの老木の樹齢を聞いたら、別のガイドだったが、やはり二千年と答えた。この辺りのオリーブの古木はみんな二千年らしい。解説によると、このアグリジェントの神殿は紀元前500年の建造というから、オリーブの古木よりは寿命が長いということだ。いやー、壮大で実に立派な神殿である。感入って眺めていたら、目前を上手から下手へ20人くらいの尼僧が一列になってゆっくり歩いていった。この神殿が比較的に原型を留めながら遺ってきたのは、キリスト教の教会に利用されたからだという。ローマの神とキリスト教の神のコンコルティアかもしれない。

(八)ローマのコンコルディア

コンコルディアは、生まれも育ちもローマである。テヴェレ川の水で産湯を使い、テヴェレ川のほとりで育った。手元の『ギリシア・ローマ神話辞典』(高津著)をひいてみた。「ローマ市内の市民、あるいはその内部の諸団体の和合一致の表徴としての女神、貨幣の刻文や市、ギルド等の碑の銘文にその名が見いだされる。その最古で主要な神殿がフォルムの近くにあった」と素っ気ない。だがその名は、貨幣や碑どころかローマの諸文献にちゃんと記録されており、立派な神である。

 ローマ社会では市民の数ほど神がいたとも言われるが、市民一人ひとりが自分の好きなものを神に祀り上げればいいわけだ。対象は山川草木、動物や人間、思想や観念など、とにかく神に祀り上げたいものは何でも良い。だからこのように言われる・・・「無数の神々、人間の徳のみではなく、悪にも対応する神々、謙遜、協和、叡知、希望、廉恥、慈愛、そして忠誠の女神というようなものがあると信じ(あるいはデモクリトスが考えたように)、刑罰と報酬の二神だけしかないと信じたりすることは、愚かさもさらに高い段階に達しているというものだ」(『博物誌』二)。プリニウスはそのようにいう。

 だがローマではコンコルディアという神が生まれた。誰かの頭に発想されたときがその神の誕生だ。その神を他人にも広めたいというのが人情だろう。社会的に認知させるには神殿の造営がてっとり早い。最初は小さな祠(ほこら)で我慢しなくてはいけない。帝政時代においては神に祀られる皇帝もいたが、その場合元老院認知の、いわば国家公認の神だから、その神殿は最初から立派になるのは当然。

 さてそれではコンコルディアの神殿はどうか。ローマ市内には何箇所か建立されたらしく、それらについてはオウディウス(『祭暦』)、プリニウス(『博物誌』)、プルタルクス(『英雄伝』)、リウィウス(『ローマ建国史』)ほかが書いている。しかし食い違いもあり不明な点が多い。

 紀元前367年、マルクス・フリウス・カミルス(ローマ建国史上の伝説的な人物)は、平民でも執政官になれるリキニウス法を成立させるによって平民とパトリキの間を調停したその記念のために、コンコルディア女神に神殿を奉献したといわれているが、神話の域に過ぎないという説もある。

 プリニウスの説の方に信憑性がありそうだ。解放奴隷の息子グナエウス・フラウィウスはやがて造営官に選ばれ、護民官にもなった。彼は特権身分と平民身分の和解を試み、その成功の暁でのコンコルディア神殿の建立を誓約した。だが公的を果たすための資金が出なかったので、彼は高利貸の罪に問われた人々からの罰金を流用してプロンズの小神殿を造り、それをコミティア(民会等の集会場)にあったグラエコスタシス(ギリシアその他の使節団の特別席)の上に奉献したという。前305年のことである(『博物誌』三三)。

 両説とも神殿の成り立ちを説いているのだが、紀元前500年前と説明されているアグリジェントの創設年とは全くかみ合わない。ひょっとしたら我々の知らない秘話があるのかもしれない。アグリジェントの女神とローマの女神は隠された異母姉妹だったとか??

  (九)神殿は公共建造物?

 独裁権力を握ったスラ(前138-78)はコミティアを大改造して気に入らないものを撤去したりしたが、コンコルディア神殿をどのように扱ったかは明らかではない。彼はカピトリヌスの東の崖に壮大な公文書館(タプラリウム)を作らせたが、その後その東側に、つまりフォルムの西端の小高い地にコンコルディア神殿が設立された。正確な年月は分からない。その神殿もアウグストゥスの頃になると相当損傷してきて、彼の妻リウィアが修繕したとも言われるが異説もある。さらにその後、アウグストゥスの後継者となるティベリウスは、ゲルマニアの遠征(後10-12)を終えると、その戦利品の売上金でほぼ同じ場所に新しく神殿を建造した。アウグストゥスの死(14年)の直前だった(リウィウス『ローマ皇帝伝』、異説もある)。コンコルディアはローマの主要な神の仲間に成長し、その神殿もなかなか壮麗だったらしい。この神殿には多くの絵画彫刻などが奉納され美術館の役割も果たした。神殿が美術館や図書館としての機能を持った例は他にも例はある。実利的なローマ人は神殿をしばしば世俗的な用途に用いた。例えば国庫や会議の場所として。

コンコルディア神殿でもしばしば元老院の会議が開かれた。キケロが元老院議員を集めて、クーデターを企てたカティリーナ一派への弾劾演説を行ったのはこの神殿の階段の上からである(前63)。「階級間の協和(コンコルディア・オルディヌム)」なくしてローマに未来はないと考えていたキケロにとって、この神殿は格好の舞台だった。コンコルディア神殿はこの他にもローマ市内外に造られたようだが詳しくは知らない。 

 ティベリウスの神殿はコンスタンティウス(後293-306)とマクセンティウ-ス(後306-12)の治世のとき焼失したがすぐ再建された。だが15世紀の中ごろになって崩壊し、再建されなかった。コンコルディアは異教の神である。異教の神殿の存在余地はない。その精神も同時に失われたのだろうか。わずかにギルドのような共同体的性格を持った組織で象徴的な意味合いでその名は残されたのかもしれない。

  (十)

ローマ共同体のなかでの階級(身分)間の決定的な分裂を避ける智恵が働いたことについて若干付言する。よく知られていることだが、貴族たちの圧制に反抗した平民たちは何回も市の南にあるアウェンティヌスの丘に立てこもって反抗した。兵力の担い手である平民に背かれては困る貴族はそれに妥協したのである。ローマでは均衡を保ちつつ統一する政治体制が確立してゆく。各身分の内部においても微妙な均衡を作り出した。財産額、社会的責任、年齢、家柄、生活状況などに応じて職能的で開放的でもある階層秩序を構成していた。

 だが、コンコルディアの精神はローマ社会内での階級闘争を回避するための協和の精神だけではなかった。小さな氏族的共同体であったローマは、周辺の共同体との争いや協調のなかで成長した。サビニ人とのくり返される争いなどはその典型例だろう。サビニ人の女性を奪ったことから始まったと伝えられる戦争では、女性たちが両者の戟剣の間に割り入って和解させたという。そしてローマとサビニの二重構造の市(ウルブス)が出来上がったが、ローマ人はこの共同統治の都市の全住民の名を、サビニ人の市の名であるクレースにちなんでクィリテスと呼ぶことに同意した。それはローマ側の譲歩の証しでもあった。後にプリニウスは『博物誌』のティトゥスへの献辞のなかで、「ローマ人に捧げる」ではなく「クィリテスに捧げる」としたが、何百年後にもそういう配慮を行った。サビニ人との闘争と和解の話は伝説の域を超えないのかもしれないが、ずっとローマ社会で語り伝えられてきたに違いない。

ローマの発展は絶え間ない内外における協調と統合の結果だった。協調なくしてはあれだけの地中海世界の統一を成し遂げることは不可能だったろう。彼らは征服あるいは統合した部族・民族・都市の人たちを同じ市民として抱え込み、カラカラ帝のときには帝国の全自由民に市民権を与えた。ローマと属州、ローマ人と非ローマ人の区別もなくした。帝政時代には多くの皇帝、いや、ほとんどの皇帝が旧属領から生まれた。人種や宗教の差別もことさらにはなかった。一神教のユダヤ人は皇帝礼拝を拒否し、自分たちを選ばれた民族と考えたが、そのユダヤ教徒はむしろ他に比べて優遇された。

そして、その根底には普遍的な人間主義があったとする研究家も多い(例えばアラン・ミッシェル)。ローマにおける人間主義の歴史は長い月日のあいだに育まれた。共和制の時代から、人間を人間であるからこそ尊重するという思想、万人の平等という考えを醸成させた。それについては、私はキケロの思想を論じたときに触れた。

もちろんローマは諸種の問題を抱えていた。奴隷の存在を認めるなどはその明白な事象である。彼らの侵略的な軍事行動もそうである。しかしローマの支配層のなかに自らそれらの欠陥を自認し、自己批判・自省を加えていた者も多いのである。例えばタキトゥスはブリタニアの支配において、原住民の指導者カルガクスの言を借りながら、ローマの与える自由が支配のカムフラージュに過ぎないと、ローマ人たちに警鐘を発していた。プリニウスは「カエサルが戦争で119万2千人の人間を殺したことは・・・人類に加えられた途方もない悪事であった」と述べたし(中野里美『プリニウスのローマ』参照)、キケロも手厳しく批判した。

ユダヤ教から分岐したキリスト教は広大なローマのコンコルディアの土壌の中で花を咲かせた。そもそもユダヤ教もキリスト教もその信ずる神は同一だという。12世紀のフランスの神学者アベラルドゥスは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒に共通な道徳を探求したと伝えられるが、そういう流れはあったのだ。だがそれがなぜ死闘を繰り返すことになるのか。すでに4世紀のギリシアの歴史家アンミアヌスは「キリスト教徒は仲間同士ではオオカミよりも残酷である」と表現したそうだが、それは30年戦争の頃までも続くのだ・・・いや、もっと。

 (十一)

フランス革命は典型的な階級闘争による革命だった。ブルジョアジーとプロレタリアートの連合が王侯貴族の封建権力を打ち倒した。この革命のスローガンは「自由・平等・フラテルニテ」であった。明治初期、フラテルニテを「友愛」とも「博愛」とも訳したことから、今日でも両方が用いられている。世界憲法集でも岩波版は「博愛」であり有信堂版は「友愛」である。教科書では筆者の知る限りでは「友愛」である。最初のスローガンは「自由・平等」だったが、後からフラテルニテが加わったらしい。一九世紀のiフランスの歴史家ミシュレは次のように書くことができた。「歴史上のどんな時代にも、これほど人間の心が広く、寛大であったことはない・・・これほどまで階級や党派による区別・差別が忘れ去られたことはなかったと思われる」。だがiその後、一ハ四八年の二月革命でプロレタリアートはブルジョアジーに裏切られて大弾圧を受けた。プロレタリアートにとってフラテルニテは幻影に終わったという歴史がある。 

このフランス語のフラテルニテはラテン語のフラテルネ(fraterne、兄弟のように、睦まじく)からきている。それとは別にラテン語にはフィランスロピア(philanthropia)という語がある。一般的には博愛と訳される。つまり「兄弟愛」と「博愛」とは違った言葉であったが、日本語に訳せばともに「愛」という字が入る。ところがコンコルディアには「愛」は入らない。愛はなくても共同・協調・一致などはできる。愛するどころか憎んでいる相手とでも可能である。いや、むしろそのためにコンコルディアがある。前述のように、憎み烈しく戦ったサビニ人とも和解し統一した。ローマの歴史はコンコルディアの歴史であったし、その精神は一貫して人間関係の軌範となったのではないか。

だからこそ、この女神はローマの偉大な神として祀り上げられるようになった。そして、ローマ帝国の崩壊と共にこの神殿も崩壊した。中世以降、コンコルディアは忘れ去られていたが、フランス革命のとき思い出されたらしい。パリの中心にある広場がコンコルドと呼ばれるようになったのは1795年頃とのことだが、女神として復活することはありえなかった、当然といえば当然である。

 遡れば、フランス革命の自由と平等の精神には古代ギリシア以来の自由と平等の思想が基盤にあったと思うのだが(ソクラテスとプラトンなどの)、だが肝心のギリシア自身にはコンコルディアの精神は生まれなかったようだ。彼らは個人というものに目覚めたが、同じ民族同士いたずらに抗争を繰り返し、自分たちの統一した政治組織さえ作れなかった。その代わり、個性的で人間味のある神々と、『イリアス』や『オデュッセイ』のような神々の活躍する舞台を造りだした。そしてさらにその舞台を背景に絵画・彫刻・建築などで、人類が二度と創造し得ないような芸術を生み出した。

  ローマ人は文化や精神活動の多くのものをギリシア人に負っているが、人間主義の精神もそうである。だがローマ人は、この点においてはギリシア人の精神を乗り越えた。ローマには人間主義の精神を現すものとしてhomo sum ; humani nihil a me alienum puto (私は人間である。私は人間に関することは何一つとして私に無関係だとは思わない)とう箴言があった。これは、テレンティウス(前195頃ー59、ローマの喜劇詩人)の作品に出てくる言葉とされているが、マルクスもこの金言を好んだというし、サルトルが同じようなことを言っていたことを思い出す。そのような人間主義の精神は、西欧において、特にルネッサンス以降復活したかのように見えても、それは著しく普遍性を欠いていたのではなかったか。どうしてアフリカの住民を奴隷として拉致できたのか。どうしてイスラム・ムスリムを差別できるのか。いや、それはアジア人に対してもそうである。

 しかしながら、パリのシャルリーエブド事件で集った50カ国の首脳の、腕を組んでの記念写真には、最前列の中央部にイスラエルのネタニヤフ首相とパレスチナ自治政府のアッバス議長が、オランド仏大統領・メルケル独首相ら4人を挟んで腕組みして立っていた。これこそコンコルド思想の表現なのだろうか。さらにEUやNNTOのお偉方にもコンコルドの精神はあるのだろうか。

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 (メモ)アメリカはイラクだけで100万人以上の殺戮を行ったともいわれる。アフガニスタン他を含めればとんでもない数字になる。○×式テストのように色分けし、アメリカ式民主主義でない国・地域を悪の帝国とかテロ国家・テロ勢力とか決め付けてそれを転覆したり撹乱したりすることに余念がない。9・11を口実にアメリカはアフガニスタン、イラクへの侵略を始めたが、フランスは、シャルリー・エブド事件をきっかけとして「イスラム国」撲滅を理由に空母を地中海に出すことを決め、オランド大統領は「テロとの戦争」を宣言した。安倍政権は日本人2名の殺害事件などを好機として自衛隊の出兵を目論んでいる。アメリカは自衛隊をウクライナ戦線ほかにも協力させたいのだろう。イラクとシリアで自衛隊が空爆に参加していたといううわさもある。もっと恐ろしかったこと;キューバ危機のとき(1962年)、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に核攻撃命令が出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されたことが、元米軍技師等の証言でわかったというニュースがさりげなく新聞に出ていた。テレビに出たかどうかは知らない。その指揮官の判断がなければ、我々は今、生存していただろうか。今も、一万数千発を誇示する米国の核ミサイル網は、北朝鮮・中国・ロシアを取り巻いている。

 

 


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