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静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウス つれづれ(1) クレオパトラの真珠

2016-09-01 18:50:27 | 日記

                  <「Z1 クレオパトラの真珠(プリニウス随想1)」の改訂版>

    

                                                           (一)ローマへ

                     (二)ロリア・パウリナと真珠

                     (三)無二の真珠

                     (四)ポンペイウスと真珠

                     (五)クレオパトラと真珠

                     (六)ハムレットと真珠

                     (七)人と真珠

                                 

(一)ローマへ

 

 一九九四年四月某日。早起きして散策に出かけた。場所はコロッセウムの隣に拡がる広っぱ。公園なのだろうが、私の見立てとしてはただの広場である。ところどころに古代ローマの遺骸が頭だけ出している。ベンチがあったので腰かけた。見回しても人っ子一人いない。朝の空気を吸い、ティベレ川の向こうの丘の風景などを眺めていた。すると、目の前四〇メートルほど先のところを、大黒さまが担ぐような白くて大きな袋を背負った、手足が気持ちよく伸びた背の高い、おそらくアフリカから来た男たち五・六人、それはエチオピアピア人だったかもしれない、その男たちが一列に連なって上手から現れ下手の左の方へ消えていった。  

 

 西暦三六年三月二八日、フォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)で、一羽のカラスのための葬儀が盛大にとり行なわれた。これはカラスの一種ワタリガラスで、ヨーロッパ・北アフリカ・北アメリカなどに分布しているが、日本では冬の北海道に若干渡来する程度らしい。

 ティベリウス帝のとき、カストルとポルクスの神殿(フォルム・ロマヌムにある)の屋根で孵ったワタリガラスのうちの一羽がローマ郊外のある靴店に舞い降りた。このカラスは間もなくものを言う習慣を身につけた。そして毎朝フォルム・ロマヌムに飛んできてフォルムの正面にある演壇に降り立ち、そこから朝の散歩を楽しむティベリウス帝に、それからゲルマニクスとドゥルスス・カエサルにその名を呼んで挨拶し、次に通りかかった公衆に挨拶、それが済むと店に帰るのが常だったとプリニウスは伝えている。この演壇の前には、前三三八年にローマに叛いたアンティウムから奪ってきた船の船嘴(ロストゥルム)が飾られていたので、演壇そのものが船嘴(ロストラ)と呼ばれていた。このロストラはカストルとポルクスの神殿のすぐ近くにある。

 このカラスは、その朝の訪問を何年も何年も絶えることなく続けたので、ローマ市民の人気者になった。ところがある日、靴屋の隣に住む借家人がつまらぬ理由でそのカラスを殺してしまった。それを聞いた市民たちが騒ぎだし、その借家人はその地区から所払いされた。そして、前述したように、そのワタリガラスの葬儀が広場で盛大に行われ、大変な数の会葬者が集まったのである。美しく覆いをされた棺台は二人のエチオピア人によって担がれ、先頭には笛吹きが笛を吹きながら葬列が進んだ。どんなメロディーだったのだろうか。アッピア街道の右側、レディクルス原と呼ばれるところにある第二の里程標石のそばに築かれた火葬壇にはあらゆる種類の花輪が添えられたという。当時は城壁内に墳墓を作ることが禁止されていて、多くは街道の脇に作られるのが一般だった。 

 プリニウスがローマに出てきたのはその一年か二年前、そのときは一二歳くらいだったと思われる。ティベリウスの死は翌三七年だった。プリニウスは書いてはいないが、好奇心旺盛な彼はその葬儀に参列したのだろう。いや、彼は演壇(ロストラ)に止まっているこのワタリガラスとしばしば朝の挨拶を交わしたに違いない。

 プリニウスは一〇歳の頃青雲の志を抱いてローマに赴いた。当時、ローマ帝国の各地から多くの若人が、あるいは政治家を、あるいは法律家を、あるいは文筆家を目指してローマに向かった。彼の故郷はアルプスの麓の都市コムム(現コモ)。ローマまでは直線距離にして約三五〇キロ、東京から滋賀県大津あたりまでか。歩いて行ったのだろうか、それとも馬車か。すべての道はローマに・・・家族ごと馬車に乗って旅行に出かける当時のレリーフがいくつも残っている・・・多分、家族か友人と一緒の馬車だったろう。ローマは、若いプリニウスにとって見るもの聞くものすべて驚きだったに違いない。上述のワタリカラスの葬儀などはそうだった。四十数年後に著した『博物誌』に、葬儀の日付まで入れて記述するほどの印象深い事件だった。 

 

(二)ロリア・パウリナと真珠

                                   

 それから二年後の三八年、ガイウス・カエサル(第三代皇帝カリグラ)が三度目の結婚式を挙げた。相手はロリア・パウリナ。プリニウスはありふれた結婚披露宴だと言っているが、新婦はエメラルドと真珠を交互に織り込んだ衣装をまとい、頭、髪、耳、首、指にいたるまで飾り立てていた。その総額は四千万セステルティウスにも及んだとプリニウスは書いている。なぜ四千万ということが判ったのだろう。多分、宣伝マンがいたのだろう。プリニウスは着飾ったロリアを目の前で見たらしい。十四・五歳の少年がよくもまあそんな席に参列できたと感心するが、よほど有力な後ろ盾があったのだろう。

ロリア・パウリナは数奇な運命をたどった女性だ。執政官級の人マルクス・ロリウスの娘で、最初ガイウス・メンミウスという人物と結婚した。だが、彼女の祖母が絶世の美女であったと聞いたカリグラ帝によって、否応なしにメンミュウスと離婚させられて、カリグラの妻、つまり妃になった。この強引なカリグラは、最初の妻を亡くし、その次に自分の妹ドルシラを二度目の正妻としたが、そのドルシラにも先立たれ、ロリアを三度目の妻としたのである。それが三八年、その結婚式でのことである。だがロリアは翌三九年早くも離婚させられた。そして四一年、カリグラは暗殺される。そのあと帝位についたクラウディウスの三度目の妻メッサリナは放蕩と不倫のせいで殺され、ロリア・パウリナはそのあとの妻の有力候補の一人にあげられた。しかし、妃の座はゲルマニクス(第二代皇帝の養子)の娘ユリア・アグリッピナが手に入れてしまう。元首の妻の座を争ったことを根にもったアグリッピナは、策略を用いてロリアを告発させる。ロリアは国家に対する危険な計画を抱いたという罪を着せられ、持っていた莫大な財産を奪われたうえ、イタリア本土から追放された。さらに追い討ちがかけられ、自殺を強要されてこの世を去った。その経過はタキトゥスが『年代記』で語っている。

 ロリアが四千万セステルティウスもする宝石や真珠を着飾ったのは、少しの間でも人目を引いて、自分がそれらのものに権利があることを記憶させたかったのだとプリニウスは推測しているが、おそらく宝石も真珠も取り上げられたことだろう。実はそれら財産は皇帝からの贈り物というわけではなく、父から受け継いだ財産だった。その父というのは先にも述べたマルクス・ロリウスのことである。この人は、アウグストゥスの忠実で有能な後援者だった。ガリア戦線で大敗するという失敗もあったが、東方でカリグラの同僚および指導者となり、それがティベリウス(第二代皇帝)の敵意を招いたともいわれている。いろいろの経過の後、マルクス・ロリウスはカリグラによって友人名簿から削られ、毒を仰いで死に追いやられたことは、プリニウスの記述によって知られている。プリニウスは、マルクス・ロリウスが全東方の王たちからの贈り物を受けて自らを汚辱したと言っている。実際は贈り物などではなく収奪だったのだろう。プリニウスは、それが毒を強要される口実になったことを示唆している。

 あの美しい娘が、四千万セステルティウスを身に纏って明るい照明のもとで見世物になろうとは! とプリニウスは『博物誌』に書き記した。その彼女は、父と同じように毒を仰いで死に追いやられたのだった。ワタリガラスの葬儀もロリアの結婚式も、少年プリニウスの心に消えない大きな印象を与えた。

 

(三)無二の真珠

 

 プリニウスは、真珠を富と奢侈そして虚栄の象徴として捉えていた。したがって真珠は『博物誌』の格好の題材の一つとなった。

 彼によれば、真珠はカキとあまり違わない貝が、空からの露を受けて懐胎してできるものだ。その露の性質に応じた真珠が生まれる。雷鳴があるとその貝が驚いて急に閉じるので、中空の虚ろな真珠ができるが、これは真珠の流産なのだ。真珠貝が適当な季節に食物を十分摂っていると、生まれる真珠も大きい。裏側が平らで片側がない真珠はタンバリン真珠と呼ばれる。

 真珠はこのような幻想的な生誕説に包まれたうえ、命がけの危険な海中での採取、そして遠いインドやアラビアの、地の果てとも思われる国からの危険な輸送、それらが真珠の価値を否が応でも高めることになった。おまけに真珠は模造品が作れない。プリニウスは宝石の模造については語っているが、真珠の模造については無言だ。一世紀のギリシアの哲学者アポロニオスが、紅海沿岸の住民が貝に真珠を作らせる方法を知っていたことを示唆しているが信憑性はあまりない(『西洋事物起源』による)。

 プリニウスは真珠採りが命がけの危険な作業だということは述べているが、具体的にはよく分からなかったようだ。たまたまファーブルが書いたものを読んだ。それによると、漁師たちは大きな石を結びつけた綱を右手と右足の指でつかみ、鼻を左手でつまみ、左足には袋の形をした網を結びつける。石が投げこまれ漁師は鉛のように沈んでゆく。袋を真珠貝でいっぱいにすると、綱を引っ張って合図する。舟の上の人がそれを引き上げる。半ば窒息しながら潜水夫は獲物を持って水面に出る。呼吸を止めるための努力は非常に痛ましいもので、ときには、血が口や鼻から吹き出してくる。時には片脚をなくして出てくることもあれば、全く出てこないこともある。サメに呑まれてしまうのだ・・・(ファーブル『科学物語』前田訳参照)。プリニウスとファーブルの時代は二千年近く隔たっているから、採取方法も若干異なるかもしれないがそんなに違いはないだろう。真珠採りには昔から悲しい話がつきまとっている。

 真珠の魅力は古代も現代も同じだ。輝き、大きさ、丸さ、滑らかさ、重さにあると考えられていた。ラテン語ではマルガリタ、ギリシアでも同じ。女性の名に用いられる。英語でも古くはマーガライトといい、今のパールもラテン語からきたもので、パールに似た名のつく魚がいろいろある。このように一般にはマルガリタなのだがユニオと呼ばれることもある。ローマだけらしいが。ユニオは単一とか一個という意味がある。同じ真珠は二つとない無二のものであり、そのような稀な性質をもっているからそう呼ぶのだという。天然真珠には個性があったのだろう。特に大きく高価な真珠、たとえばクレオパトラの真珠のような真珠こそユニオと呼ばれる価値があったに違いない。

 この高価な真珠も、ローマの平和が確立し、海上交通も陸上交通も安全になった一世紀の後半のころには大量に流入し、貧乏人でも欲しがるほど一般化していた。そんなに上等のものではないにしても、二つも三つも耳につけて、その触れ合う音を自慢したりした。カスタネットのようなのでクロタリアと呼んだりもした。ローマではカスタネットのことをクロタルムというそうだ。さらには真珠を上着のいたるところにつけるだけでは満足せず、それを「踏みつけ」なければ我慢できない、事実「この無二(ユニオ)の宝石を踏んで歩いている」、つまり靴の紐にまでつけて歩いているという意味だが、プリニウスはそういって非難している。

 中国の戦国時代、趙の国の公子である平原君は食客を三千人も置いたという。その平原君が楚国の春申君に使いを遣わすとき、自分の富を誇示するため使者たちの刀に珠玉をちりばめて行かせた。一方、春申君のところにも三千人の食客がいたが、その食客の大方が朱履(シュリ、真珠を飾った靴)を履いて応対したので、平原君の使者は恥じ入ったという話がある。ローマのプリニウスに先立つこと数百年の話である。履物に真珠をちりばめるという見栄っ張りは、中国からローマに伝わったのだろうか。いずれにせよ、平原君の趙の国も春申君の楚の国もやがて秦に滅ぼされてしまう。足元を見透かされたのだろう。

 さてプリニウスは、真珠は完全にぜいたく品であり、自己満足以外に何の役にも立たない、虚栄のためのものでしかないと断言する。しかもそれは危険を冒して深い海から採ってくるものだが、ローマは、そんな贅沢品に莫大な金を支払っている。「真珠は主としてインド洋が送ってくれる」とプリニウスは表現しているが真珠だけではない。コショウ、各種香料なども送られてくる。今日、インドで大量のローマ時代の金貨が発見されていることはよく知られている。

 その金はどこからもたらされるのか。もう戦勝の賠償金などは期待できない。主としてローマ帝国内の金鉱山で採掘される。その膨大な発掘作業によって自然が破壊される・・・彼はそのように考えるようになる。 

                                                                               

(四)ポンペイウスと真珠                                                    

 

 プリニウスは、「自然の壮麗さは、宝石という、もっとも小さい存在の中に凝縮されている」という言葉を残している。にもかかわらず、富や権力の象徴にそれを用いることには批判的だった。彼によれば、ローマで最初にその宝石の収集を始めたのはスラの養子スカウルスであり、ローマ社会に真珠や宝石を流行させたのはポンペイウスだという。

 ポンペイウスというのは、言うまでもなく、地中海の海賊を退治し、ポントスのミトリダテス王を破り、シリアやフェニキアなどの東方領土を拡大し、第一回三頭政治を行ったあのポンペイウスである。今日、ポンペイウスはカエサルに較べてまるで人気はないが、カエサルと並ぶ武将だった。プリニウスもポンペイウスを「ヘラクレス(ギリシア神話最大の英雄)やリーベリ・パテル(生産と豊穣の神)の輝かしい業績にも比すべき」であり「大ポンペイウスの勝利とすべての偉業の全記録について述べることは、彼一個人の名誉というよりも、ローマ帝国の名誉に関することでる」と極めて高く評価している。対照的にカエサルの戦功を全くといっていいほど評価していない。むしろ批判的である。

 このようにポンペイウスの「偉業」を称えたプリニウスだが、その人間性については辛辣というより罵倒とでもいうべき批判を浴びせかけている。ポンペイウスは三回も凱旋行進を許された幸運な男だったが、なかでも前六一年に行なわれた三回目の凱旋行進は途方もなく豪華絢爛だった。その様子はプリニウスの記述によって知られている。次から次へと宝石や黄金でできた宝物などが運ばれてきた。宝石でできた幅三フィート長さ四フィートもある賭博盤、三台の黄金の臥台、ミネルヴァ、マルス、アポロンの黄金像がそれぞれ三体、その他、説明もできないような豪華な品々。そして三三の真珠の冠、真珠で表現されたポンペイウスの像。この像は、美しい毛髪が額から後方へなびいているたいへん見事な像、つまり「全世界で畏敬されているあの気品のある頭の像」であった。

 ここでプリニウスの堪忍袋の緒は切れたようだ。

 この凱旋行進では、勝ったのは「浪費」、負けたのは「簡素耐乏」である、この凱旋をほんとうに祝賀しているのは法外な「浪費」なのだ、と彼はいう。そして「大ポンペイウスよ、真珠のように金(かね)のかかるものは、女性だけに意味があるのだ。君はそんな真珠を身につけることはできないし、またつけてはいけないのだ。それなのに、身につけるどころか、それで自分の像までつくってしまった。そんなことが君の価値を誇示する方法だと考えるなんて・・・。君がピレネー山脈の頂上にたてた戦勝記念碑こそが、それに勝る君自身の像ではなかったのか」

 プリニウスの言っていることを補足すると、ポンペイウスは若い頃すでにマグヌス(偉大な)という添え名を貰っていたので大ポンペイウスと呼ばれていた。また彼は、ヒスパニアでの戦功を誇ってピレネー山脈の頂上に戦勝記念碑を作らせたのだ。

そもそもプリニウスは真珠自体の浪費を快く思っていなかったのでこのポンペイウスの厚顔さは許すことができなかった。そしていう。「このような真珠の見せびらかしは、むしろ容赦ない天の怒りの前兆と考えるべきだろうが、そうでなくても、大きな醜い恥辱であった。東方のきらびやかさで、いともまがまがしく現された胴体のない顔は、そのときすでに紛れもなく、ある意味をもっていたのだ」。ポンペイウスの像というのは、どうやら胴体のない、つまり胸像であったらしい。

 「ある意味をもっていた」というのは、後年ポンペイウスがカエサルと争って敗れ、エジプトで殺害されたことを示唆している。そして彼はポンペイウスのそのような贅沢が、のち、カエサルがスリッパに真珠を縫いつけたこととか、ネロが真珠で飾った俳優の仮面や旅行馬車などをつくったことなど、そのような浪費を容認しやすくしてしまったと非難しているのだ。先ほどのように、ヘラクレスやリーベル・パテルの業績にも匹敵すると称揚していただけに、プリニウスの怒りと失望には大きいものがあった。

 

(五)クレオパトラと真珠    

 

 クレオパトラがアントニウスの目の前で、真珠を酢に溶かして飲み干したというエピソードは、プリニウスの『博物誌』によって広く知られている。伝聞によるこの話、したがって多分にあいまいさが残るのだが、その話をなぜ彼は伝えたのだろうか。なにか目的があったのだろうか。

 クレオパトラはエジプト・プトレマイオス朝最後の王となる運命を担っていた。はじめカエサルに自身を売り込んでその愛を獲得し子までもうけた。しかしカエサルは暗殺され、彼女は、再びローマの実力者に頼るほかにないと考えたのだろう。最後の力を振り絞って王国を維持しようと必死になっていた。ほかに道はあったかもしれないのに・・・政治や経済の仕組みを抜本的に変えるとか。

 だが彼女には無理だったのだろう。結局彼女はローマの将軍アントニウスを頼ることにした。そして、アントニウスと生活を共にしながらも、あるときは彼のご機嫌をとり、あるときは機略を講じて身を守ることに余念がなかった。といってアントニウスにしても油断はならなかった。

 アクティウムでのローマ軍との戦いを迎えようとしていた頃、用心深いアントニウスは毒見をしない食事は摂ろうとしなかった。そんな折、クレオパトラはアントニウスの頭にいただく花輪の端に毒を仕かけさせた。宴たけなわになるや、彼女は互いに自分の花輪を飲もうと持ちかけた。アントニウスはそこまでは疑わずに、自分の花輪の端のほうを盃に入れて飲もうとした。するとクレオパトラはアントニウスの手を押さえ、「私はあなたを頼りきっている身なのに、あなたは私を用心して毒見ばかりしていらっしゃる。どういうことですか・・・」と嫌味をいう。そして囚人を連れてこさせ、アントニウスが手にした盃を飲ませたところ、囚人はたちどころに死んでしまった。これもプリニウスの伝える話だが、滅亡を予感せずにはおれない二人が、互いに疑心暗鬼になっている様子が伺えるエピソードではある。

 そんなある日、クレオパトラはアントニウスに、一千万セステルティウスの費用をかけた宴会を開いて見せましょうと言い出した。しかしアントニウスは信じない。そこで賭けることになった。さてその当日、宴会が進んでもそれらしい料理はでてこない。いつもの料理と一向に変わらないではないかと、アントニウスが賭けに勝った気分で笑うと、彼女は召使に酢の入った器を持ってこさせた。

 不思議そうに見守るアントニウスの前で、彼女は自分の耳につけていた真珠のうち一つをその酢の中に落し、それが溶けると一気に飲み干してしまった。プリニウスが、全歴史においてもっとも大きかった二つの真珠といっている、そのうちの一つだった。クレオパトラが続いてもう一つの真珠も酢の中に投げ込もうとすると、この賭けの審判役を仰せつかっていたルキウス・プランクスがあわててそれを押しとどめ、「賭けはアントニウスの負け」と宣言した。

 ここでプリニウスは、審判が「クレオパトラの勝ち」ではなく「アントニウスの負け」と宣告したことは不吉な予言であったと述べている。この不吉な予言というのは、いうまでもなくアクティウムの海戦でのアントニウスの敗北を指している。後世、これを「クレオパトラの勝ち」としている解説書もあるが、それではこの話の機微が生きてこない。

 危うく助かったいま一つの真珠は、クレオパトラが逮捕されたとき取り上げられ、ローマのパンテオンのウェヌス神の両耳を飾るために二つに割られたとプリニウスは後日談を残している。エジプトはローマの属領となり、長くローマ帝国に穀物やその他の富を供給することになった。

 

プリニウスは、ポンペイウスの悲運、マルクス・ロリウスとロリア・パウリナの最期については述べているが、クレオパトラの死についてはなんら触れていない。クレオパトラは自身を毒蛇に咬ませて死んだとも伝えられるが、それも果たして事実かどうか? さてこの三つの話のうち、ポンペイウスについては、その凱旋行進を見た人は恐らく数十万人に及んだだろう。ロリア・パウリナの結婚式に臨んだ人はそんなに多くないにしてもプリニウス自身は見ている。それに較べるとクレオパトラの場合、根拠が薄い。宴会場には大勢の人が参会していたかもしれないが、クレオパトラの盃の中を覗くことが出来たのはアントニウスと審判のルキウス・プランクスくらいだろう。それも、きちんと確かめたかどうかは分からない。プリニウスもこの話の出所を示していない。おそらく言い伝えをそのまま書いたのだと思われる。

 プリニウスは前述のように、ポンペイウスやロリア・パウリナ、その父に対し厳しい目を向けた。しかしクレオパトラについては直接批判がましいことは何もいっていない。前の三人がローマ人だったのに対し、クレオパトラは異邦人であり、しかもローマに支配される運命にあった悲運の女王である。プリニウスは一般のローマ人と同じようにクレオパトラには好意をもっていなかったが、ここでは感情を交えず淡々と語っている。むしろアントニウスに冷ややかな目を向けているように思える。

 ずっと後世の風刺作家ラブレーにとって、プリニウスの伝えるこのエピソードは格好の揶揄材料になった。「二つの真珠玉を双の耳に吊りさげただけのエジプトの女王クレオパトラにしても、この真珠一つが、千万両(セステルテイウム)と値踏みされていたのに、それを酢を使って溶かして液体にし、三頭執政官の一人アントニウスの面前で呑んでしまったからと言って、威張れるものなら威張ってみるがよい」

勢い余ったラブレーは続いて「ローマの町の全市民たちの嘆賞の的となった翠玉と真珠とを綾織にして作った衣を着たロリア・パウリナも、勝手に意気揚々とさせて置くがよい」と嘲った上、「さて、このローマという町は、全世界を征服した掠奪辻斬天下御免の強盗どもが巣を構え店を開いているところだということだ」と言いたい放題(『パンタグリュエル物語』渡辺訳)。ラブレーはプリニウスの愛読者だったが、少し読みが浅い。

 

(六)ハムレットと真珠                                                 

 

 プリニウスの『博物誌』は西洋ではよく読まれたので、この話は広く伝わった。そこで誰でもが考えたことは、果たして真珠が酢に溶けるのかということだった。プリニウスはただこのように述べただけである。「召使は彼女の前にたった一つの酢の入った容器を置いた。その酢の強くて激しい性質は真珠を溶かすことができるものであった。・・・彼女は一つの耳輪を外して、その真珠を酢の中に落とした。そして真珠が溶けてしまうと一気に飲み干した」。

 容器の中の液体はアケトゥム(acetum)とある。アケトゥムはどう考えても酢だ。他に「皮肉をいう」の皮肉という意味もあるが、皮肉を盃に入れて飲むことはできないだろう。今までも酢であると解釈されてきたのも当然だ。だが同時にいろいろの疑問も出されている。典型的な一例は『西洋事物起源』の著者ヨハン・ベックマンの考えだ。 

 ベックマンは、真珠の石灰質部分を覆っているエナメルは弱酸に容易には溶けないから、クレオパトラは真珠を砕いて粉末にして溶かし、さらに水で薄めて飲めるようにしたのではないかという。だが、アントニウスの目の前でどうやって砕くのだろう。そもそもプリニウスは砕いたなどとは書いていない。やはり真珠はポトリと盃の中に落とされたのだ。

 一方、『エピソード科学史』を書いたサトリックはその著の中で二、三見解をのべている。その一つは、クレオパトラがあらかじめ酢のなかに何か真珠を溶かす物質を入れていたのではないのかという。しかし真珠を溶かすような物質で人間の胃に害のないものがあるだろうか。その次ぎの見解は、白亜で贋の真珠を作り、それでごまかしたというもの。これについてはサトリック自身、クレオパトラの品性に合わないといって否定している。三つ目のものは、真珠が溶けたふりをして丸ごと飲んでしまったというもの。ありそうな話だが、これまたクレオパトラの品性に合わないし、そもそもプリニウスははっきり溶かしてといっている。これはプリニウスが伝えた話だから、それを疑っていたら別の話になってしまう。

 真珠が酢に溶けるということは当時広く信じられていたようだ。ウィトルウィウス(前一世紀のローマの建築家)もその著『建築書』のなかで真珠が酢で溶けると書いているし、スエトニウス(『皇帝伝』の著者)は、皇帝カリグラが非常に高価な真珠を酢に溶かして飲み、会食者の前に黄金製のパンとお菜を供したと書いている。黄金製のパンとお菜とはなんだろう、ちょっと首を傾げたくなる。

 プリニウス自身もクレオパトラ以前に酢に真珠を溶かして飲んだ人物のことを書いている。たとえば、キケロ時代の著名な悲劇訳者クロディウス・アエソポスの息子クロディウスは、実際に自分の舌を試して見たくて真珠を酢に溶かして飲んだところ驚くほど美味だったので、客たちにそれぞれ立派な真珠を与えて飲ませたという。プリニウスは、この一役者に過ぎないクロディウスの振舞いには三頭政治の一人であったアントニウスも顔負けだと冷やかしている。

ちょっと時代は飛ぶが、一六世紀イギリスの大貴族で大金持ち、グレッシャムの法則で有名なサー・トーマス・グレッシャムは、女王の前でこの上なく見事な真珠を粉々に砕いて自分のブドウ酒にいれ、女王の健康を祝して乾杯したという(『エピソード科学史』から)。この話もほとんど信じられない。どうしてブドウ酒に溶けるのか? こんなわけで、いろいろ説が生まれる。次は、ある権威ある『世界百科事典』の解説。

「クレオパトラがアントニウスを迎えた宴会で真珠をブドウ酒に投げ込んで乾杯したという伝説があるが、ブドウ酒では真珠は溶けないので、つくり話だと見られている。強い酢につけると溶けることはローマ時代から知られていたので、真珠を溶かした酢をうすめて飲んだのかも知れない」

 ここでも真珠をブドウ酒に投げ入れる「伝説」がでてくる。だがもっとも見事にブドウ酒に投げ入れた物語をつくったのはシェークスピアである。

 ハムレットの最期の場景である。小津二郎氏の名訳をお借りする。

 

  王 葡萄酒の盃をテーブルの上に置け。もしハムレットが一回目か二回目に勝てば、あるいは、三回目に雪辱をとげたなら、全城壁から祝砲を放ち、王はハムレットの健闘を祈って祝杯をあげよう。盃には真珠を投ずることにする。四代にわたるデンマークの王冠を飾った真珠より見事なものだぞ。盃をくれ。そうして太鼓をラッパに伝え、ラッパを外なる大砲に伝え、大砲を天に向かって撃ち上げ、地をして天に呼応せしめて、「今こそ王がハムレットのために祝杯を」と叫ばしめるのだ。

 

王は盃に毒を仕込んでいたが、ハムレットより先に王妃ガートルードがそれを飲み息絶える。これまた毒を塗った剣で傷つけられていたハムレットはそれを見て、自分も母親の飲み残した盃を仰いで後を追う。

 シェークスピアもプリニウスの愛読者だった。彼はしばしば『博物誌』からヒントを得ていた。そのことはウェザーレッドが適切に指摘している(『古代へのいざない・ プリニウスの博物誌』)。シェークスピアが読んだのは一六〇一年出版のフィルモン・ホランドによる英訳本だと思う。以前から『ハムレット』は一六〇一年か〇二年の創作だろうと推測されている。ウェザーレッドは〇一年だと見ている。ちょうどホランド訳が出た年である。際どいところだが十分考えられる。そうでなくてもラテン語のテキストならいくらでもあったのだから「クレオパトラの真珠」の話は普及していたに違いない。もしかしたら、シェークスピアはプリニウスのこの話を読んで『ハムレット』のこの幕切れを思いついたのかもしれない。だが、シェークスピアは酢には投げ入れさせたくなかった。酢では白けてしまう。なんとしてもブドウ酒でなければいけない。『ハムレット』の最期はそうでならなければならなかったのだ。

 

 (七)人と真珠

 

真珠貝が真珠を造るのは自分の都合で造るのであって人間のためではない。その真珠を人間は見栄や虚栄や欲望のために採取する。真珠はその美しさから人を魅了し続けてきたが、その過程でたんなる自然物から社会的な生産物・商品に転化する。

真珠にまつわる上記の話は、ほとんど不幸せに終わるか、不幸を予言するような話ばかりであった。もちろん、ハムレットの話はプリニウスの知るところではないが。そして今日でも、真珠は酢に溶けるか否か議論は続けられ実験までしてみる人が現れる、一人や二人ではない。あなたもどうぞ。

                          {2016.09・01}

                                                                  


s11 マルタの海(2)

2016-06-12 21:36:16 | 日記

1989年12月3日、マルタ島沖合に停泊中のソ連客船マキシム・ゴーリキー号の船上で、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が会談し、冷戦締結を宣言した。その地の海岸に記念碑が建てられた。ちょっとしたコンクリートの広場に海を背にして建っているが、まことに殺風景、訪れる人も少ないという。

 ⑦    マルタには教会が多い。何気なく撮った写真に教会が入っていたりする。そのほとんどが、十字軍隆盛の頃の建立によるという。従って建築様式がほぼ同じである。奥の教会から手前にかけてナツメヤシ、テント、ボート、そして水。

  

⑧    ナツメヤシの街路樹、地中海沿岸地帯にはときどき見かけるがこれは見事。

 

 

 ⑨    建物もボートも水に浮んでいる

 

 ⑩    写真を撮らせていただいたお礼に、日本から持参した、小さな貝殻を小綺麗な布で覆った根付を差し上げたら、とても喜んでもらった。

 

 ⑪    マルタの海の水はどこまでも透明である。岸壁から眺めても底が見えず、ただ光も届かないような黒い淵が横たわっている。

 

 ⑫    ここは小さな湾の奥、一人遊ぶ子どもの背後にご老人が五・六人、それぞれの椅子に掛けて海を見つめている。何時間も何時間も・・・写真には写っていないが・・・。 

 

 

・・・・・・・


s10 マルタの海(一)

2016-05-31 12:00:39 | 日記

 s10 マルタの海

 

 マルタはイタリアのシチリア島南方約100キロ、地中海に浮かぶ5つの島から成り立つ共和国である。長い歴史を持つ。新石器時代には巨石文化を創り上げ、中世には十字軍(ヨハネ騎士団)の要塞として名を馳せた。また、その地中海交通の要衝としてしばしば外国に支配され植民地化されたが、1904年英国から独立、1973年共和国憲法を公布した。ちなみに日本は「共和国」という名称をもったことがない。

マルタには山も川もない。降雨量は少ない。だが、海が陸を侵略したのか陸が海にはみ出したのか、湾や入り江が深く食い込んでマルタ特有の景観を示す。

 ①    これは川だろうか、海なのだろうか。マルタにこんな大きな川がある筈がない。

 

 ②    岸辺には広くゆったりした道路が何キロも続いている。 

 

 

 ③    冬なのに幼児からお年寄りまで散歩を楽しむ。

 

 ④    「お嬢ちゃん・坊ちゃん、日本という国から来ましたよ」

 

 ⑤    バレッタ(首都)の街頭風景。

 ⑥水深は深く、良港にめぐまれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


魅惑のアマルフィ海岸

2016-05-12 11:56:50 | 日記

 

                                                                 

        エーゲ海の夜明け

 エーゲ海沿岸は、複雑な海岸と地中海性気候という条件のもとに、大規模な灌漑を必要としない麦や果実を主要産物とする農業を生み出し、山岳と海岸の狭間に数多くの集落を発生させた。そして、貨幣を媒介とする人と物の交流する場が発展し、そこからフィロソフィーやデモクラシーが生まれ、やがて都市国家へと進展する温床となった。

 蠱惑的な昼の青い海と輝く太陽を予告するような、静かなエーゲ海の夜明け。世界のどこにでもあるような日の出ではあるが・・・。

                                 (クレタ島 クノッソス宮殿近くのヘルソニソス海岸)

                                                          

 

 

         ティレニア海の太陽

 南イタリアとシチリア島に囲まれたティレニア海は、神話の舞台でもあった。オデッセイウスはこの海をさ迷わなければならなかったし、魔女キルケーの住むアイアイエ-島もこの海の近くだ。世界最古の海運法典、アマルフィ航海法を生んだ中世の海運共和国アマルフィは、この海のイタリア本土側にある。大気の中に太陽が満ちている。                     

                                                                 ( アマルフィ海岸 ヴェッティカ・マジョーレの展望台)

                                                 

  

   

     眼下の街、ポジティーノ

 この展望台から眺めたポジティーノ。アマルフィ海岸に限らないが、イタリアでは山頂、山腹、山麓、谷間などに集落が数多くつくられている。その中には、中世どころか古代の建造物を今なお利用している例もみられる。

 

 

    アマルフィの代表的建造物ドゥオモ(大聖堂)と階段下の広場

 

 

    アマルフィの市街地に連なる海岸線

 

 

 

 

 

 


s08 古代国家ペトラの遺跡

2016-02-28 15:04:10 | 日記

  古代国家ぺトラの遺跡

  シリアのパルミラは砂漠の中に咲いた都市であったが、ヨルダンにあるぺトラは山に囲まれた都市であった。

 「ペトラという名の町に住むのはナバタエ人だ。その町は幅が2マイルにも足りない深い谷にあって、その谷の間を一本の川が流れているが、そこは近づくことが出来ない山々にかこまれている。ペトラで2本の道、シリアからパルミラに通ずるものと、ガザから来る道とが会する」(『博物誌』)。

 千年以上前からペトラ周辺には幾つもの種族がいたが、前一世紀頃ナバタエ人が支配する都市になったらしい。だがまもなくローマに支配されローマの一都市となった。

プリニウスは幅2マイルに足りないというが、繁栄期には20万の人口を擁したとも言われ。信じがたい気もする。しかし交通の要衝として栄え周辺に領土を拡張し、ローマの文物を取り入れ、灌漑用水路も整備するなど都市機能も整っていたようである。山中なので農業には向かないが果樹などは栽培されていた。プリニウスは、このペトラからもたらされるミュロバラヌム<香果>という果実は香り豊かで、その名の通り絶品であると称揚している。ペトラの発掘はまだわずかだが、それでも多くのローマ風の都市作りの足跡を見ることができる。

 

1、 断崖の中を行く

山に囲まれたぺトラに入る道は幾つかあったようだが、今は大方がシクと呼ばれる断崖に挟まれた狭い道を辿ってゆく。この地方の山塊は水成岩だから比較的柔らかで、しかもこの地はしばしば大雨によって洪水にも見舞われた。シクという隧道のような道は、激しい水流によって穿かれたのだろ。 

 

  

2、ぺトラの表徴カズネ

 シクを歩いてゆくと突然視界が開き、真正面にカズネ・ファルウン(ファラオの宝物庫と呼ばれる)が現れる。しかし宝物庫でもなく墳墓でもない。これはぺトラ国のモニュメントだ、私見だが。

 

  

3、カズネの中から

 カズネの中、奥行きはほんのわすか。集会などができる場所ではない。中から見た広場の風景。左手先に見える岩の裂け目がシクへの出入り口。結局このモニュメント的な構築物は何の実用にも適さないということ。人間はしばしば無用の長物を作る。このカズネがなんであろうと原爆を作るよりずっとましだ。

 

 

4、ローマ劇場

 カズネの岩塊の後ろに回ると、ぺトラの遺跡が広がる。破壊が激しいのと発掘が遅れているために、素朴でのどかな風景だ。この劇場もローマ風である。背後に山が見える。山のなかの劇場だ。