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静かの海

この海は水もなく風も吹かない。あるのは静謐。だが太陽から借りた光で輝き、文字が躍る。

プリニウス つれづれ (7)エッセネびととヤシの木

2016-10-24 20:20:50 | 日記

]       <「Z8 エッセネびと プリニウス随想(8))」の改訂版>

 

                    (一)(死海のほとり

                    (二)ユダヤ戦争

                                                         (三)ナツメヤシを唯一の友として    

                    (四)人の生と死 

 

(一)死海のほとり

 

死海に浮かぶ

 ヨルダンにある死海は独特の魅力を持つ観光地だ。かつて死海に遊んだとき、同行のU氏は一冊の書とパラソルを携えて水辺に降りてきた。昔、教科書に、死海の水に浮かびながら本を読んでいる人の写真が載っていた、前からそれをやりたかったのだという。左手にパラソル右手に本を持ち、バランスを取るのに若干苦労したが見事成功。岸辺の観光客は拍手喝采。Uさんはほんとうに嬉しそうだった。その日は空も晴れて・・・晴れて当然だが、空気も澄み・・・これも当然、気分のいい日だった。湖面に浮かんで西の方を眺めると、昔ユダヤ人が城塞を築いて抵抗したマサダの峰が望見できる。クムラン洞窟(後出)のある丘も見える。昔、湖畔に繁茂していたナツメヤシの樹影は見当たらない。今この地は、野菜や果物が豊富に採れる豊かな地だという。二千年前、この死海の様子はどうだったろう。

 

ヨルダン河の水源は、後に述べるカエサレアがそのまたの名をそれからとっているパニアスの泉である。それは心地よい流れで、その地方の流れが許すかぎり蛇行して、両岸に住む人々のご用をつとめ、あたかも、あの陰鬱な湖、死海(アスファルティテス湖)へと進んで行くのがいやでたまらぬというふうであるが、ついにそれに呑み込まれ、いたく賞揚されたその水はその湖の有毒な水に混入して姿を消してしまう(『博物誌』)。

 

 さらに次のような記述が続いている・・・死海の唯一の産物は瀝青で、そのギリシア語が、この湖がアスファルティテスというギリシア名をもつ所以である。湖水の中ではウシやラクダなどの動物も沈まない。沿岸にカリエロという医療価値のある温泉がある。死海の西側の沿岸の「毒気地帯」の外部に孤独な種族のエッセネ族が住んでいる。これは全世界の他のすべての種族以上に珍しい種族だ・・・。

濃い塩水が「有毒な水」であるというのも合点がいかないが、この「毒気地帯」が何を意味するかも不明で、今日でも議論がある。その死海の西海岸に沿って不毛の山岳地帯が連なっている。その北の方の湖岸から少し離れたところで”世紀の発見“という事件が起きた。

 

クムランの洞窟 
 第二次大戦後、国連での、アメリカ合衆国主導のパレスチナ分割案の採択によって、この地でのユダヤ人による建国が承認された。一九四七年一一月のことである。欧米列強の新型支配の始まりである。第一次中東戦争が始まったのはこの直後であるが、その前からすでにユダヤ人とパレスチナ人の対立が激化していた。そういう情勢の中で、その年の春、死海西岸の断崖にある洞窟で、ベドウィン族の少年が偶然亜麻布にくるまれた巻物を発見した。この洞窟はそのあたりの地名クムランから、クムラン洞窟と呼ばれている。それ以後もこの近くの洞窟から写本が続々と発見された。

 一括して「死海文書」と呼ばれるようになったこれらの大量の写本は、聖書の各書、外典書、宗団の文書などであることが分かり、世界に大きな衝撃を与えた。聖書やキリスト教の由来について大論争を巻き起こすことになる。
 そしてさらに一九五一年、このクムラン洞窟のある断崖と死海の間の海岸で、埋もれていた古い石造建造物や墓地などが発掘されたのである。調査の結果、石造建造物の方はいわゆるエッセネの人々の住居跡であったことが判明した。

 その後も遺跡の発掘は続けられ、それに伴い数多くの研究書も世に出た。発見された書類には未公開の部分もあって全貌が明らかになったとは言えないらしい。門外漢の筆者には深い霧の向うであり、言えることは何もない。このエッセネに関して伝えている人物は何人もいるが、主要な資料を残したのはユダヤの歴史家ヨセフス(23―79)、同じくユダヤ人哲学者フィロン(前30頃―後45頃)、そしてプリニウス(23<24>-79)である。

 

ヨセフスによるエッセネ

ヨセフスは『ユダヤ戦記』と『ユダヤ古代誌』でエッセネについて相当詳しく述べている。それによると、ユダヤ人の間には三つの形の哲学があり、第一の派の者はパリサイびと、第二の派の者はサドカイびと、第三の派の者はエッセネびとと呼ばれる。最後にあげた派はもっとも高い聖性を目指して訓練するという評判である。翻訳者の秦剛平氏によると「哲学」は宗派のことである。だから一般には「エッセネ派」というように呼ぶし、ユダヤ教の一宗派と見なされている。『ユダヤ戦記』の執筆は後七五年頃から八一年頃まで、『ユダヤ古代史』の完成は九三年から九四年頃、いずれもプリニウスの『博物誌』の完成(七七年)の後である。

 ヨセフスの『戦記』では次のように書いてある。エッセネびとはユダヤ民族の者である。快楽を悪として退け、自制につとめ、情欲に溺れないことを徳とする。結婚は軽蔑するが、他人の子を引き取り、自分たちの慣習で型にはめる。結婚やそれによる後継者作りを非難しないが、奔放な性から我が身を守ろうとする。富を軽蔑する。財産は共有である。自分の所有物を全員のものにする規定がある。エッセネびとは一つの町に住んでいるのではなく、どの町にも大勢いる・・・。そして、エッセネびとの一日の生活ぶりが丁寧に描かれている・・・たとえば用便のために各自のスコップで穴を掘ってそこで用を足すなど・・・だがそれは省略する。

 『古代誌』は『戦記』と少し違う。いっさいのことを神の手に委ねる。霊魂を不滅のものと見なす。神の義に向って一歩でも近づくよう努力する。一般の人びととは異なる清めの儀式で犠牲を捧げる。ひたすら農事にのみ励む。財産は同志と共有する。その共同生活の中に妻を伴うことはなく、奴隷を所有することもない。手ずから働き、人のいやがる卑しい仕事も交代でおこなう。


プリニウスによるエッセネ族
 プリニウスはエッセネをgens=種族としていて、ロエブの英訳版でもtribe(種族・部族)と訳している。プリニウスはヨセフスと違って、エッセネをユダヤ民族に属するともユダヤ教の一宗派であるとも言っていない。人種・民族・宗教には全く触れていない。そしていう、
 

彼らは婦人というものをもたず、すべての性欲を絶ち、金銭を持たず、ただヤシの木だけを友として(socia palmarum)いる・・・日々、人生に疲れ、運命の波によってそこに追いやられた人々が多数、彼らの生き方を生きようと加わってくるので住民が補充され、同じ数を保っている。このように、何千年という年月―こんなことを言っても信じ難いことだが―、一人も生まれてこないのに一種族が永久に存続するのだ

 

 (二)ユダヤ戦争

 

プリニウスとヨセフス
 ローマ皇帝ネロの統治の晩年の六六年にユダヤ人が反乱し、いわゆるユダヤ戦争が始まった。その原因や戦争の経緯についてはヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しい。中国の『史記』や『三国志』を思い出させるところがある。ウェスパシアヌスは長子ティトゥスとともに六七年、大軍を率いてガリラヤに進軍してその地の反乱を鎮圧、六九年にウェスパシアヌスが帝位についてからはティトゥスが代わってローマ軍の指揮をとり、七〇年にはエルサレムを包囲し、半年の攻防戦のすえ攻略した。
 このイスラエル攻略の軍団にティベリウス・ユリウス・アレクサンデルという指揮官がおり、ドイツの歴史学者モムゼンによるとプリニウスはその副官であったという。
このアレクサンデルは、ユダヤの名門の出であり、先ほど述べたユダヤ人哲学者フィロンの甥で、ユダヤの皇帝代官、エジプトの総督を勤めた人物である。つまり、ローマの高官であったこの人物は、ユダヤ人でありながら、ローマのユダヤ反乱鎮圧軍の指揮官を勤めたことになる。彼はウェスパシアヌス帝の擁立にも功績があったといわれる。

このプリニウスに関するモムゼン説には異論があり、プリニウスがアレクサンデルの副官であったというのも確実ではない。プリニウスがティトゥスとテント仲間(戦友)であったことは知られているが、どこの戦場でであったかははっきりしない。ユダヤ戦争でと考えられないでもない。『博物誌』の中で、ユダヤに関する直接的経験に基づくと思われるような記述が多いことも、ユダヤ遠征に加わったことの裏づけとされている。だが彼は、ユダヤについて書いてはいるが、ユダヤ教やキリスト教についてはまったく触れていない。それなのに、エッセネ族については上掲のような短いが印象的な文章を残した。

一方ヨセフスの方だが、彼はユダヤ戦争のおりユダヤ方の指揮官としてガリラヤの町ヨタパタを死守しウェスパシニア軍を苦しめたが捕縛された。だが六九年ウェスパシアヌスが皇帝に推戴されるとすぐ釈放された。彼が、ウェスパシアヌスの即位を予言したからだという。以後ヨセフスはローマ軍に奉仕する。エルサレム攻撃のときに司令官ティトゥスに助言をしたり、エルサレム陥落の現場にも立ち会ったりしている。戦後もウェスパシアヌスやティトウスに保護・優遇され宮中に出入りしていたから、当然プリニウスとは面識はあっただろうし、語り合ったこともあろう。しかし『ユダヤ戦記』の完成はプリニウスの死後なのでプリニウスはそれを読んではいない。


 エッセネびとの共同生活

 ヨセフスはユダヤの名門の出だからユダヤに詳しいことは当然である。逆にプリニウスに曖昧さが残る。だが彼の記述にも有力な手がかりがある。それはエッセネ族の居住地である。先ほども述べたがそれは死海の西岸で、岸辺から少し離れたところにある。そして彼は以下のように述べている。そこから南へ行けば肥沃な土地とエンディゲの町があった。そこではエルサレムに次いで豊かにヤシが生い茂るところだったが、今はエルサレム同様死の灰の山にすぎない。そして、さらに南下すると岩の上の城砦マサダが死海から遠くないところにあると書いている。

このプリニウスの叙述は、後世の人たちに深い印象・感慨を与えた。たとえば『ローマ帝国興亡史』の著者ギボンは、「プリニウスの哲学的な眼は、死海のほとり椰子の木々の間に住むこの孤独な人々を驚きの念で眺めた」(朱牟田夏雄訳)と記した。
 プリニウスの記述にはあいまいな点も多いのだが、後世の人が感銘を受けるのは、その事実よりも、プリニウスの人生観を反映したようなその文章の茫洋さであったかもしれない。「金銭をもたず、ただヤシの木だけを友とし」という一節はとくに印象深かったのかもしれない。

 このように修道僧のような暮らしをしていたエッセネ族の人たちは、一切の私有財産・私物もない共同生活をしていたので、内部的には貨幣は必要なかったのだが、教団として外部と折衝するためには貨幣も必要だったのだろう。発見された貨幣と周囲の状況によって、この建物は紀元六八年に戦火に見舞われたと考えられている。つまり、エッセネの人々はこの年、ローマ軍と戦い敗れて消息を絶ったと考えられる。この年、ガリラヤに進軍したウェスパシアヌスが死海を訪れたという記録がある。したがってクムランにも来ている可能性がある。
 プリニウスが、岩の上に城砦があると記したマサダは、六六年に駐留ローマ軍を撃破してユダヤ人約千人が立てこもり、エルサレム陥落(七〇年)後も三年間ローマ軍に激しく抵抗し、ようやく七二年に滅ぼされたところである。だがプリニウスは城砦があると書いているだけである。

 

(三)ナツメヤシを唯一の友として

 

 先ほどのギボンの「椰子の木々の間に住む」の椰子はラテン語でいうpalmaである。英語ではpalmでヤシ科植物の総称らしい。日本語でもヤシはヤシ科の総称とされている。だからココヤシもナツメヤシも、またシュロもそこに入れている。「遠き島より流れ寄る椰子の実一つ」の椰子はココヤシである。ココヤシは主に太平洋上の島嶼などに生育し、その果実は直径三〇センチほどにもなる。表皮は硬く海流に乗って漂流もする。シュロは中国大陸やその周辺に多く生育している。日本では普通に見受ける樹木であるであって珍しくない。

 『博物誌』でいうpalma はナツメヤシである。地中海周辺の温かい地に自生する。ナツメヤシの果実は、昔から主要な食品とされてきた。聖書の生命の樹のモデルもこの木だという。もっと古くでは、ホメロスもとりあげている。帰国の途中、難船してスケリアの島に打ち上げられたオデュッセイアは乙女ナウシカアに出会う。そして、「その昔デーロスでこれに匹敵するものを見たことがある。それはアポローンの祭壇のそば近くにすくすくと生え出た椰子の若木です」と彼女に話しかける。そして、「いまだかってこのように立派な若木が地の中から生え出たことはなかったので、それを見た時、長い間わたくしは驚嘆していたが、同じように、あなたを見て・・・」(『オデュッセイア』第六巻、高津春繁訳)と続くのである。数多くホメロスを援用しているプリニウスがこの話を知らないはずはない。

 クセノフォン(前四三〇頃―三四五)の『アナバシス』にもナツメヤシの話が出てくる。クレアルコス率いる部隊が、増水した川を渡るためナツメヤシで仮の橋を作ったことや、進軍途中のあるでの椰子酒、椰子の実を煮て作った酢、食品としてのナツメヤシの実の話などである。ヘロドトスもすでに「(バビロンの)平野にはいたるところ棗椰子(ナツメヤシ)が生えており、その大部分は実を結び、彼らは木の実から食物や酒や蜜を作る」と書いていた(『歴史・第一巻、松平訳』)。

元来ナツメヤシの葉はいろいろに利用されてきた。プリニウスによると、アレクサンドロス大王がエジプトのアレキサンドリアを建設したときまで、この葉に文字を書いていたという。プルタルコス(46頃―120以後)はこの葉が冠に用いられたいう(プルタルコス『食卓歓談集』、柳沼訳はシュロとしているがすべてナツメヤシにした)。また実については、プリニウスは、このナツメヤシはヨーロッパ、イタリアやスパニアの沿岸部にもあるが、気温が低いので実がならないか、実を結んでも熟さない、地中海沿岸の本当に暑い国にだけ実を結ぶと指摘している。『食卓歓談集』でも、ギリシアのナアツメヤシの実はガリガリのままだから食べられないが、シリアやエジプトのものは見て楽しく、干した果物の中でこれほどうまいものはないと書かれている。さらにプルタルコスは、作中人物のテオンの言葉として「バビュロニア人は、この木は彼らに三百六十通りの仕方で役に立ってくれると称賛の歌を献じているが、我々ギリシア人にとってはこの木はおよそ役に立たない。しかし、この木に実がならないということも、体育の哲学でも考えるなら役にたつだろう」

ファーブルは、「ナツメヤシは雌雄異株の植物で、その実はアラビア人の主要食物である。砂漠の中の、水に恵まれ土地に生育する。アラビア人は雌株の木だけを植える。花盛りの時期になると、彼らは雄株の花粉を採るためにどこまでも出かけて行く」(『科学物語』)などと書いている。エッセネ人も同じようなことをしていたのだろう。

プリニウスは、ナツメヤシの栽培法やその種類・性質などを多岐にわたって説明している。幹は建材や用材としてはもちろん、燃料として、あるいは木炭の原料にもなる。葉は漆喰の代わりに壁の材料に、また編み物細工用などに用いられる。果汁は品種や栽培地などによって味も用途も多様である。酒造の原料にする地方ある。果汁の少ない椰子の実を乾燥させて粉に挽きパンを作たりする。もちろん果肉は食用である。彼はナツメヤシの種類は四九もあるという。中でも著名なのがユダヤのヤシで、香料のための軟膏作りに最適であり、また、果実がいちばん長持ちする種類だという。このように多様な用途をもち、日常生活に欠かせないナツメヤシだからこそ唯一の友だったのだろう。なお、友を意味するsocia には、女友達、女の仲間、女の配偶者の意もあったらしい。

 

(四)人の生と死

 

生きること

ヨセフスはユダヤ教の信者である。ローマ帝国は個人の信仰については自由に任せている。ローマ軍に降服したからといって信仰を変える必要はない。当時のローマでは人間の頭数ほどの神がいたとも言われた。人々は自分の好きな神々を礼拝する。 二千年ほど前のプリニウスは無神論者だと思われている。「人間にとって、人間を助けることが神である」という言葉はプリニウスよるものとしてよく知られている。彼は、神というものは人間の弱さや無知による産物に過ぎないといって、その論拠をいろいろ書き並べた。だから彼はローマの神々もユダヤ教の神もキリスト教の神も、そしてまた霊魂の存在も信じなかった。彼が霊魂について語った一節はいろいろな書が引いているが、長いからその最後の方の一部を引く。「霊魂は天上界にあって感覚を保持しており、幽鬼は下界に留まるなどということが事実だとしたら、同時代の人びとにはどんな安息が得られるというのか。たしかに、この甘美ではあるが軽々しい想像は自然の主要な恵みである死を打ち壊し、死に臨んでいる人に、今後にも来るべき悲しみまで考えて悲哀を倍加させるのだ」。

このようにプリニウスは、ヨセフスが説明しているような、霊魂が永遠に存在するとか一切を神の手に委ねるというエッセネびとの思想は無視している。真正面から批判することもなかった。それだけでなくエッセネびとの種族・民族とのかかわりにも全く言及しなかった。述べていることは、私有財産はなく共同生活を送り、女性との交わりを拒否し、人生に疲れ運命に追いやられた人々が参入することによって構成員の数が維持されているということだけである。そこに焦点を合わせた記述である。彼は『博物誌』の真の主題は「生命」であるといっていた。特に人間の生命は最重要な主題だったろう。

彼はしばしば幻想的な話をする。たとえば、アフリカの内陸部に住む、人類の文明の水準以下に落ち込んでしまっているアトランテス族の話、言語も持たない穴居族の話など・・・これらはみなヘロドトスなど他人の話の受け売りであり、いい加減な話ではある。いい加減な話だとわかっていてそれを書いたのだろう。
 黒海の北の極北に住むヒュペルボレア人といわれる人々のことも書いている。彼らは不和とか悲しみを知らず非常に長寿だ。生に飽きると最後のご馳走を食べ、高い岩から飛び下りる。これは古くからギリシアに伝わる伝説であり、プリニウスはその出典も示している。

彼はまた、貨幣を持たず物々交換で暮らしているセレスの人たちのことを書いた。タプロバネ(スリランカ)については原始共同体の名残のある素朴な王政について描いた。また、北ドイツの北海に面した低地でささやかな漁業に従事するカウキ族というゲルマン人の生活を描いた。カウキ族ローマ帝国の支配に屈することを潔とせず、貧しくても誇り高い共同体の生活を送っている。これはプリニウス直接の見聞だ。
 エッセネ派についてのプリニウスの記述が相当あいまいだということは前にも述べた。だが故意に曖昧にしているのかもしれない。彼のように多くの情報源を持った人間にしては不可思議なことだ。彼はエッセネ人たちにベールを被せたのだろうか。日々の生活に疲れた人たち、運命にもてあそばされた人たちがやってきて、そのため何千年という年月にもわたって住民が補充されてきたなど誰が信じよう。プリニウス自身が、「こんなことを言っても信じがたいことだが」と書いていたように、ほんとうは彼自身が信じてはいなかったに違いない。だが、言いたいことを書こうと思ったのだ。

アキレウスのウマ

一九世紀の人ハイネは次のように述べているそうだ。「死ぬほうが生きるよりましであり、いちばんよいのは生まれてこなかったことである」と。だが、そういうことを言った人はたくさんいるに違いない。まずプリニウスはこのようにいう。人間のたった一つの過ちは生まれてきたということである。だから、受罰をもってその生涯を始める。人間は裸のままで生まれてきて、生まれるやいなや大泣きする。他の動物にそんな泣き虫はいない。そして、手足を邪魔もの(衣類など)に包まれて泣きながら横たわっているだけだ。・・・こんな出発をしながら、自分たちは誇りある地位に生まれてきたのだなどと考える者がいるとは、なんたるたわけたことだろう!人間は教育によらなければ何一つ知らない。ものを言うすべも、歩くすべも、食べるすべも知らない。生まれながらできる本能といえば泣くことだけだ。従って、生まれてこなければよかったとか、できるだけ早くこの世からおさらばした方がいいと信じた人々も多かったのだ・・・と。

たしかに、生まれてこなければ死の恐怖もなく、病気もなく、貧困もなく、人生を悩んだり不幸と感じたりすることもないのだ・・・共感者の多いことも頷ける。

トロイア勢と戦って討ち死したアテナイの将パトロクロスの死を、涙を流して悲しむアキレイスの馬たちを見ながらゼウスは、この不老不死の馬たちを死ぬべき運命にあるペレウスに贈ってしまったといって嘆くのである。そして、この地上で呼吸し、うごめいているありとあらゆる生類の中でも、人間ほど哀れで惨めなものはないと思うのであった(『イリアス』一七―446)。

ハイネは確かに短命だった。しかし彼の文章や詩はいかに多くの人に慰めや勇気を与えてくれたことか。プリニウスは死の間際まで人を救い自然の真実を探ることに自分自身をささげた。不死の馬たちが流す涙は、死を知らない自分たちの悲しみの涙であるかもしれない。

 

 


プリニウス つれづれ(6)博物学者ファーブル

2016-10-10 16:56:35 | 日記

KE 

     <「Z6博物学者ファーブル プリニウス随想(6)」の(改訂版>

                   

                                                                    (一)  図書館炎上

                                                                    (二)  博物学者ファーブル

                                                                    (三)  海洋画家飯塚羚児とプリニウス

                                                                    (四)  プリニウスとファーブル

 

(一)図書館炎上

 

一九二三年九月一日、寺田寅彦は上野の二科展を見に行き、喫茶店で紅茶を飲んでいるとき急激な地震を感じた。かつて経験のない大地震だと思ったが、その建物は安全だと直感した彼は、直ちに強震の経過を観察し続ける。夜になって東京大学の様子を見に行く。図書館の書庫が燃え盛る様子をガラス越しに見る。あたりには人影もなく、ただ野良犬が一匹、そのあたりをうろうろしていた。鬼気迫るような情景である。この火事で専門書約七五万冊が焼失した。旧幕時代からの蔵書はもちろん、和洋漢の貴重書も大量に失った。なんと軟な図書館だったのだろう。

しかしすぐさま国内外から多くの援助が寄せられた。ヨーロッパ諸国、とくに日英同盟を結んできたイギリス(一か月前に同盟は解消していたが)からは大量の図書の寄贈を受けた。その中にプリニウス関連の書も多く含まれていた。その詳細は知らないが、『博物誌』のテキストで、全巻揃っていないものも含めて二〇数種類ほど、解説書・研究書等が約五〇種類ほど・・・いずれも大まかな推測ではあるが、わが国で容易に入手できるものではない。その中の一冊にフィルモン・ホランドによる英訳の『博物誌』(THE  HISTORIE  OF  THE  WORLD)の初版本があった。最初の英訳本である。シェークスピアの『ハムレット』と同じ一六〇一年の出版である。この『博物誌』は、エリザベス朝の馥郁とした文化的雰囲気を伝えていると評価され、自然科学だけでなく文化一般や思想界にも広く影響を与えた。このホランド訳は、数ある『博物誌』のテキストの中でも、その歴史的価値は屈指のものであり、英国から寄贈されたこの書を同図書館では「貴重書」に指定している。

 長らく大学で科学史を講じていた橋本万平氏は、「講義をやめた今になって」プリニウスの『博物誌』が欲しくなり、大枚をはたいて上記東大図書館蔵のものと同じホランド訳を購入した。そのときの心底を氏はこう語っている。                                          

  どうしてかプリニウスを「買え、買え」と心をつっつく奴がある。二十年近くいい加減な話をして、数千人の学生をあざむいた罪ほろぼしに、これくらいの金はなんだ。お墓一つ造るのにも百万から二百万の金がいる今の世の中だ。極楽往生の切符を手に入れるつもりで買ってしまえ、と執拗にささやく。そして井上書店で買ってしまった。(『素人学者の古書探求』1992より)。

橋本氏がこの書を購入したのは一九九〇年の頃、つまり、いわゆるバブルのころだろう。そのころ、海外から貴重な書、稀覯本などの多くが我が国に流入したものと思われる。

明治のはじめ、文部省から『百科全書』と呼ばれる全集が刊行された。この書はイギリスのエフライム・チェンバーズ(1680-1760)の“Information  for the People”の全訳とされている。一八七三年(明治六)に計画・準備が始まり、発行は七四年から八〇年にかけてで、全九二冊である。多大の費用と多くの学者が動員された。どれも百ページあまりの小冊子である。天文・地質から始まって植物・物理・化学・鉱物・土木・建築・交通・農業・園芸・狩猟・漁業・食物・衣服・歴史・地誌・宗教・道徳・経済・教育・数学・文法・体育・絵画・彫刻など、まさに百科全般に亙っており、当時啓蒙の書として広く受け入れられた。多分焼失前の東大図書館にもあっただろう。

橋本万平氏はこの百科全書の入手のために随分苦労したようだ。科学史家の三枝博音も一冊しか手に入らなかったと書いている。この全書の一冊に大井吉訳の『羅馬史』があり、プリニウスについて「曰ク布里尼(プリニー)有名ナル○(注:一字不明)物学者ニシテ紀元七五(七九の誤り)年に威蘇威(ウェスウィウス)火山ヨリ巨大ノ火坑噴裂シテ非爾古拉尼府(ヘルクラニュム)ヲ破滅セシトキ此災ニ死セリ」と述べられている。

「プリニウス」というのは徳川時代に知られていた。だがそれが人名なのか書名なのか判然としなかったという。三枝博音はプリニウスを最初に知ったのは三浦梅園(172389)で、梅園が長崎への旅行記『帰山録草稿』で「プリニウス」に触れていることを紹介しているが、それによると梅園も人名かどうかは判らなかったらしい。だから人名であること、ウェスウィウスで死んだことを明確に示したのはこの文部省『百科全書』が初めてかもしれない。

それ以降、ポンペイやウェスウィウス山のことは広く知られるようになった。昭和初期に至るまで、多くの日本人がこの地を訪れ、旅行記をものした文人や学者も多い。例えば上田敏(明治四一年三月)、寺田寅彦(明治四二年五月)。浜田青陵(大正三年)、徳富蘆花(大正八年)、田中耕太郎(大正一〇年)、成瀬無極(大正一〇年)、斉藤茂吉(大正十二年)、土岐善麿(昭和二年)など。みんな個性的で魅力的な文章を残している。有島武郎は、明治三八年の旅行記録を大正七年に「旅する心」と題して発表し、そこで、小プリニウスの『書簡』に綴られている伯父プリニウスの最期について、その一節を紹介している。

 一方、東大図書館の書籍も、昭和二年(1927)には、ほぼ消失前の蔵書数に回復した。同じこの年に早稲田大学出版部蔵版『通俗世界全史第五巻・羅馬史下』(坪内逍遥監修・薄田斬雲編)が出た。そこでは小プリニウスの『書簡』から相当多くの部分が、「左に其大要を抄録せん」としてほぼ忠実に抄訳している。その抄訳の前に、簡単な解説がある。現代表記に直して紹介する。

ティトゥス帝の治世中に一つの驚くべき地変が起きた。それは即位の年八月二十四日に、かの史上有名なウェスウィオ山が噴火したことで、その損害は極めて大きかった。中でもヘラクレイネム、ポンペイの二大都市は全く降灰の中に埋没してしまった。この惨禍に際して、前帝ウェスパスアヌスが特に保護を与えていた博物学者大プリニウスは噴煙の毒ガスにあたって斃れた・・・

そしてこの同じ年、つまり昭和二年、ファーブル著『科学物語』の邦訳が『図入新訳科学物語』(前田晁訳、冨山房)として出版された。この書の中に「プリニイの話」というのがある。ここでもプリニウスの最期が語られた。

 

  (二)博物学者ファーブル

                                                                       

ファーブルの『科学物語』

 日本では三歳の子どもでもファーブルは知っている。親がファーブルの絵本を買い与えたり図書館で借りてやったりするから。その絵本はほとんどが昆虫の絵本だと思う。わが国では、アンリ・ファーブル(1823-1915)は昆虫学者と言われている。手もとの『西洋人名辞典』でも「フランスの昆虫学者」である。ファーブル『科学物語』の翻訳者前田晁も「昆虫学者」と言っている。だが、ファーブルの見事な評伝『ファーブルの生涯』(平野威馬雄訳)を書いたG・V・ルグロは「当時文明世界のもっていたもっともすぐれたもっとも高い誇り、最大の博物学者」と表現し、ほとんど一貫して「博物学者」と呼んでいる。

幕末から明治初期にかけて普及した『博物新編』や『博物新編補遺』はイギリス人ホブソンの書によるものであり、後者は明治初期の小学校教科書にも使われたりした。前述した文部省の『百科全書』もその内容から見て博物の名がつけられてもいいものであった。小・中学校には「博物」という科目もできた。しかし「博物」は学校教育からも学問の世界からも消えてゆく運命にあった。ファーブルは昆虫学者でおさまった。だが彼は若いころは数学に熱中したし、その後も各種の自然科学分野の研究には余念がなかった。そして彼はいろいろな自然科学の本を書いているが、この『科学物語』の内容も昆虫を含む動植物、地学や化学・物理、天体、地球、気象、鉱工業、技術など多様な分野に及び、まさに博物学者にふさわしい内容である。

 

ポールおじさんの地震と火山の話

『科学物語』は、ポールおじさんが数人の子どもたちにいろいろな科学の話をしてあげるという構想になっている。そのなかで、ポールおじは地球の形状や大きさを論じ、そして火山、エトナ山やウェスウィウス山の大噴火の話を展開するのだが、そのときプリニウスの最期についても詳しく触れている。だが、それは後にしてまず彼が語る恐るべきヨーロッパでの大地震について。

「ヨーロッパで感じられた全ての地震の中で、最も恐しかったのは一七七五年の万聖節(一一月一日)で、地面が幾度か烈しく揺れて・・・このポルトガルの繁華な首府(リスボン)は見渡すかぎり壊れた家と死骸の山になってしまった・・・波止場に逃げた群衆も、ボートも船も(水のなかに)ひき込まれていった。人一人、板一枚も再び水面へ浮かんでは来なかった・・・六分間に六万人の人が死んだ・・・このとき、アフリカのモロッコ、フェッツ、メキネズなど幾つかの町も覆された・・・一万人が住んでいたある村は不意に空いて不意に閉じた穴の中へ全体が呑み込まれた・・・

 一七八三年の二月に、南イタリアに地震が起き四年間つづいた。はじめの年だけでも九百四十九回もあった。地面は、まるで荒海の上のように大きく打った波で皺が寄って・・・人々は・・・吐き気を覚えた」「二分間で、最初の振動が南イタリアとシシリー島との町や村の大部分をひっくり返した。・・・大きな広い地面が・・・山腹からすべり落ちて、はるかに遠くへ行って、まるで別のところにとどまった。丘が二つに裂けた。・・・わんとあいた深い穴の中へ、家や、樹木や、動物を載せたままで、何もかも一緒に呑み込まれて、それきり見えなくなった・・・」「あるところではまた、ざらざらと動いている砂で一ぱいな深いじょうごが口を明いて、やがてそれが大きなむろ穴になると、間もなく地下水が侵入してきて湖水に変わった。実に、二百以上の湖や沼がこうして不意に出来たという」「振動のひどかったことは、街の敷石が道からひっこぬかれて空中へ飛んだほどだった。・・・地面が持ちあがって裂けると、家も、人も、動物も一時にぱくっと呑み込まれた」「この恐ろしい出来事のために死んだ人は八万にのぼったといわれている」「そのうちの大部分は家の潰れた下に生きながら埋められたもので、その他のものは、震動のあとで起こった火事のために焼け死んだり、逃げて行くうちに、ふと足下にできた深い穴の中に呑み込まれたりしたのであった・・・」

 これは彼が挙げたほんの一部でしかないが、事実に恐ろしい。このあと、ポールおじは鉱山に話題を移して次のように語る。深い鉱山の中では暑さがひどく、地下の温度は三〇メートル毎に一度ずつ高まる。だから地球は火で溶けたものと、その溶けた金属の大海の上をぐるっと包んでいる固い薄皮とで出来ていると想像できる・・・。地球の直径が二メートルとするとその薄皮は指の幅の半分の厚さに相当するし、卵の殻が地球の殻であるとすると、どろどろした中味は地球の中のどろどろした物である・・と。 

火山は安全弁?

それを聞いていた子どもたちは考える、殻がそんなに薄いならたびたび震動が起きるだろうと。その疑問に対してポールおじは、どこかで何らかの震動を受けない日はないが、恐ろしい地震がめったにないのは方々に火山があるお陰だ、火山は安全弁だと説明する。聞いている子どもの一人は言う、おじさんから前にエトナ山の噴火やカタニヤの災難のことを聞いた。火山は周辺を荒らす恐ろしい山だとばかり思っていたけど、大変ためになる必要なものだということが分かりました・・・と。

ポールおじの語ったカタニアの悲劇とは以下のようなものだった。シチリア島の北東のエトナ山の南に古くからの都市カタニアがある。一八世紀のはじめ頃、大地が猛烈に振動し家屋や樹木が倒れた。続いてエトナ山が爆発した。噴火口が幾つも並んででき、その七つがくっついて底知れぬ淵のようになって四ヶ月の間噴火を続けた。流れる溶岩は森や畑を覆った。海岸にあって堅固な塁壁で囲まれたカタニアにも迫ってきた。だが幸い流れは横に転じ、広さ一五〇〇メートル、高さ一二メートルの溶岩の流れは海に突入し、沖合に三〇〇メートルほど土地を押し広げた。しかしそれで終わらなかった。新しい溶岩の流れが合流して塁壁に押し寄せ、壁を四〇メートルほど倒して市内に流入した。その頃になると溶岩は表面が固くなり、その下に流動性を保った溶岩が流れている。勇敢な市民百人ほどが鉄棒を持ってエトナ山に近づき、その溶岩流の殻に穴を開けて流れをそらすことに成功した。にもかかわらずカタニア市内では三〇〇戸の人家、幾つかの宮殿、教会堂が烏有に帰した。郊外は一三メ-トルの溶岩で埋まり、二万七千人の家が壊された・・・。

ポールおじさんの話は秩序立っていて論理的、易しくて面白い。この書はフランスの小学校・中学・女学校などで教科書として広く用いられた。他にも何冊もの教科書を書いている。      

 

ウェスウィウスの噴火

「不意に火の柱が噴き出して二三千メートルの高さにのぼる・・・何百万とも知れない火花が、燃えている柱のてっぺんの方へ稲光のように閃き散って・・・火の雨となって火山の斜面へと落ちる・・・これらの火花は・・・実は白熱した石の塊で・・・時には数メートルの大きなものもあって・・・」「山の底から・・・溶岩の流れがのぼって来る・・・ところが噴火口はもういっぱいである。そこで不意に地が震えて、雷鳴のような音と共に爆発して、その裂け目からと同時に噴火口の端の上から溶岩は川になって流れ出す・・・」とポールおじは続ける。そしてプリニウスについて語る。             

非常に勇気に富んだ人で、もし新しい知識を得るとか他人の助けになるとかいう場合があると、どんな危険からもしりごみしなかった。ヴェスビオ山の上に変な雲を見て驚いたプリニイは、すぐに艦隊を率いて出発して、脅かされている海岸の町を救ったり、この恐ろしい雲をもっと近いところから観察するために赴いた。・・・プリニイはみんなが逃げ出しているこの最も危険に見えた方面へ行った・・・

その最期については「(スタビアの)海岸で、プリニイがちょっと休もうとして地べたに座ったときに、強い硫黄の匂いのする烈しい焔が落ちて、みんなを逃げ出させた。プリニイも立ち上がったが、すぐまた倒れて死んだ。火山から噴き出した焼灰だの、煙だのが窒息させたのである」。そして聞いている子どもの一人ジュールに「まあ、可哀そうに!恐ろしい山のためにそんなに窒息させられて死ぬなんて。あんなに勇気に富んだ人だったのに!」と言わせている。

 

(三)海洋画家飯塚羚児とプリニウス

 

 ファーブルの『科学物語』にプリニウスに関する二枚の飯塚羚児の挿絵が載っている。一枚はプリニウスが艦隊を率いてナポリ湾をわたってゆく図である。黒く立ち上がる噴煙を背景に、大小五・六艘の軍船が、落下する火山礫の水しぶきの中を進んでゆく。沈没したと見える戦艦のマストも描かれている。二千年近く前の、しかも遠い異国の事件を想像力豊かに描いてみせた。細部に不審な箇所があるのは致し方ない。しかし身の危険を顧みず突き進んでゆくプリニウスとその艦隊の意気込みを見事に描いている。

 もう一枚は、逃げる群衆からはぐれた甥の小プリニウスとその母親が、降り積もる灰を払い落しながら、噴火を振り返って眺めている図である。前者の絵は暗く重苦しいタッチだが、後者は、線画の上に明るく色づけしてあり、まるで別の筆づかいだ。前者のサインは Reiji、後者は Mariano.Reiji なので別人かと思ったが、マリアーノというのは彼のクリスチャンネームだった。これらの挿絵の何枚かにはポールおじさんと思える人物が描かれているが、どれも、つばの広いフェルトの帽子を被っている。ファーブルは常にフェルト帽をかぶっていたという。彼の肖像写真もそうだ。

 この書について訳者の前田は次のように述べている。「原書を丸善で見つけたのは大正七年で九年前、今、飯塚羚児氏の美しい挿絵をたくさん添えることができたことをよろこびとする」と。羚児の挿絵のうち約四〇点近くがカラーで、一ページ大の楽しい絵である。原書の挿絵と思われるものも多く総計五〇〇ページに及ぶ大著である。もちろん昆虫の話も出てくる。ミツバチの話は特に秀逸だ。昭和初期こんな楽しい子ども向けの科学書があったのだ。 

飯塚羚児(明治三七年-平成一六年)の画業に関する資料や作品を展示してある「花の画房」の管理者高見みさ子氏に話を聞く機会があった。羚児は若い頃小学校の教師をした。ファーブルもそうである。だが羚児はやがて挿絵画家として出発、のち多様な美術作品を製作した。高見氏は、羚児はダ・ヴィンチに勝る天才だったとおっしゃる。羚児が書いたボートの精密な設計図を見せていただいた。その設計図に基づいて造ったボートに乗る羚児の写真もあった。彼は特に帆船画、艦船画を多く描いたので「海洋画家」とも呼ばれた。

 高見さんによると、羚児は布団に寝たことがないという。高見さんの家に泊まったときも、布団は要らないと断ったそうである。どうやって寝るのでしようかと尋ねたら、寝ないで絵を書いているらしいとおっしゃる。恐れ入りました。『ファーブルの生涯』を書いたG・V・ルグロはこう言っている。

ファーブルにとって休養というものはない。とだえることのない、孤独な刻苦精励の生活だった。せいぜい寝るときから朝目が覚めるまでの短い時間が、休養といえばいえるだろう。夜明けにおきて彼は、パンをかじりながら台所を大股に歩きまわる。事実、彼にとって思索をすすめるためには、たえずからだを動かしていなければならなかった。普通の人のように、のんびりと食卓についている朝食ではない。

プリニウスも「目覚めていることが生きていることである」と言っているが、凄い人たちがいるものだ。

 

(四)プリニウスとファーブル

 

ファーブルはフランスの博物学者レオン・デュフールやレオミュールの影響で昆虫の世界に入り込んだようだが、フランスは元来昆虫の研究者に恵まれたという。ファーブルも多くの先輩たちに敬意を表している。だがそれらの人の多くは片田舎でひっそり研究を続けながらも世間にも注目を浴びずに終った人が多い。そもそも昆虫というのは下等な動物と見なされその観察や研究に没頭する人たちも重んじられることは少なかったのである。今日でも西欧ではそういう傾向があるらしい。昔から昆虫が愛されてきたわが国とはいささか違う。といってフランスでファーブルが全く無視されたわけでもない。文部大臣が表敬訪問をしたり、レジオン・ドヌール賞を授与されたりしたこともある。だが、彼が望んだ大学教授の席は与えられなかった。教科書も最初のうちは売れたがすぐ真似をする教科書が現れた。『昆虫記』の売れ行きも芳しくなく生活も苦しかった。五六歳の時、南仏オランジュにほど近いセリニアンの村はずれに居を移した。古い家屋とそれに続く一ヘクタールの荒れ地を購入したのである。石ころだらけのその土地に手をいれ、各地から植物を集めて農園に仕立て、残りの生涯をそこで過ごした。だが最晩年、体が不自由になって車いすに乗らなければならない頃になって、彼の名声は一挙に高まり諸国にもその名は広まった。経済的にも不自由はしなくなった。そしてポアンカレ大統領が自らセリニアン村のファーベルの農園「アルマ」の自宅を訪れたりもした。だが、すべてが遅すぎたともいえよう。

ファーブルがプリニウスの『博物誌』の熱心な読者であったことはあまり知られていない。『科学物語』ではプリニウスの生きざまを書いただけだったが、『昆虫記』ではプリニウスの昆虫に関する観察眼の鋭さを、具体的な事例を挙げながら描き、深い敬意を表している。その一端を紹介する。プリニウ彼が木々の病気について論じた箇所から。

  特定の木は多かれ少なかれ虫にやられる。ほとんどすべての木がやられるおそれがある。そして鳥は樹皮を突いて、虚ろな音によって虫に食われた木を見分ける。今日では、その虫でさえ奢侈品の部類に入り始めた。そして特にカシの木の中にいる大きな木喰い虫が―その名はコッセス(あるいはコッススcosses)であるが―特別な珍味としてメニューに登場する。そして現にこれらの生物は食卓用に太らせるために麦粉で飼育さえするのだ。

『博物誌』でコッススに触れたのは三か所だが、食品に関連づけたのはこの箇所だけ、これだけである。自分も食したとは書いていない。言外に「あきれ果てた」というようなニュアンスである。このコッススとはなにか、今でも異論はある。手元の羅和辞典によると「木喰い虫」とある。ファーブルはいろいろ検討してこれはウスバカミキリの幼虫だと結論づけた。これは実際美味だそうで、ファーブルはしばしば来客にこれを料理してもてなした。もちろんこの幼虫についての講釈づきで。彼はいう「私の孤独を慰めるこうした会合の席上、今日の午餐会が計画された。ご馳走としては、古代にその名をうたわれたコッススを材料とすることになった。つまりカミキリムシの幼虫だ」(『昆虫記』)。

ファーブルは、麦粉の中で飼育すればコッセスは窒息死するだろうと思っていたが、実験してみたら自分の考えが間違いであったとわかり、プリニウスの慧眼に脱帽したという。コッススを太らせようとして彼も麦粉の中で飼育してみたのだろう。ファーブルは、肉料理は一切摂らなかったし、ましてフォアグラなどはもってのほかだったという。だけど虫は食べたようで、まことにユーモラスな話である。彼の食生活の一端を書いた一節を引こう。

ファーブルは万事についてひじょうに質素な人であった。・・・その食事はひと切れの肉さえも食べず、もっぱら野菜とくだものだけであった。・・・食卓はいつも季節のつつましい香りでいっぱいであった。たとえば、イチジクとかナツメの実とか、そういった季節のくだものだけで食事する人だった。考えてもみなさい。人間はけっして、猛獣どものように肉食するように生まれているのではない。その証拠に、歯や胃や腸の構造のどの点から見ても、人間は本来くだものをとるに適した生物だということがあきらかではないだろうか?(『ファーブルの生涯』)

 先述のように、彼は晩年セリニアンの農園で過ごした。だから自家製の野菜、果樹、周辺での山菜や木の実などで食事を済ますこともできたのであろう。誰にでもできる生活ではないが、その精神は理解できる。

 プリニウスはごく小さな動物、例えばカ(蚊)のような昆虫の生態においても鋭い観察眼をしめしている。彼の「自然はそのもっとも小さな創造物において自己の完全な姿を表現している」という名言は、後世の人たちに大きなインスピレーションを与えてきた。

 わが国では古来昆虫のすがた・かたちや鳴き声を愛でる慣わしがあった。それは欧米にはない感性だと評価されてもきた。しかし、昆虫の生態や機能を分析するという伝統はほとんどなかった。プリニウスは自身の観察によって昆虫の生態や機能を分析した結果上記のような箴言を導き出したのである。もちろん顕微鏡一つない古代においての観察だから今日から見れば幼稚であり観念的な面もあること点は否定できないし、不明な点は想像力と思索、直感によって補う以外はなかあった。ファーブルはプリニウスについて「この古い時代の博物学者は、今度はなんというよき霊感を与えられていることだろう」(『昆虫記』山田・林訳)と、その直感をも評価した。プリニウスの、最も小さい創造物が「自然のもっとも完全な自己表現」いうような思想は人類史のなかでも極めて希なものだと言わざるを得ないし、ファーブルはもっとも良きプリニウスの理解者の一人だったといえよう。ファーブルの言葉を載せておこう。セリニアンで植物や動物たちと静かな晩年を送ったファーブルの言葉を載せて置こう。

多くの見せかけの幸福や不必要な浪費をすてて、簡素な生活にかえるがいい。かしこいあこがれに燃えていた太古の節度のある生活にかえるがいい。富源の山であるいなかの生活、野辺、川辺、海辺の健康な生活にかえるがいい。永久の慈母なる大地にかえるがいい。さもなければ人間は、あまりにもすすみすぎた文明に疲れ、調子が乱れて、はてはよわよわしいからだとなり、消滅してしまうであろう! そうした場合、人間よりもずっとさきにこの地球にやってきた昆虫どもは、さらにまた人間よりもあとまで生き残り、人間のいなくなった世界で歌をうたいつづけることだろう!(『ファーブルの生涯』から)。

 ファーブルは第一次世界大戦のさなか死を迎えた。だから第二次大戦も、原爆投下も、地球温暖化も、地球規模の放射能汚染も、そして核戦争の危機も知らない。昆虫といえども逃れられないこれらの危機、人間の為す業(わざ)によって、人も昆虫もともに滅びるのだろうか。ファーブルはプリニウスの『博物誌』も小プリニウスの『書簡』をも読んでいた。だからプリニウスの生き方を知っていたし、プリニウスの自然観にも同感だっただろう。プリニウスは、大地にかえるがいいとまでは明言してはいないが、共和制初期の農業を中心とした時代を懐かしみ、そして貨幣のない社会、物々交換の社会を夢見た。一九世紀フランスは世界一の文明を誇る国であった。だがその文明にファーブルは背を向けていた。彼は若いころオペラ『ノルマ』を見に行ったとき、その舞台のあまりのけばけばしさに驚き腹を立てて、途中で帰ってしまった。 そして、それ以来そのような観劇には振り向きもしなかったという。だが彼は音楽には関心を持ち、自分の古ぼけたピアノで素朴な曲を弾いていた。だが一番好んだのは鳥や虫の鳴き声、木々のざわめき、風の声など自然の声、そして村の子供たちの吹く葦笛・草笛などであったという。                                     

 


プリニウス つれづれ(4)フキヌス湖のトンネルと桝本セツ

2016-09-21 21:19:32 | 日記

         <「Z4 フキヌス湖のトンネルと桝本セツ」の改訂版>

                           

                                                                     (一) 桝本セツと三笠全書

                                                                     (二)フキヌス湖のトンネル

                                                                      (三)枡本セツとアグリコラ

                                                                       (四)  行き着く先は? 

 

  (一)桝本セツと三笠全書

 

 古代ローマのフキヌス湖の排水工事のことを最初にわが国に紹介したのは桝本セツだと思う。

桝本セツは、男女不平等で固められた戦前の旧民法下で、社会的非難を浴びることを覚悟しながら、相手の妻の嘆きをも振り切って、すでに三男三女のある岡邦雄と同居生活をはじめた。邦雄四六歳、セツ二四歳のときである。

岡邦雄は、戸坂潤、三枝博音らとともに一九三二年、唯物論研究会を発足させた、すでに名の知れた学者であった。研究会発足二年後、セツはこの研究会の趣旨に惹かれて事務所を訪れ、そこで邦雄と知り合う。二人はやがて論文の共同執筆者にもなる。二人が一間きりのアパートで共同生活を始めたのは一九三五年末のことらしい。そして、両者とも治安維持法違反で検挙され、長い勾留生活を送らねばならなかった。(澤地久枝『昭和史のおんなたち』参照)。

セツには多くの著作・翻訳がある。ロシア語関係の書、自然科学の書など。その一冊が三笠全書の中の『技術史』(三笠書房、1938年)である。そもそもこの三笠全書は唯物論全書として始まった。第一冊目が戸坂潤の『科学論』、二冊目が岡邦雄の『科学思想史』であった。だがこの全集は一九三八年三笠全書と名を変え、また内容も若干変わった。理由もあるだろうが、ここでは問わない。ただ、この全書刊行の辞の一節を載せておく。わが国の従来の書は、ともすれば西欧の直訳に堕し、知識の正確性に欠く面があったとして「科学・哲学・経済・産業・文学等の汎ゆる学術分野に於ける各々の中心テーマを包含し・・・、現代学術の完璧を期し、一大百科全書としての最高機能を遂行せんとするもの・・・」と意気が高い。

明治政府の文部省は一八七四年から八〇年にかけて『百科全書』なるものを発行したが、これはイギリスのチェンバーズ兄弟の著作の翻訳で一冊約百頁、全九二冊である。上述の唯物論全書・三笠全書の版型・体裁などはこの『百科全書』に似ている。一テーマに一執筆者というのも同じ。縦一七センチ横一五センチの箱入りの小型本、濃紺(三笠全集は茶)の布を張ったハードカバー、紙質は少し劣るが美しく品がある。戸坂潤のは三百頁超え、岡のも三百頁に近い。

桝本セツの『技術史』は二五二ぺーじ。旧石器時代から一九世紀末までの人類の技術の発達を概観したものである。「序」で桝本は「技術史の卓れたものは西洋に於いても極めて少ない。まして日本に於いては、文字通り、まだ一冊も出てゐないのである」と述べている。まさにわが国における技術史研究の草分けである。この書にあるローマのフキヌス湖の隧道(トンネル)の記述もおそらくわが国初出だろう。 

 

(二) フキヌス湖のトンネル

 

イタリアのヘソ、フキヌス湖

 ローマから東へほぼ八〇キロ、アペニン山脈中に卵型をした大きなフキヌス湖があった。ほぼイタリア半島の中央に位置し、イタリアのヘソと呼ばれたりした。この湖のある盆地は海抜約二二〇〇フィート、それを取り巻く山々はもっと高く、とくに北側の嶺は八〇〇〇フィートを超える。その山麓から湖畔に至る土地には古くから町や村があった。主要な住民はマルシ族である。

 このフキヌスの湖水の出口は見当たらなかったが、普段は流入と流出は均衡していた。後年、北辺の湖底に石灰岩の裂け目があり、そこから流出していたことがわかった。だが過剰の水を流すには不十分であった。急激な増水があると湖の堤防を越えて平地に浸水し大きな災害を招くのが常だった。事実、アルキャベという町がフキヌス湖に沈んでしまったという話もあった。しばしば浸水する土地は耕地にも不向きである。

 多分住民のマルシ族の人たちは政府、といっても今日のような政府はなかったから、執政官とか元老院とかにだろうが、そこに陳情を繰り返していたに違いない。ここでマルシ族と言っているが、彼らもローマ共同体(レス・プブリカ)の一員であり、れっきとしたローマ市民であった。カエサルは排水路の建設を企画したが、彼の死によって実現しなかった。アウグストゥスのときも嘆願したが叶わなかった。そしてこの大事業はクラウディウスによって着手され、完成をみたのである。 

 

至難の掘削作業

 桝本セツは、トンネルあるいは坑道技術が、始めは住居や墓として、次に石材の切り出し、採鉱のため、最後に給水、排水その他さらに高度の文明の要求によって取り上げられたと述べる。そしてエジプト、メソポタミアなどのトンネル技術を概観したあとローマに移る。ローマに直接影響を与えたのはエトルリア人であった。だが高度にその技術を発達させたのはローマ人である。セツは、フキヌス湖排水のためのトンネル(桝本の表現)をその例としてあげている。ごく簡単に触れているだけだが、当時としては立派な記述である。こう書いている。

   フキヌシ(フキヌス)湖の出路は、爆発物を使用せずして造られたロマ(ローマ)・トンネルの著しい一例である。それはユリウス・ケーザル によって設計せられ、クラウヂウスによって完成せられたもので、三マイル以上の長さのものである。その一マイル以上は、その頂上が湖面から一〇〇〇フィートの高さにある山の下をつきぬいている・・・穴は・・・非常に硬質の石を通して穿たれたもので、一インチ、一インチと鑿によって掘り続けられたのである

 この工事に関して記録を残したのはプリニウス、タキトゥス、スエトニウスだが、三人ともこの工事の目的は干拓ではなく排水だという認識だった。たとえばスエトニウスは干拓と排水を明確に区別した表現を使っている。それによると、クラウディウスは、排水によってできる副産物の干拓地を譲り受ける条件で工事を請け負うという何人かが現れたので、栄光と実益のためにこの工事に着手したと。つまり干拓地はあくまで副産物だったのである。真偽のほどはわからないが。いずれににせよ、ローマにとってこの事業は長年の懸案であった。

 しかし当時にあっては極め付きの難工事であったことは確かである。山をくりぬいて水路を作り、リリス川という深い谷川に流入させる。工事が完成したのは後五二年、一一年かかった。もちろん、言語に絶する費用と多数の人夫を要した。スエトニウスによれば、一一年の間つねに三万人が働きつづけたという。水路の長さは、先の桝本によれば三マイル(4・8km)であるが、これは一八二五年のリベラという技術者の実測結果とほぼ同じである。

 

プリニウスの報告

 山の内部が土でできたところでは、掘り取った土を巻き上げ機で竪坑のてっぺんまで引揚げて水路をきれいにしなければならず、それができないところは、堅い岩を切り取って運び出さねばならなかった。地下の作業は暗闇の中だった。そんな作業は、目撃したものでなれば想像できるものではなく、どんな人間の言葉でも言い現わせるものではない」「腹黒い彼の後継者には顧みられなかったとはいえ、少なくとも私の考えでは、クラウディウス帝のもっとも目覚しい業績のひとつであった

 プリニウスはこの工事の様子を観察していたに違いない。完成は彼三〇歳のとき、タキトゥス三歳、スエトニウスの生まれる前のことである。プリニウスは完成という言葉こそ使っていないが、完成を前提とした文章になっている。タキトゥスは「フキヌス湖とリリス河を結ぶ地下水路が貫通した」と書いた。スエトニウスも「完成する」と書いた。「腹黒い彼の後継者」というのはもちろんネロのことである。徹底的にクラウディウスを憎んでいたネロは、このトンネルのメンテナンスを全く行なわず、崩壊するがままに放置した。そこで後にハドリアヌスが修復しなければならなかった。

 その後の経過ははっきりしないが、衰退してゆく中世のなかで、岩石や土砂の崩落によって水路はふさがってしまった。その後何度も復旧の試みがなされたが成果はあがらなかった。一九世紀末になってフキヌス湖の干拓が行なわれ、現在は耕地になっているらしい。このフキヌス湖の工事については何人もの人が書いているが、その多くは工事の内容やその意義よりも、水路の完成を祝って行われた竣工式についてである。竣工式では、湖の水を落とす直前、実戦的規模で摸擬海戦が行われた。このイベントは後々までも語り草となった。列席していたプリニウは、「クラウディウス帝が海戦の見世物を催したとき、彼の妻アグリッピナが金の布だけで作った軍用外套をまとって、クラウディウスの側に座っているのをわれわれは見た」と記している。

 この竣工式のことだが、目前で見たプリニウスが言うのだから竣工式とそれに伴うイベントの模擬海戦は実際にあったことなのだろう。だが、「模擬海戦が行われた」とだけでそっけない。海戦の模様には全く触れていない。失われた彼の同時代史『アウフィディウス・バッススの歴史書の続き』には書いたかもしれないが。タキトゥス以後の人たちの描写は面白可笑しく描かれている。歴史物語とでもいうべきものか。二万人とも書かれている戦士たちが、海兵なのか囚人なのか死刑囚なのかもはっきりしない。摸擬海戦というのはローマ市内でも時々ティべリス川に近い競技場や人造湖で行われた。そこでの軍艦はせいぜい数隻だろう。二万人といわれる武装した兵士を乗せるに足る艦船は何隻必要か。それを山越えで運んだのか、湖畔で建造したのか・・・そういうことは書いていない。目前で見た人間(プリニウス)が黙っているのに、後世の人間があれこれ言っている。

 

(三) 桝本セツとアグリコラ

 

枡本セツの思想

 プリニウスはこのように、工事開始にいたる政治過程を紹介しながらクラウディウスの「もっとも目覚しい業績の一つ」と語り、目撃したものでなければは想像もできない工事のありさま、そして、これが一番の狙いかもしれないが、クラウディウスの妻アグリッピナが完工式に金糸で造ったマントを見せびらかしたことを描いた。

 桝本もプリニウスも、困難を極めたフキヌス湖の排水工事については、むしろ肯定的である。だが、桝本は鉱山の発掘現場の実態についてプリニウスと同じように徹底的な批判を行った。次の一節は彼女の真骨頂をしめすものである。少し長くなるが載せる。

  採鉱に於いては人は全く無機物の環境に入り込む。そこは鉱石と金属のみの世界で、野も森も、流れも、海もない。地下の岩石の内部には       生命がない。地下水を通してしか或いは人間が持ち込む以外には、バクテリア、原生動物さえもが居ないのである。鉱坑の内部には、何らの形もない。雲をうかべた青空は勿論のこと、眼を楽しませる樹木も、獣もない。鉱夫等は物の形態を見る目を失う。彼らの見るものは物体ではなく物質のみ。目は失われ、自然のリズムは破れている。外界にはあまねく太陽の光が降り注いでいるときにも、幽闇な坑内にはただかすかな蝋燭の光が青白く明滅するばかりだ。そしてアグリコラの『デ・レ・メタリカ』には当時の採鉱技術を集大成しながら、そして彼自身医者でありながら、鉱山労働者の受けている肉体的、精神的の殆ど破壊的な苦痛、それを如何にして解決するかの途は少しも述べられていないのである。そして、かかる労働者の状態は、産業革命期を通し、一九世紀を通して、ひとり採鉱業のみならず、産業の全領野に拡大し、現代に於ける産業機構、ひいては社会機構の根本的矛盾にまで深化しているに拘わらず、技術者、工学者はもとより、実際政治家は少しもこれに本格的な解決を与えようとはしていないのである。だが、解決のみちは決して存在しないわけではない。

 これが昭和三(1928)年に書かれた文章である。感動的な文ではないか。アグリコラについては後述するが、彼は『デ・レ・メタリカ』第六巻の最後の箇所で、鉱夫たちの事故・病気・予防について若干触れている。桝本はそれを無視しているように見受けられるが、確かにアグリコラはそれを一企業の問題ととしてとらえているだけで、社会的・政治的視点には欠ける。

 この桝本の書に先立つ明治四一(1908)年、夏目漱石は『坑夫』を執筆した。この年、幌別鉱山で暴動が起きた。その前年四二年には、足尾銅山スト、別子銅山スト、生野銅山ストが相次いで発生した。漱石のこの『坑夫』は衝撃的で恐るべき小説である。しかしこの作品は、発表当初から今日に至るまであまり高い評価を得ていない。執筆の経緯はこうである。あるとき漱石のもとへ一人の青年が訪ねてきて、自分の身の上話を小説にしてくれと話し込んだ。漱石はその話のうち、その青年の坑夫としての経験だけを素材にして『坑夫』を執筆したのである。

 この小説の主人公の青年は、ある理由から家を飛び出し自殺場所を探しにゆく、その途中で一人のポン引きに捕まり、銅山で働くことになる。汽車に乗り、真っ暗な山道をいくつも超えて辿り着いたところが、一万人もが働いている鉱山。一夜をタコ部屋で南京虫に刺されながら過ごした青年は、翌日、鉱山の中を案内される。カンテラひとつを頼りに地下へ地下へと降りてゆく。道はだんだん狹くなり、寝転んでようやく通過するような穴をいくつも抜けたら今度は急な崖である。底も見えない階段を死ぬ思いで降りる。更に進むと小道は枝分かれし、その先に掘削現場があり、それぞれ数人の男たちが働いている。掘り起こした鉱石や岩石をどうやって地上に運び出すのか。あちこちに深い竪穴が掘ってあって、そこに投げ込む。ここ鉱山の奥深さは計り知れない。帰り道、疲労困憊した青年は案人に置いてきぼりをくう。一人で帰ろうとするが道がわからず死も覚悟する。

 ダンテの『神曲』の地獄編では、一人の男(ダンテ)が案内役のウェルギリウスに従ってすり鉢のように先細りになった地獄の底へ降りてゆく。地底には半身を地に埋めた巨大な魔王が、あらゆる罪人を口にくわえて噛み砕いている。だがダンテは、やがて現れたベアトリーチェによって天国に導かれる。しかし漱石の『坑夫』の世界にはベアトリーチェはいない。魔王もいないが死は遠慮なく襲ってくる。劣悪なタコ部屋生活、暗闇での重労働、鉱夫たちはやせ衰え、頬は削り取られたように落ち窪んで青黒く、目の玉だけがぎょろぎょろしている。重病患者は広いタコ部屋の片隅の固くて冷たい床に、板のように平たくなって一人寝かされ死を迎える。死者は四角い棺桶に入れられて運ばれる。運ばれる棺桶の前後に金盥がじゃんじゃんと鳴る。その後ろにお経を浪花節調にした唄が続く。ジャンボーと呼ばれるこの鉱山の葬式である。

 

ゲオルグ・アグリコラ

 ゲオルグ・アグリコラは一四九四年ドイツのザクセン生まれ。ライプツィッヒ大学で学び、また同大学で教師もし、人文学者として有名になる。その後医学に転じてイタリアに留学、帰途ボヘミアの銀産地のヨアヒムスタールという町に七年間とどまる。その目的の一つは、彼の医学上の知識をこの鉱山で役立てること、もう一つは,彼が従来から関心を持っていた鉱山学・岩石学を深め、この両者を結びつけることだった。桝本が「彼自身が医者でありながら」と書いているのはそういうことである。

 アグリコラは多様な書を書いているが、畢生の大作が『デ・レ・メタリカ』(1556年)である。この鉱山町での経験が役立った。『デ・レ・メタリカ』は桝本の言うとおり「当時の採鉱技術の集大成であり、近代鉱業、ひいては近代工業の発達に大きく貢献した」ことは大方の認めるところである。この『デ・レ・メタリカ』を邦訳したのが三枝博音である。三枝は三浦梅園の研究やこのアグリコラの大著の翻訳などでプリニウスを知ったのだと思う。彼は「プリニウスと自然誌の問題」で極めて適格なプリニウス評を行っているが、プリニウスの自然破壊への批判についてはほとんど触れることがなかった。三枝は桝本と同じく唯物研究会のメンバーであり唯物選書に『論理学』も出しているのだが、この点に関しては互いに交わった気配はない。

アグリコラはこの書全一二巻のうち最初の第一巻全部を鉱業についての既成概念の打破にあてた。彼は、鉱業は、自然を破壊するものだとか、自然に反する人間の貪欲から発生したものだという古代からある思想に対し種々の観点から反論した。真っ先に槍玉にあげられたのはオウディウスである。オウディウス(前43-後17)は『転身物語』で、人々は大地の内臓まで侵入し、大地が地中深くに隠していた財宝、人間を悪へと誘う財宝、それは鉄、それよりもっと危険な黄金であるが、それらを掘り起こすと弾劾した。アグリコラはこのオウディウスの考え、さらに十人近くの人々の見解を挙げそれらに厳しく反論した。ここではアグリコラが挙げていないローマの思想家二人の意見を追加する。最初はルクレティウス(前94頃―55)。

 

人々が銀や金の鉱脈を追い、道具を用いて地中深く隠れているものを捜している時には、スカブテーンスュラ<鉱山の名>は下方から何という臭気を発することだろうか?或いは金鉱山は何たる害毒を吐き出すことがあるだろうか! 人々の顔を如何に変え、何という顔色にさせることだろうか!切実な必要にせまられて、このような仕事に拘束されている人々は、通常如何に短い期間の内に死亡してしまうか、如何に生命が殺(そ)がれてしまうかを、君は見聞きしないことはないであろう? であるから、これらの流れはすべて大地が発散し、直ちにひろがった空へはきだすのである(ルクレティウス『物の本質について』樋口勝彦訳)

 次はセネカ(前5~4―65)

マケドニアのフィリッポス王の以前にも、銭を求めて地下の最も深い隠れ場まで下った者たちがいた。・・・そこには夜と昼の区別も決して届くことはなかったのである。・・・どんな大きな必要が、天に向かって直立している人間を屈めさせ、地下に送り込み、最も深い地の底に沈めたのか―黄金という、所有することにも劣らぬ、獲得することの危険な代物を掘り出すために。この目的のために人間は坑道を掘り、泥だらけの不確実な捕獲物の周囲を這い回り、昼の日も忘れ、また事物のよい本性も忘れて、そこから自らを他方に転じたのである(セネカ『自然研究』茂木訳)。

 だがアグリコラの、最も強力な批判の的はプリニウスであった。彼はプリニウスに敬意を表していたせいか、直接プリニウスの名を挙げることはしないが具体的事例で批判を繰り返した。たとえば、アグリコラはいう、鉱山はほとんどが役に立たない山野で行なわれているのだから自然の破壊にはならないと。プリニウスは、例えば、ヒスパニアの金鉱山の開発などで自然の破壊が進むことを具体的に糾弾した。アグリコラは、鉱業は戦争などという暴力ではなく平和な手段で富をもたらすという。プリニウスは富の蓄積自体に批判的だった。アグリコラは、物々交換は原始社会のもので社会の発展に貨幣は必要不可欠であるとして、物々交換を高く評価したプリニウスを正面から批判した。アグリコラは、重要な医薬は鉱石などの地下の物質から入手できるといい、本や草や土・石・生き物など、ほとんどが地上で得られるとするプリニウスに反論する。

それでは二〇世紀の枡本セツの発言をもう少し聞こう。

  採鉱技術は古代以来最近までほとんど発達しなかった。他の産業に比べても遅れ、ほぼ二〇〇〇年にわたって最も原始的な方法が持続され    てきた。それと同時に、それに従事する労働者の地位は、最も低い階級に置かれた。最近まで、戦争俘虜や犯罪人、奴隷でもなければ鉱山で働こうとは思わなかった。そして(注;現代アメリカの文明批評家マンフォードの『技術と文明』<1938年>から引きながら)、採鉱業はまともな人間の商売ではなく刑罰の一形式でしかなかった。人間の困難な、命がけの仕事のうち、旧式の鉱山採掘に比べられるのは恐らく近代戦争の第一線の仕事だけであろう。鉱山労働における事故による死傷は、それ以外の労働の四倍にものぼる。一四世紀以来、主として軍事的要求によって、このような劣悪な労働条件での採鉱業が強行されてきたのである(註:枡本の『技術史』はマンフォードから多くを学んだのかもしれない)。 

 

(四)行き着く先は?

 

 現代の物質文明の発達、大量破壊兵器(なかんずく核兵器)の開発のために人類は地下深く掘削を続けているし、今後も一層掘り進んでゆくだろう。地球の地下資源の獲得競争は激化の一途を辿り、国境紛争の止むこともない。一方で、掘削技術はますます向上するが、坑内での事故は絶えることがない。医術の発達にもかかわらず病気が地上から消えることがないように、地下の惨事も後を断つことがない。                                                                                    

 二〇世紀は穴掘りが盛大に行なわれた世紀だといってもいい、もう桁外れだ。罪悪感などなしに掘り下げた。この世紀は革命と戦争の世紀といわれるが、革命と穴掘りはあまり関係ないが、戦争とは大ありだ。マジノ線塹壕などは序の口。日本軍兵士は延々と続くソ満国境や南方戦線などで随分穴掘りをした。国内でも、一億総特攻のかけ声の下、こぞって防空壕掘りをさせられた。米軍の上陸に備えて各地の海岸沿いに横穴が、天皇や大本営を守るためには長野県松代町に総延長十キロにも及ぶ地下壕が構築された。日本中が穴だらけになった。だが、この二一世紀だってそれに負けず進められているのだろう。いや、それ以上かもしれない、われわれの我々の気付かないところで。

戦争のための道具は今日でも大方が鉄でできている。桁外れな軍拡競争が続いている。多くの人が金属、とくに鉄を口汚く罵り非難し、鉄が殺人、追い剥ぎ、戦争に用いられると誹謗しているが、その誹謗自体が間違いだとアグリコラは主張した。その非常に多くの人の代表がプリニウスであった。

 たしかにプリニウスは、鉄は土地を耕し、木を植え、ブトウ蔓の剪定をし、また建築用の岩石を切り出しなど、各種の有用な目的に使うと述べたうえで「同時にわれわれはそれ鉄を戦争に、殺戮に、そして山賊行為に用いる。・・・(それだけでなく)羽をつけた飛び道具として、カタパルトから発射するかと思えば腕で投げる。・・・こういうものは、人知が生み出したもっとも罪深い工夫だと私は思う」と語った。そして悪いのは自然ではなく人間なのだという。アグリコラは上記の「   」の中だけを引用しながら、プリニウスを代表とする古代の論者たちに反駁を加えたのである。それは恐らく時代の要請だったのだろう。「自然」観も変わりつつあった。アグリコラはいう。

第一流の人々は、金属は自然が深く地の底に埋蔵したものだし、また金属は生活に必要なものでもないといって軽蔑し卑しめてきた。そして、金属は地中から掘り出してはいけない、それはいつも多くの人のひどい災いの源だったのだという。従って、鉱山の技術もまた人類にとって有益なものではなく、有害危険なものであるという結論に彼らは導くのだ。

 『デ・レ・メタリカ』は、このような、金属を軽蔑し卑しめた「一流の人々」に対する反論であった。アグリコラはいう。「私は・・・この人たちの魂から一切の誤謬をえぐり徹底的に除去して、正しい考え、人類に有益な意見が明るみに出るようにしてやらねばならぬと思うのである」。「正しい考え」の導く道は、自由な資本主義へと導く道であった。そして今日がある。地下深くウラン鉱を掘り出し、現在人類が保存している原爆・水爆は、人類を何十回?何百回?も滅ぼすことができると言われている。これが行き着く果てだったのか?今、全面核戦争の危機を語る人も少なくない。しかしダンテのベアトリーチェの出現を期待することはできないのだと。

 

 

 

 

 

 


プリニウス つれづれ (3)プディングの味

2016-09-14 21:22:18 | 日記

                                            <「Z3 プディングの味(プリニウス随想3)」の改訂版>

 

   (一)ローマの入浴嘔吐術

プディングの味

 「『兄さん、其<の>プッヂィングを妾(あたし)に頂戴。ね、好いでせう』とお重(しげ)が兄に云った」。漱石『行人』の一節である。

 プディングというのは『資本論』にたびたび出てくる。「プディングの味は食べてみなければわからない」という文脈で。その食べものがどんなものか、訳注を見ても要領を得ない。翻訳者もよくは知らないのだろうと思っていた。ずっと後になって国語辞典を見たらプリンのことだという。その頃になると巷にプリンというプルプル・フニャフニャした菓子が出回っていた。なるほど英語とドイツ語の違いだなと、一人合点していたが、もっとずっと後になって、プリンというのはプディングの一種に過ぎないことを料理の書で知った。『行人』の兄さんの家のデザートはプディングの方だったろう。プディングの本家はイギリスだそうだ。マルクスがプディングにこだわったのは、『資本論』構想中もいろいろな味のプディングを食べさせられたせいかもしれない。いや、とことん貧窮生活を送ったマルクスには、たびたびプディングなど食べる余裕があったとも思えないのだが。この言葉はすでに一つの箴言になっていたようだから、たんなることわざとして用いたのかもしれない。それと違って、漱石のロンドン留学生活は、経済的には苦労していないから、プディングだっていろいろ味わっていたのだろう。

小説に戻る。妹のお重は兄嫁と上手くいっていない。夕食を早々と済ました兄嫁は無言のまま立ち上がリ娘の芳江を手招きする。芳江もすぐ立った。「おや今日は御菓子を頂かないで行くの」と兄嫁、デザートに未練がある芳江だがばたばたと母親の後を追って二階へ上がる。お重はその後姿を忌々しそうに見送る。兄の一郎は遠くの方をぼんやり眺めている。そして先の「兄さん、其のブッヂィングをわたしに頂戴」となるのである。兄の一郎は弟の二郎と自分の妻との関係を疑っている。兄の精神状態を心配した二郎は、兄の旧友Hに頼んで兄を旅に誘ってもらう。その宿先で兄とHがいろいろ議論をかわす。Hはその様子を詳しく手紙に書いて二郎に送った。

それによると、兄さんは深い不安の中に陥っている。四六時中どこにいても何をしても安住できない。兄さんは、落ち着いて寝れないから起きる、起きるとただ起きていられないから歩く、歩くとただ歩いていられないから走る、走り出した以上どこまで行っても止まれない、止まれないどころか刻一刻と速力を増して行かなければならない、その極端を想像すると恐ろしいと言う。そこでHは、そういう不安は人間全体の不安で、何も君一人で苦しんでいるのではないと悟ればそれまでではないかと反論する。すると兄さんは次のように言う。

「人間の不安は科学の発展からくる。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々にとどまる事を許して呉れた事がない。徒歩から車、車から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、何処まで行っても休まして呉れない。何処まで伴れて行かれるか分からない。実に恐ろしい」

 Hは、それがすべての人の運命なのだから恐ろしがる必要はないじゃないかと再度問う。兄さんは重ねて言う。「必要がなくても事実がある」「人間全体が幾世期かの後に到着すべき運命を、僕一人で僕一代のうち経過しなければならないから恐ろしい.・・・要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮詰めた恐ろしさを経験している」(『行人』「塵労」三二)。

小説の流れから見て、兄さんの告白は唐突に過ぎるともいえよう。個人的不安、妻の不倫を疑う不安、家庭的な不安を語っているうちに人間社会への不安に発展する。「人間全体が幾世期かの後に到着すべき運命」を僕一人で、僕一代のうちで、自分一人に集めた不安。一読者としては、どうしてそうなったのか、いま一つ判らないが,分かったような気もするので妙だ。

 

クジャクの舌

 漱石は美食家だったらしい。『吾輩は猫である』の初めの方で迷亭君が「この孔雀(クジャク)の舌の料理は往昔羅馬(ローマ )全盛のみぎり、一時非常に流行致し候ものにて、豪奢風流の極度と平生よりひそかに食指を動かしおり候・・・」などと苦沙弥(クシャミ)先生に手紙を送るところがあった。クジャクの舌がどれだけローマで珍重されどれだけ流行したのか、よくわからないが、舌ではなく肉の方は食べていたことは事実のようだ。プリニウスによれば、雄弁家のホルテンシウスが神官就任の饗宴の席で、ローマで初めてクジャクを食卓にのせたし、マルクス・アウフィディウスという人物がクジャクの飼育で大もうけをしたともいう。ローマでは一般的な食品となっていたことが伺える。二世紀の人アテナイオスは、ローマ市内にはおびただしいクジャクが飼育されておりその数は大変なものだと言っている(『食卓の賢人たち』)。しかし、それが珍味であったかどうかはわからない。その代わりというか、ローマ第一の美食家といわれたアピキウスが、ベニヅルの舌は特別の風味があると宣言したという。迷亭君の話には、ベニヅルとクジャクの混同があるのかもしれない。見えっぱりのローマ人は、珍奇なものを食卓に並べて自慢しあっていた。こういう風潮に対してプリニウスは、人間の舌を皿に盛ったりすることよりはましだがと、際どい冗談を言っている。クジャクの肉を食べるというのも、見事な羽をもつ鳥を食べてみたいという好奇心からのものだったのだろう。

 ポンペイの遺跡の下水やトイレ、ゴミ捨て場などを調べたところ、キリンの関節や、フラミンゴを食べた形跡などが発見されたそうだ。『博物誌』にはそれは書いていないが、十分ありうることだ。一般にローマ人は食品としては小動物、とくに魚や小鳥を好んだようだ。ガイウス・ヒリウスという人物はヤツメウナギの大きな養殖場を経営し、カエサルの凱旋饗宴に六千匹のヤツメウナギを提供したという。ホルテンシウスという弁護士は自分が飼っている一匹のヤツメウナギに深い愛情を持つようになり、それが死んだとき泣いたと信じられているとプリニウスは報告している。特に珍重されたのがボラ、とくに赤ボラが第一等だった。贅沢について工夫することにかけて天才であったアピキウスは、赤ボラの肝で練り物をつくることを推奨したという。魚以上に喜ばれたのが小鳥である。アピキウスはベニヅルの舌を推奨したことは先に述べたが、それ以外に、エゾライチョウ、ウ、小ヅルなどいろいろな珍しい鳥が珍重された。また、いろいろな鳥の飼育法・調理法などが開発された。たとえば肥育されたメンドリの肉を、そのメンドリの肉汁で照り焼きにするという有害な習慣が始まった。そこで第三次ポエニ戦争の少し前、執政官のガイウス・ファンニウスは、肥育されないメンドリだけの料理ならいいが、それ以外のどんな鶏料理も供してはならないという法律をつくった。プリニウスは、この法律はその後も更新され、ローマのすべての奢侈禁止法を通じて生きつづけてきたと述べている。ところが、この禁制からの逃れ道を発見する人間が現れる。オンドリに牛乳に浸した餌を与えて肥育する方法で、その調理法をも紹介している。そんな調理法まで調べて書き連ねるなんて、ご苦労なことだ。

 さて迷亭君の手紙のことだが、迷亭君は「ご承知の通り、孔雀一羽につき、舌肉の分量は小指の半ばにも足らぬ程故健啖なる大兄の胃袋を充たす為には・・・是非共二三十羽を捕獲致さざる可からずと存候」と、さらにクジャクは、「動物園、浅草花屋敷等にはちらほら見受け候へども」普通の鳥屋などには一向に見当たらないので苦心すると、もっともらしく語ったうえ、先生にクジャクの舌をご馳走したいが、胃弱の先生が食べすぎて腹をこわすといけないから、食後入浴したのち食べたものを吐き出してはまた食べるという、ローマ人の胃の洗浄法を研究してからにしましょうと、苦沙弥先生をかつぐ話であった。なんとも平穏無事なお話ではあるが、迷亭君は次のような趣旨のことも書いていている。

日露戦争第二年目になった折り柄、われら戦勝国の国民はぜひともローマ人にならって、この入浴嘔吐の術を研究しなければならない。その機会が到来した。このようにしなければ、せっかくの大国民も近い将来、ことごとく大兄(苦沙弥先生のこと)のように胃病患者になることをひそかにおそれている・・・と。漱石が胃弱であったことは広く知られたことである。多少付言すれば、迷亭君のいう入浴嘔吐の術というのは、ローマでの嘔吐法とは幾分異なるように思うが些事にはこだわるまい。さらに余談だが、小生(筆者)往昔、東洋史の先生に、中国の王侯貴族は目の前に何百皿もの馳走を運ばせ、食べては吐き吐いては食べたこと、さらには、最高の馳走は、生まれたばかりの白ネズミを蜂蜜だけで育て、食べごろになったら、生きたまま飲み込むことだと聞かされた。飲み込むとき喉もとで「チュウ」と鳴くのがたまらないのだそうだ。その話をしたときの先生のしたり顔は今でもしっかり覚えている。

 

ローマ人の食と入浴

 一世紀の頃、つまりプリニウスの頃の一般市民の普通の生活習慣は? 共同浴場から帰ると夕食が待っていた。ローマ市民は、自宅に友人を招くか招かれるか、いずれにしても夕食は友人などと共にするのが普通だった。富裕者たちは豪華に、庶民はつつましく。カトーのような質実剛健な典型的ローマ人でもその生活習慣は守っていたようである。

 ローマの饗宴生活については数々の人が書き残している。誇張も多いのでそのまま信ずるのは危険だが、信じられないほど豪華な食卓から至極慎しい食卓まで多様である。それらはわが国でも詳しく紹介されている。なかでも有名なのは、ネロの時代のペトロニウスの作品とされる小説『サチュリコン』に描かれた「トリマルキオの饗宴の場」だろう。ローマの桁外れに贅沢な晩餐の描写では右に出るものはない。それこそ食べては吐き、吐いては食べる宴会だった。ペトロニウスはプリニウスの少し前の人であり有名人だったが、それについてプリニウスは何も書いてない。

 プリニウスの少し後の風刺詩人マルティアリス(後40頃―104頃)の、友人への饗宴招待文の一部を紹介しよう。

・・・まず近所の浴場で入浴を済ませ(日本の銭湯のような浴場があちこちにあったらしい)、食卓についたらまず前菜としてレタス、リーク、ゆで卵、ヘンルーダを添えたマグロ、チーズ、味つけしたオリーヴの実などを出そう・・・と続く。

 きわめてありふれた献立である。卵はローマの食事では定番。問題はその後。君に来て貰うために嘘をつこうと言って、メインデッシュに豪華なメニューを並べ立てる。実際にそれらが出たかどうかは不明、飾り文句かもしれないのだ。だがその友人にとっての最大の魅力はその招待文でマルティリアスが、私は何も朗読しない、だが君は気のすむまで自作品を読んで聞かせてくれたまえと約束したことだった。

 宴会の席で、自作を著名人に聞いてもらうことは、文人にとっていかなるご馳走よりも魅力的なことだった。ローマには各地から文筆で名を上げようとする人々が雲霞のように集まっていたに相違ない。マルティアリス自身がヒスパニアから青雲の志を抱いてやって来た一人であった。彼は運よく皇帝の寵児となって、著書も売れ、農園もある家屋敷を構えることができる身分になった。そのマルティアリスに自作の朗読を聞いてもらえるのはなんと幸運なことか。トリマルキオの饗宴は馬鹿げた乱痴気騒ぎだったが、このマルティアリスの食卓は静かな落ち着いた宴だったに違いない。

 プリニウスが敬意を表していたキケロは、ある友人に、来る日も来る日も、読書か著作に没頭し、その後は、友人たちを少しは喜ばせる目的で彼らと食事をする。奢侈禁止令を守っているのはもちろんのこと、たいていはずっと少ない出費で済ましてい

ると書き送っている。プリニウスと違って、食事中も読書に没頭したとは書いていないが、ローマの高官でも奢侈禁止令を守ろうとする姿勢があったことを教えてくれる。いや、高官だからこそ、かもしれない。トルマキオは成金の解放奴隷であり、その宴会に招かれた客もほとんど成金の解放奴隷だったらしい。ローマ社会も大きく変わってきていた。

 ところで、吾輩が苦沙弥先生の入浴状況を観察した一文がある。銭湯に忍び込んだ吾輩は、浴場で少年と喧嘩をしている先生を発見する。「元来主人はあまり堅過ぎていかん。石炭のたき殻見た様にかさかさして然もいやに硬い。むかしハンニバルがアルプス山を超える時に、路の真中に当たって大きな岩があって、どうしても軍隊が通行上の不便邪魔をする。そこでハンニバルは此(コノ)大きな岩へ酢をかけて火を焚いて、柔らかにして置いて、夫(ソレ)から鋸で此大岩を蒲鉾の様に切って滞りなく通行したそうだ。主人の如くこんな利目(キキメ)のある薬湯へ煮(ウ)だる程入っても少しも効能のない男は矢張(ヤハ)り酢をかけて火炙りにするに限ると思ふ」。

 ハンニバルの話はリウィウスが『ローマ史』で伝えるところだが、「吾輩」の話は少し変えてある。『ローマ史』の方は、熱した岩に酢をかけてから砕くのであり、先に酢をかけるのではない。また鋸で切るのでもない。いくらなんでも、蒲鉾のように切ったりはできまい。それにしても吾輩は物騒なことをいう。吾輩が蒲鉾のように切り刻みたかったのは、ほんとうは誰だったのだろうか。こうなると、苦沙弥先生も、吾輩にかかってはさんざん、猫は言いたい放題である。それにしても、こんな銭湯では入浴・嘔吐の術など使えそうにもない。やはりローマ風呂に入らなければならないのでは?

ここで平均的ローマ人の入浴について。多くのローマ市民は暇だったので、共同浴場に長居する習慣が生まれた。共同浴場は平民の別荘(ウィラ)だったとローマ史家のピエール・グリマールは評している。彼は次のように描写した。

一般市民は、朝の伺候が終わり食糧の購入やいくつかの仕事を処理してしまうと、そのあと、なにもすることのない長い午後が待ち受けていた。昼寝のあと共同浴場へ出かける。女性専用の浴場もあった。ない場合は女性専用の時間帯があった。更衣室で服を脱ぐ。まずぬるま湯の温浴室、そして乾式サウナ室へ、汗に覆われると冷水室へ、次は熱湯の浴槽に、そこで垢擦りヘラで全身を擦ってもらう。最後に冷水プールで体を引き締めて終わる。浴槽が広いと少し泳ぐ。また、マッサージ師の世話になる。時間があれば何人かの仲間と入浴し、とめどもなくおしゃべりをする。あるいは寝そべって日光浴をしたりボール遊びをする。庭園の小徑で散歩する。ソーセージやケーキの売り子、居酒屋のボーイたちが独自の調子で客を呼び込む・・・。

 

プリニウスの場合

プリニウスは内風呂を使った。ローマの水道は大方が市民共用だったが、二千戸余りには個人用水道が認められていて自家用の風呂があった。彼のように、入浴中も読書や筆記に熱中するには共同浴場は不向きである。 

 プリニウスの食事や入浴については、彼の甥の小プリニウスが書き残したものがある。まず、バエビウス・マケル宛の手紙から。「夜明け前に彼は、ウェスパシアヌス帝に伺候したあと職務につくのでした。帰宅後少しでも時間があると、自分の仕事に充てました。食後(彼の日中の食事は、古いしきたりによって、軽く簡素なものでした)、夏のあまり忙しくないときには、よく陽の下に横たわり、本を読ませている間に覚え書きや抜粋をつくっていたものです」「太陽のもとで休んだあと、彼は、普通は冷たい風呂に入り、何かを食べ、短い睡眠をとりました」「そのあと、まるで新しい一日が始まったかのように仕事を始め、夕食まで続けました。夕食のあいだ中、本を読ませ、手早く覚書をつくっていました」・・・。これはプリニウスがローマで『博物誌』を執筆していた頃の話である。

 次はローマの地中海艦隊長をしている時のことである。「伯父は、現役の指揮官として、ミセヌムに駐屯していました。八月二四日の第七時頃(注・午後の早い時間)、母が、大きさも形も異様な雲について、伯父の注意をうながしました。彼は外で太陽にあたったあと、冷たい風呂に入り、横たわって昼食をとり、本を読んでいました」。彼の邸宅は、ナポリ湾やウェスウィウスまで広く展望できる丘の上にあったのだろうが、彼は靴をもってこさせ更によく見えるところに登って観測を始めた(コルネリウス・タキトゥスへの手紙)。

 少し余談だが、彼の入浴に関して少し述べる。小プリニウスは、ウェスウィウス山の噴火は八月二四日と書いており、噴火を目撃しそれを後世に伝えた人は彼だけだから、それが定説として今日まできた。ところが噴火は一一月二四日だという異説が現れた。その異論の内容や反論についてはここでは触れないが、一点だけ疑問を書いておく。小プリニウスは二度とも、伯父は日光浴のあと冷水の風呂に入ったとしている。ローマでの風呂は「夏のあまり忙しくないとき」であったし、噴火は八月二四日である。日光浴後、冷水の風呂に入るのは何ら不自然ではない。だが、一一月の下旬に日光浴と冷水風呂というのはいかにも不自然である。

 

(二) 人相学と大和魂

 

山芋どろぼう

 『猫』が雑誌『ホトトギス』に連載されたのは一九〇五年(明治三八)一月から翌年の八月まで。〇五年一月旅順開城、三月奉天会戦、五月日本海海戦、九月ポーツマス条約調印・日比谷焼き打ち事件と続く、そういう時代だった。この日露戦争は国内にいろいろな影響を及ぼし、戦争成金も多数生まれた。苦沙弥先生の向こう横丁の角屋敷の金田という金満家の実業家も多分そうだろう。その一方で、物価高騰に多くの庶民が苦しめられた。ある夜、先生宅に泥棒が入る(『吾輩は猫である・五』)。泥棒が盗んでいったのは到来物の山芋の箱と、先生夫妻の普段着。貧乏人の学者の家に入らずとも、金田さん宅にでも入ればよかったと思うのだが、これは創作だから詮索は無用。

 その泥棒の侵入にいち早く気づいたのは吾輩(猫)だが、怖くて声も出せない。しかし夜目が効くので、ちゃっかり泥棒の人相は見分けることができた。そこで「吾輩」は人相論を展開する。「人間も斯様にうじゃうじゃ居るが、同じ顔をしている者は世界中に一人もいない。顔の道具は無論極まって居る・・・同じ材料で出来上がって居るにも関わらず、一人も同じ結果に出来上がって居らん」と。そのうえで次のようにも考える。神はすべて同じような顔に造ろうとしたが作り損ねてこのようになったのではないか、それは神の無能力を推察させるものだ。

プリニウスは『博物誌』でこんなことを言っていた。「われわれの顔には一〇かあるいはそれよりもほんの少しの道具立てしかないのに、無数の人類の間に、区別できない顔つきは決して二つとないことを考えてみるがよい。雛形はごく少ないのにどんな技術をもってしてもその偽物を提供することはできない」と。またプリニウスを愛読していたレオナルド・ダ・ヴィンチは次のようにいう。「自然が肢体の性質に唯一の基準を定めるとしたら、すべての顔は互いに識別できないほど似かよったことであろう。しかし自然は顔の五つ道具に大いに変化あらしめ、大きな点ではほとんど普遍的な基準を設けたとはいえ、質においてそういう基準を守らなかったので、そのおかげで一人一人はっきりと識別できるわけである(『レオナルド・ダ・ヴぃンチの手記』杉浦民平訳)。

プリニウスの頃というより古代においては、何事にかけても占いの効果が広く信じられていた。星占い‣鳥占い・・・個人はもとより国家的行事・戦争などにも多様に利用された。プリニウスは基本的に占いの効能を認めてはいないが、人心に与える心理的効果については配慮が必要だとみていたらしい。だが彼はアリストテレスの人相論などにははっきり反対した。彼は「アリストテレスがわれわれのからだにはわれわれの生涯を予告する前兆が含まれていると信じただけでなく、その信念を発表したことに驚く」として幾つかの例をあげ批判している。また、同時代人で批判的な権威者であるトログスという人物(一世紀ローマの歴史家)の言も紹介している。額の大きいのは精神が遅鈍、小さな額を持つ人は鋭敏。眉が水平な人は温和、鼻の方に曲がっている人は厳格。全体に垂れている人は悪意があり邪悪。目の両側が細いのは腹黒、広いのは鉄面皮、眼の白い部分が多いのは無遠慮。耳が大きいのはおしゃべりとたわけ・・・などなど。そして最後に「トログスはこれくらいでたくさん」と締めくくる。本当は「アリストテレスもたくさん」と言いたいのかもしれない。しかしプリニウスは、この記事の後,別項で、そっくりさんのエピソードを紹介している。矛盾した話だが別に咎める必要もないだろう。

 プリニウスの本心は、民衆が、占星術と同じように人相学にも信頼をおくことに危惧を抱いたことにあると思う。彼によれば、それらはしばしば理性のコントロールの欠如や不安定性から生まれるものであった。権力者が民衆の不安を煽り、恐怖を覚えた民衆は占星術や魔術や人相学などに逃げ場を求めるようになる。だから、人相学的な前兆は愚劣そのものだと彼はいう。人相学や手相学、生命判断などは今日でも一定の支持はあるだろうが、ともあれ今は二一世紀の世のなかである。科学的体裁を装いながら民衆の不安を助長する技術は発達している。その民衆の不安を発散させ一方的にある方向に導く手段も巧妙になっている。

 

大和魂

話を元に戻そう。この泥棒話の少しあとで苦沙弥先生は、短文を作ったからご批評を願うといって東風さんや寒月君に読んで聞かせる。ここは面白いのでそのまま引用させてもらう。改行は略。

「大和魂と叫んで日本人が肺病やみのような咳をした」「起し得て突こつ(高く突き出る)ですね」と寒月君がほめる。「大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!と掏摸(すり)が云う。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする」。「成程こりゃ天然居士以上の作だ」と今度は迷亭先生がそり返って見せる。「東郷大将が大和魂を有(も)って居る。詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有って居る」「先生そこへ寒月も有って居るとつけて下さい」「大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行ってからエヘンと云う声が聞こえた」―三行略―「先生大分面白う御座いますが、ちと大和魂が多過ぎはしませんか」と東風君が注意する。「賛成」と云ったのは無論迷亭である。「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」。主人は一結杳然と云う積りで読み終わった・・・。 

 漱石の面目躍如といった風情である。この苦沙弥先生の「短文」を聞いた迷亭君が、戦勝国になったのだからこそローマ人の入浴嘔吐の術を学ばなければみんな胃弱になってしまうと、ものの道理がわかったような、わからないようなことを言う筋書きになっている。漱石は迷亭君の言葉を借りながら自分のこころを語った。日本人は誰も彼もが「大和魂」と叫んで嘔吐の術を用いず、なんでもかでも呑み込んでしまうので胃腸が破裂してしまった・・・それが漱石の実感なのだろうか。

その後、漱石は『三四郎』(1908年)の中で、日露戦争に勝利したから「これから日本もだんだん発展するでしょう」という三四郎に対し、広田先生が「滅びるね」と答える場面を描いた。

のちに司馬遼太郎は「日露戦争を境として日本人の国民的理性が大きく後退して狂躁の昭和期に入る」「民族的に痴呆化した」(『坂の上の雲』あとがき)と書いた。今日の日本民族の特性は、この日露戦争によって形成されたという説もある。「大日本帝国」の滅亡によって一度冷静に戻った日本人も、平成の今日、「日本を取り戻そう」という掛け声の下、いままた民族的痴呆化への道を歩もうとしているのだろうか。狂騒の世のはじまりだろうか。

 

(三)スペルブスの本

 

 『吾輩は猫である・三』に、苦沙弥先生の細君と迷亭君との会話がある。細君は、苦沙弥先生から後学のために聞けといわれて、ローマの「樽金」という王様の話を聞かされたとのこと。迷亭君は、それはローマの七代目の王様タークヰン・ゼ・プラウドのことだろうという。実はこれは、ローマ最後の国王とされるルキウス・タルクイニウス・スペルブス(在位前534-10年)のことである。細君が先生から聞いた話というのは次のとおり。

 この王様の所へ一人の女が九冊の本を持ってきて買ってくれないかといった。王様が値段を聞くと高いことをいうので負(ま)けないかというと、その女は三冊を火に投げ入れた。王は少しは値が下がっただろうと改めて聞くと、元の値段から一文も引かないという。それは乱暴だと王がいうと、女はまた三冊を燃やしてしまった。だから残りは三冊になったが元通り一厘も引かない。王はとうとう高いお金を出してその三冊を買った・・・というお話である。これは神話や伝承の中の話である。「女」というのはアポロンの神託を告げるクマエ(キューメ)の巫女シビュラのことで、書物というのはギリシア語で書かれた予言神託集だとのことだという。これに似たような話はいろいろあり、他にシュビラは何人もいたという説もある。

プリニウスは、あまねく一致した意見だとして以下のように述べている「シビュラは三冊をタルクイニウス・スペルブス王のところへ持ってきたが、そのうちの二冊は彼女自身によって焼かれ、残りの一冊はスラの危機の際カピトル神殿が焼けたため焼失した」。彼の頃にはこれが定説になっていたらしい。こんなあやふやな話をなぜ書いたのか、彼はこの話をパピルス紙に関する叙述の中で述べているのである。彼はパピルスの生育、紙の製法、用途、文明に与えてきたなど影響など多くの紙面を使って叙述した。例えば、ローマ第二代の王ヌマの遺体の入った箱の中に数冊の本が発見された。その本が何冊で何の本であったかいろいろ論議があったこと・・・ピュタゴラスの宗教教義だとか、司教法に関するものだとか、ヌマ法典の一二冊だとか、古代人の遺跡に関する七冊だとか、ギリシア哲学の教義一二冊だとか・・・それにこれらの書物は焼き捨てられるべきだという元老院の決議だとか・・・。これらの書物の発見はヌマの即位(伝・前七一五年)から五三五年後のことで、パピル紙に書かれたこの書がこのような長期間土の中に保存された原因はなにか、プリニウスはいろいろな説や自己の見解を提示している。そしてパピルスがいかに貴重で高価なものであるかを強調している。

 さて話を元に戻すと、苦沙弥先生が細君に言いたかったことは、さほどに本というものは貴重であり高価なものだから、亭主が本を買うことに文句をつけるなということだろう。さすが、もう紙の値が高いとは言っていない。だが書籍が高価だったことに違いない。特に戦前の輸入原書はとても高価であったことを知らないと、細君の愚痴もあまりピンとこないかもしれない。漱石の給料は、熊本高校教授のときの月給百円、東大講師のときの年俸が八〇〇円。『猫』執筆当時は明治大学講師で月給三〇円。これは筆者の想像だか、洋書一冊平均五円くらいはしたのではないか。寺田寅彦が「丸善と三越」という随筆を書いている。それによると、あのころ書物の値段は正札ではなく符丁で書いてあったという。たとえばアンカナというのは一円五十銭のことだった。どんな書物のことかは書いてない。いずれにせよ、これでは細君も苦しかろう。「女中」も雇っていただろうし。その後漱石は朝日新聞社に入社し月給二〇〇円になった。中学の教師が月給百円前後だったと思うので、これはかなりの高給取りだ。しかし当時、学生が洋書を入手するのは容易ではなかった。金に困って折角購入した書物を質入れするのは日常的だった。学生の街では書物も立派な質種であり、大学や高校(旧制)の門前に古書店が並んだのも、それが質屋を兼ねていたせいかもしれない。

 迷亭君がまあまあと宥めても細君の不満は収まらない。「無闇に読みもしない本許(ばかり)買ひましてね・・・勝手に丸善へ行っちゃ何冊でも取って来て、月末になると知らん顔をして居るんですもの、去年の暮なんか、月々のが溜まって大変困りました」。だが苦沙弥先生は「貴様は学者の妻(さい)にも似合はん、毫も書籍(しょじゃく)の価値を解して居らん」といって、先の樽金の話を細君に言って聞かせる次第となったらしい。もちろんこれは小説上の話ではあるが、話としては真実味を帯びている。漱石がシュビラの書の話をどこから仕入れたかはわからない。

 

(四)機械ある者は機事あり

 

獨仙先生 

  ある日、八木獨仙という人物が苦沙弥先生に説教する。

「川が生意気だって橋をかける、山が気に喰はんと云って隧道(トンネル)を掘る。交通が面倒だと云って鉄道を布(し)く。夫(それ)で永久満足が出来るものぢゃない。・・・西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生をくらす人の作った文明さ。日本の文明は自分以外の状態を変化させて満足を求めるのじゃない。西洋と大いに違ふ所は、根本的に周囲の境遇は動かすべからざるものと云ふ一大仮定の下に発達して居るのだ・・・自然其物を観るのも其通り。山があって隣国へ行かれなければ、山を崩すと云う考えを起こす代わりに隣国へ行かんでも困らないと云う工夫をする。山を越さなくとも満足だと云う心持ちを養成するのだ」(『吾輩は猫である・八』)

 さて、後日迷亭君が訪ねてきたとき先生は「君はしきりに時候(時候)おくれを気にするが 、時と場合によると、時候おくれの方がえらいんだぜ。第一今の学問と云うものは先へ先へと行く丈(だけ)で、どこ迄行ったって際限はありやしない。到底満足は得られやしない・・・」などと自説のように述べ立てた。しかし、たちまち八木獨仙の受け売りがばれてしまう。迷亭君はいう「あんまり人の云う事を真に受けると馬鹿を見るぜ。一体君は人の言うことを何でも蚊(か)でも正直に受けるからいけない。獨仙も口丈は立派なものだがね、いざとなると御互(おたがひ)と同じものだよ・・・」。                              

 前出のように、漱石は『行人』の中でも「兄さん」にこう言わせた。「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許して呉れた事がない。・・・何処まで行っても休ませて呉れない。何処迄伴れて行かれるか分からない。実に恐ろしい」と・・・。

 『猫』の発表が一九〇四年から〇五年にかけて、『行人』の発表は一九一二年から一三年にかけて」。「兄さん」の発言なども併せて考えると、それは漱石の真実の声だったかもしれない。

プリニウスは、この地上にあるもので充分豊かな生活ができるとし、地中深く大地へもぐり込んで鉱物を採掘したり、遠くから大理石を運んで来たり、贅沢心を助長するような金・銀の過度な採掘、あるいは戦争に用いられるような鉄の採掘には厳しい批判を浴びせていた。危険を冒しながら海中深く潜って、真珠や、染料の原料となる紫貝などを採取することにも異議を唱えていた。そして、このわれわれの世界の向こう側にあるものの追求は無駄なことであり、先へ先へといっても満足は得られない、人間の欲望はきりがなく、奢侈は人間社会を滅亡に導くと、しばしば警告を発していた。漱石も、つとに西欧文明の弊害、その行く先を見つめていたと思えるのである。

 

子貢のみたもの

漱石は荘子を愛読したという。『荘子』天地篇に出てくる話を付け加えておく。

孔子の弟子・子貢が旅先で農作業をしている一人の老人を見た。近くの井戸から甕に水を汲みあげ、畑に撒いている。大変な骨折りだが効果はさっぱり。子貢はそこで、「撥ねつるべ」というものがあり、まるで流れるように水を汲み上げることができると教える。その農夫は言った。

「吾れこれを吾が師より聞けり。機械ある者は必ず機事あり。機事ある者は必ず機心あり。機心、胸中に存すれば、即ち純白備わらず。純白備わらざれば、すなわち神生(性)定まらず。神生(性)定まらざる者は、道の載せざる所なりと。吾は知らざるに非ずも、羞じて為さざるなりと」

「わしは、わしの師匠から教えられたよ。仕掛けからくりを用いる者は、必ずからくり事をするものだ。からくり事をする者は、必ずからくり心をめぐらすものだ。からくり心が胸中に起こると、純真潔白な本来のものがなくなり、純真潔白なものが失われると精神や本性(うまれつき)のはたらきが安定しなくなる。精神や本性が安定しない者は、道によって支持されないね。わしは『撥ねつるべ』を知らないわけじゃない。(道に対して)恥ずかしいから使わないのだよ」(金谷治・訳注)

魯の国に帰った子貢は孔子にこの話をした。孔子は、その人は、ことの一面がわかっていても両面を知らない。内面の心性のことは良く考えていても外面の世間のことを配慮していないと批判した。孔子の批判は官僚的で面白くない。孔子の話はどこか大都会の秀才の言い分であり、老農夫の話は、どこか東北、たとえばフクシマの里山あたりの引きこもり賢者の言葉に聞こえる。この話は漱石も読んでいたことだろうと思う。だがプリニウスを読んでいたかどうかはわからない。彼はロンドンに留学したが居心地はよくなかったらしい。孤独に苛まされながら読書に励んだというではないか。その読書リストの中にプリニウスの『博物誌』が入っていても不思議はない。また『吾輩は猫である』の寒月のモデルともいわれる寺田寅彦からプリニウスのことを聞いた可能性もある。寅彦は、スウェーデン出身でノーベル化学賞受賞(1903年)のスワンテ・アウグスト・アーレニウスの『史的に見たる科学的宇宙観の変遷』の翻訳者である。この書にプリニウスの名が出てくる。だが、漱石がプリニウスを読んでいたか否かはやっぱりわからない。

 

 

 

 


プリニウス つれづれ(2)東の海から

2016-09-09 15:46:40 | 日記

                             <「Z2 東の海へ(プリニウス随想2)」の改訂版>

 

                                                             (一)  対蹠人

                       (二)  亜麻と亜麻布

                       (三)  ラブレーにおけるプリニウス

                        (四)東の島へ

                                                   (五) インド航路

                                                                   (六) 奢侈の代価

 

      (一)対蹠人(たいせきじん)

 

父親が発明した空中を飛ぶ翼を使って、息子のイカロスは父の命令を聞かずに高く飛び上がった。そのため太陽の熱に焼かれて墜落死した、これはギリシア神話に出てくる有名な話である。若いスキピオは養祖父アフリカヌスに導かれて、宇宙の星で明るく輝く場所に行き呆然と宇宙を眺める。アフリカヌスはいう。「地球はほんの小さい球体に過ぎない。地中海世界に君臨するローマ人といえども、対蹠人の称賛を期待することはできない。宇宙から見れば大国ローマも一点のシミに過ぎず・・・」(『キケロ選集8』「スピキオの夢」岡道男訳)。また皇帝マルクス・アウレリウスも「全く地球全体が一点にすぎないのだ。そして我々の住む所はこの地球のなんと小さな片隅に過ぎぬことよ」と書き残した(『自省録』神谷美恵子訳)

 その一点のシミでしかない大国ローマの片隅にプリニウスは生きたことになる。その彼は夢とか空想は得意でない。むしろ現実派である。古代ローマでは地球が球体であることは判っていたし、大陸が海に囲まれていることも承知していた。プリニウスは、例えば、港に入ってくる帆船はマストから順に見えてくることなど、いくつかの証拠を挙げて説明している。そして「地球の反対側にいる人々はどうして落ちないのか」という疑問に対してこう言っている、「空の天辺は人類すべての者にとって同じであり、彼らが踏んでいる土地はいずれの方向からも中心にある」「地球そのものが宙にぶら下がっていて、われわれもろとも落下しないといういま一つの不思議が起こるとき、この説(落下するという説)が何の役に立つだろうか」と。彼は一般大衆に向けて語っているのである。そして彼は地球の形態を次のように説明している。「自然という造物主の意図は、大地と水を互いに抱擁させて結合することにあったに違いない。大地はその胸を広げ、水は内部にも外部にも、上にも下にも放射する血管によって大地の全構造にくまなく浸透してゆく・・・結論は、地球はその球のいずれの点においても、それをめぐって流れる海に取り囲まれているということで、このことは理論的調査の必要はなく、すでに経験によって確かめられたことなのだ」

 ならば、船によって対蹠人の国にたどり着けると考えるのは至極当然である。しかし海はそんなに優しくもないし、容易に人を近づけるものでもない。大西洋の海水はジブラルタル海峡から闖入してきてヨーロッパとアフリカに引き裂き、その襲来を怖れていた沿岸を埋没させ、今もなお抵抗する国々を洗っている。そして海岸の都市を掠略し多くの土地を崩壊させる。そこでイタリア半島は地中海に必死でせり出し、世界の人々を救おうと努力している。なぜそんなことになってしまったのか。それは、万物の生みの親である「自然」が「大地」を嫉むあまり「海」に野放途な気ままを許しているからだ。なぜ「自然」が「大地」を嫉むのか。それは、「大地」が「母なる大地」と呼ばれたりするからだ。もともと「自然」が「大地」や「海」の生みの親なのに・・・。

 古代人のこのような発想はなんと自由奔放で壮大なことか、だがその凶暴な海も、紀元一世紀の頃には「ローマの平和」のなかで人類に手懐けられ「われらの海」と、なめられた名前になっていた。ローマ人たちはジブラルタルを越えて北海へ、南はアフリカ一周まで行い、アラビア海やインド洋を越えて貿易をするようになった。

             

  (二)亜麻と亜麻布

 

「われらの海」を保証するのは政治力と同時に造船技術を含む航海術の発達である。その背後に「自然」と大地の戦いがある。「自然」は茨を用いて大地を苦しめる。茨を放置しておくと、その細い若枝はどんどん伸び、その先端を土のなかに潜り込ませて根を張り新しい枝をはびこらせ、大地を疲弊させる。しかし生みの親の大地はここで人間と手を結び共同作戦に出る。人間は茨を取り除けて畑を作り、大地を豊かにするのだ。

 これと同じような方法で、亜麻の栽培も大地を疲弊させる。だが、亜麻くらい栽培の容易な植物はなく、一度耕すだけでよい。そしてこんなに急速に生長する植物もない。しかし亜麻の栽培は土地を焼き、土地の質を悪化させる。にもかかわらず亜麻の栽培は広がり続け、ローマ世界でも極めて重要な農産物となっていた。そして亜麻を加工して作られた亜麻布は古代社会にはなくてはならない商品であった。日常の生活用品から広場での集会のための天幕、闘技場での日よけのテント、それは家庭でも使われる。産地はローマ世界の各地に広がり、品種もその用途も多様になった。そして互いの交易も進む。

その亜麻を亜麻布(リンネル)に織ることは男にとっても立派な仕事だとプリニウスは言う。仕事というものを軽蔑したギリシア人に比べ、なんという違いだ! そういう技術を紹介したうえで彼はいう。あんなに小さい種子から全世界をあちこちに運ぶ手段が生まれる。まことに細く、ほんのわずかしか地面から高くない植物が、石の上で小槌で打たれ、打ち砕かれて無理やりに羊毛のように柔らかくされる。そういう虐待を受けた後に最高度の大胆不敵さを獲得するのだと。そしていう。そのような技術で亜麻の帆を作り、航海術を発明した人間にはどんな呪いをかけても足りないと。その発明者は人間が陸上で死ぬことだけでは満足しなかったのだと。そしてそのような帆を誰が発明したかと問い、それはイカロスによってだと書いている。それがウソだということは誰でも知っている。なのにそのウソを平気で書く。

 ともあれ、巨大な亜麻製の帆の利用によってイタリアとエジプトの距離が目に見えて短くなった。そして地中海の大海賊団はポンペイウスによって撃滅され、残るは沿岸にちょろちょろと出没するこそ泥のような海賊だけになっていて、地中海上での略奪は大した脅威ではない。だがしかし、悪天候、暴風雨は相変わらず航海にとっての強敵だったし、ローマの支配権外の航行にも大きな危険が伴った。そういう危険を侵して海洋に乗り出す人々は増加した。それを横目で見ながらプリニウスはそれを生命の軽視だとして批判し、そしていう「風や嵐をとらえるために一種の植物を栽培し、波だけで運ばれることに満足せず、船より大きな帆をつくったことでさえ満足せず、帆桁の上にも帆を加え、船首や船尾にも帆をつけ、そこまでして死に挑戦している」と。

 

(三)ヘルボルスの薬効とパンタグリュエリオン草の効能

 ラブレー(1494頃―1553頃)の『ガルガンチュワとパンタグリュエル物語』は偉大な風刺作品である。ガルガンチュアは父のグラングジュジュからその才能を期待され、いろいろな家庭教師をつけてもらった。だがそれらの家庭教師から受けたのは伝統的な、無味乾燥な文法書や難しい各種の注釈書のまる暗記教育であった。それらの教育からは何ら得ることはなく、逆に頭が変になり、ぼんやりし、薄のろになってしまった。そこで父親は家庭教師たちを追いだし、パリにいる評判のポノクラートという先生につかせた。ところが、古い教育が詰め込まれていて新しい教育ができないので、ポノクラート先生は医者と相談してヘレボルスという薬で下剤をかけてガルガンチュアの脳味噌を変質させる。そして、むかし習ったことをすべて忘れさせることに成功し、いよいよ新しい教育にとりかかった・・・と続く。

ではヘルボレスとは何か。辞書によると、aヨーロッパ産キンポウゲ科クリスマスローズ属の総称、bユリ科バイケイソウ族の総称、cこれらの植物の草根であり、その粉末は殺虫剤として使用とある。古代ギリシア・ローマ時代には精神病に用いたという。プリニウスによると、てんかん、めまい、鬱病、狂気、乱心、破傷風、痛風、水腫、胃病、座骨神経痛などに効くとその効能はまことに多い。カルネアデス(ギリシアの哲学者)がゼノン(ギリシアの哲学者)の著述に答える準備をしていたとき、ヘレボルスで便通をつけたことや、ドルススがこの薬でてんかんを治した事例などが挙げられている。

 さて、ヘレボルスの服用ですっきりしたガリガンチュアが受けた新しい教育は、実際生活に根ざし観察を重要視したものだった。用いられた教科書はプリニウスを先頭としてアテナイオス(エジプトのナウクラティスの人、『食卓の賢人たち』の作者)。ディオスコリデス(1世紀のローマの植物学者)、ユリウス・ポルックス(2世紀のギリシアの修辞学者、百科全書的著作がある)、ガレノス(129頃-199、ギリシアの医学者、リュビオス(前201頃―120頃、ギリシアの歴史家、主著『歴史』)その他が続くが、プラトンやアリストテレスなどは挙がっていない。このあと、いろいろな実験や、職人技術の習得なども重要な教育課程の一つだった。このように、ラブレーは、古い教育や思想、その体質を笑いとばし皮肉り、新しい教育・文化の復興、人類の進歩と発展をうたいあげようとした。その彼にとってプリニウスは自分の思想を韜晦のなかで表明するには絶好のか隠れ蓑であった。 

 そのような新しい教育で成長したガリガンチュアは奇想天外の活躍をするのだが、その息子のパンタグリュエルも父親に劣らず奮迅の奮闘ぶりを展開する。そこにパンタグリュエリオン草という奇妙な名の草が登場する。これはラブレーの創作によるものだが、実はプリニウスの記述のパロディであって、先の亜麻 (linum)に加え大麻(cannabis、綱などに用いられる)、アスベストゥス(不燃性の亜麻布と表現されている)などの性質を取り混ぜた空想の植物である。この草はまことに効能豊かな霊草で薬効限りなく、火に燃えることもなく、盗賊どもさえ追い払う。この草で作った紐や縄、布はありとあらゆる生活用品に用いられる。のみならず「目に見えぬ物象」も目に明らかに捕えることができる。それで帆をつくって風車を回し、また「巨大な輸送船も頑丈な商船も、千人万人の人員を擁する船舶も」自由自在に運行させることが可能で、人々は地球上のどこへでも思うがままに訪ねることができるのだ。そのありさまを見てオリュンポスの神々は驚愕し、人間どもはさらに別の植物を発明し、月世界のみならず星座にも昇ってきて神々と食卓を共にし、自分たちの女神を妻とするようになるのは必定だと恐れをなすと・・・このように話は展開する。このように象徴的に描かれたパンタグリュエリオン草は、ルネッサンス期の人々が新たに獲得せんとしたものの象徴、つまり合理精神、科学精神、自由検討精神の象徴だったのだろか。物語の展開は、パンタグリュエルが大きな船団を組んで大航海に乗り出し、いろいろな奇怪な島々を経めぐることになる。しかし、この船団を率いたパンタグリュエルはイカロスのように天に飛び立つことなくこの話は途切れてしまった。

                                            

   (四)タプロバネとセレス

 

プリニウスの頃、対蹠国がどこにあるか、全く判っていなかった。当然と言えば当然、アメリカ大陸発見の際にもわからなかったのだから。「パンンタグリュエル物語」はラブレーの想像力の産物であるが、プリニウスはできる限り真実の航海記をものしようと考えただろう。無謀な航海を厳しく批判はしたが現実は無視できない。彼は、海上におけるローマの交易について詳細な記述をのこしている。その範囲は紅海、ペルシア湾、アラビア海、インド洋そしてベンガル湾に及ぶ。この海域における商業活動に関しては、一世紀後半、一人の無名のローマ人が商船でエジプトを出発してこの海域を横断し、商業取引や地方の事情を書き残したものがある。つまり『エリュトラ海航海記』である。この書は見たり聞いたりしたことを順に書き記し重要な歴史資料と評価されている。プリニウスの記述の方は、ほとんど先人の記述に依存するか聞き取りなどに基づくものと思われる。だがローマ帝国の高官としての立場からの視点で見ているので興味ある報告となっている。

今はスリランカと、少し前はセイロンと、そしてプリニウスの時代にはタプロバネと呼ばれた地域の話から始める。

 「タプロバネ」は「反対国人の国」という意味で、長い間いま一つの世界であると考えられていた。しかしアレクサンドロス大王の時代、島であるとわかった。アレクサンドロスの海軍司令官の一人オネシクリトスは、そこではインドのものより、もっと大型で好戦的精神をもったゾウが飼われていると書いている。その島への航行日数は七日である。住民たちは航海のあいだ星の観測を行わない。その代わりたくさんの鳥を連れてゆく。適当な時間をおいてその鳥を放つ。鳥が陸に向って飛ぶ方向に船を進める。

 クラウディウスの治世(41-54)に、一人のローマの解放奴隷が漂流してこの島に流れ着いた。彼は国王によって親切にもてなされ、六カ月間で現地の言葉を覚え、ローマ人やその皇帝について説明した。その話の中で国王はローマ人の正直さにひどく感心した。それは「その捕らわれ人のもっている貨幣のうち、デナリウス銀貨が、そこに刻まれた肖像から見て、何人かの皇帝によって鋳造されたことを示しているのに、いずれも重さが同じだということからであった」とプリニウスは述べている。感心した国王は、四人の使者をローマに送った。そのためローマ人はもっと詳しいタプロバネの情報を得ることができた。この話は広く伝わりいろいろな書物に引用されていてまた引くのは少し気が引けるが載せてみた。プリニウスはまだ若くて騎兵隊長だったころの話だと思う。直接その使者たちの話を聞いたかどうかは判らないが、タプロバネついて多様な知識が得られrが、次のようなことを書いている。

 この島でも金銀は重んじられ、べっこうに似た大理石、真珠、宝石などが貴ばれる。ローマよりずっと冨み、贅沢である。奴隷はおらず、誰でもが日の出に起き、昼寝をするものはいない。裁判所や訴訟というようなものはない。国王は年齢が長じていること、気質が温和であること、子どもがいないことを基本として国民に選ばれる。世襲を防ぐためである。もし国王が怠慢の罪を犯すなら、死刑を宣告される。もっとも、その宣告を執行する者はいない。しかし人民のすべてが彼に背を向け、彼とどんな交渉をももとうとはせず、彼に言葉をかけることもいない。農業には熱心である。休日は狩猟で過し、虎狩り、像狩りは最も人気がある・・・。

一四世紀の人で、フランス人かイギリス人かわからないがサー・ジョン・マンディヴィルという人が『旅行記』という本を書いて大いに売れた。その中に大略次のような話がある。・・・この島では、国王は選挙によって選ぶ。大金持ちとか高貴な身分のものなどからは選ばないで、りっぱな生活を営み、最も清廉潔白な正義の人を選んで国王とする。・・・驚くほど公平な裁判がおこなわれる。地位や肩書によらず、その罪状によって処罰する。国王であろうと死刑もまぬがれないが、生命の抹殺ではなく、住民誰もが相手をしないことによって死に追いやるのである・・・(大場正史訳『東方旅行記』参照)。この島とはどこかわからないが、プリニウスの話を借用したことは間違いない。

さて、セレス人の国のことに移る。この国は、今でいう中国だとも言われるが異説もある。タプロバネ人の島はインドの東南に位置し、ヘモドスを越えてセレスの国にも相対しているとされる。セレス人は交易によっても知られている。セレス人らは荒々しい口調でものを言い、旅行者と取り引きする際は言語を用いない。商品はある川の向い側の岸に、土着人によって売りに出された商品の傍におかれる。そしてもし彼らがその交換に満足するならばその商品を持ち去ると。

 この物々交換の仕方は、経済学か社会学の入門書などに書いてある。タプロバネというのは大きな山脈のことを指すらしい。いろんな説がある。ヒマラヤ山脈だという説もある。要するにローマ人はセレス(中国)の位置を正確には把握できていなかったのである。だからタプロバネ人とセレス人が直接交流をしているなどと考える。もちろんローマ人は絹がセレスから齎されることは知っていたが、その知識はいたって曖昧である。プリニウスはこんなふうに書いている。

 セレス人は彼らの森から得られる毛織物で有名だ。彼らは葉を水につけた後、その白い綿毛を梳きとる。そしてわが国の女性たちに、その繊維をほぐし、さらに織り合わせるという二重の仕事を与える(注:コス島で織り直したという説がある)。ローマの貴婦人が、人中ですき透った衣服をひけらかすためには、そのようなさまざまな労力が必要である。セレス人はその性格は温和だが、彼らもまた他の人類と交わることを避け、商人が彼らのところへ来るのを待っているというような点では野獣と似かよっている。

 要するにプリニウスは、セレス人は交易の折は言葉を交わさず、沈黙のまま交換をすると考えていたのである。もちろん貨幣などを媒介とはしないのだ。

                                                                              

    (五)インド航路

 

 プリニウスは奢侈を徹底的に嫌った。のみならず金、つまり黄金自 体を嫌っていた。「人生から金が完全に放逐できたらよいのだが、実際それは世界のもっとも賢明な人々に毒づかれ罵られながらも、ただ人生を破壊するためにのみ発見されたのだ。品物が品物と直接に交換されていた時代は、現代に比べてどんなに幸福な時代であったことか」。そして奢侈を憎悪することは正当なことだと理解するために、頭のなかで極東への旅行を描いてみたらどうかと説くのである。彼の頭のなかには、セレス(中国)人の物々交換があったのだろう。だがそれは彼の幻想だったろうし、よくは知らない世界のことを理想化しすぎたようにも思えるのだが。だから実態を知るためには、単に極東への旅行を頭の中で描くだけでなく、実際に行ってみることだった。ローマ人が最初に中国を訪れた記録はようやく二世紀中ごろ(後漢)であり、それまでは誰も行っていないのである。絹がセレスの国から渡ってきたと言っても、それは幾度もの中継貿易によるものであった。

ローマから極東への旅のルートは知られているように大きく分けて二つあった。一つは凍てつく氷の岩山を踏破し熱砂と渇きに耐えて砂漠を越える命がけの大陸横断のコース。もう一つが地中海―ナイル川―エリュトラ海(紅海~ベンガル湾)と繋ぐ海のルート。これも決して安楽なものではなかった。運が悪ければ嵐に見舞われ海の藻くずと化した。どちらも命がけの冒険だった。いずれも莫大な人命をその途路で失っている。セレス人の国に到達するのはほとんど不可能だったのだ。プリニウスは、アレクサンドロス大王の艦隊が辿った航路を詳しく説明している。それはそれで興味ある話だがそれは省略する。ここでは、プリニウスの頃の一般的な航路についてのみ紹介する。それは次のとおりである。

 ローマの外港オスティアから出発するとして、まずナイル河口のアレクサンドリアに停泊する。この都市はローマ世界最大の貿易港で各地の産物の集積地であった。それだけでなく各種の手工業が盛んにおこなわれる工業都市でもあった。世界から多様な人々が集い、多様な言語が飛び交った。アレキサンドリア図書館で象徴されるように高度な文明の都市であると同時に享楽の都市でもあった。そのアレクサンドリアから二マイルのところにユリオポリスの町があり、そこからエジプトの古都テーベの近くのコプトスまでナイルを船で遡航する。貿易風が吹いている夏至の候でも一二日かかる。 

コプトスで上陸、そこから真東へ紅海西岸の港町ベレニケまではラクダによる砂漠の横断、これまた一二日間の旅程である。いくつもの宿駅に泊まるが、なかでもトロゴデュティクムという隊商宿は二千人もが宿泊できる大きな宿駅である。暑いので昼は宿で過し夜歩くから時間がかかる。夜の行程は星が道しるべとなる。このルートはアレクサンドロス大王死後エジプトを支配下に置いたラゴスが作らせたものであるという。 港町ベレニケから紅海を南下する海路は、夏至、シリウス星が現れる前か、現れた直後に始める。すると、当時「幸福のアラビア」と呼ばれたアラビア半島の南西部、現在のイエメンのオケリスあるいはカネ(乳香を産する)までが海路三〇日。そのオケリスからインドへ向かうのが最も都合がいい。季節風が吹いていればインドの最初の交易港ムジリス(現在のケララ州コーチン付近)まで四〇日である。つまり順調にいっても片道九四日かかることになる。インドからの復路は冬、インドから北東の風に乗って出港し、紅海に入った後は西南風あるいは南風に乗って航海してその後も同じ道を帰る。 上記はアレクサンドリアからインドに至る最も一般的な通商路をおおざっぱに示したにすぎない。『博物誌』にはインド、パキスタン、イラン、サウジアラビア、エチオピアなど、ローマ帝国圏外の事情について詳しく興味ある報告が盛り沢山にあるが、ここでのテーマではない。

 インドに単純に往復するだけで二〇〇日近くかかる大旅行である。インドの海岸近くやアラビア近辺には海賊が出没していたらしい。「アラビアン・ナイト」を思い出すがそれはもう少し後の話である。そのような航海に成功すれば一挙に巨万の富を得るが、それは死と背中合わせ、隣り合わせの冒険だった。先のはっきり見えない航海である。無事帰ってくるにしても、何年もかかる大冒険を覚悟しなければならなかった。航海術の発明者は呪っても呪いきれないとプリニウスがいうことにも一理ある。 

 

(六)奢侈の代価

 

中国から中継ぎ貿易で運ばれてくる絹は別にして、インド・アラビア周辺からローマへ運ばれてくる贅沢品の最たるものは真珠であった。インド洋や紅海に多く産する。沖合い五〇マイルほどのところで採取が行われている。真珠はローマのご婦人たちを喜ばせ見栄と虚栄の虜にさせる。サンダルの紐にさえ真珠をつけたりする。男までが真珠を身につける。「何たることだ!」とプリニウスは慨嘆するが時世には逆らえない。真珠採りの海女たちが命がけで深い海の底に潜ってくるのだ。そんなものにまで手を伸ばす必要があるのか。

 もう一つ海の底に潜って採ってくるものにアクキ貝など紫染料をとる貝類がある。紫染料は元老院議員や高い身分の人間の着るトーガを染めたりするのに使った。クレオパトラは自分の戦艦の帆を紫色に染めた。プリニウスはそんな危険な海の底からとった品物を、はるばるローマに運び込まなくても、紫色の染料がとれる植物がちゃんとあるのにと、その無駄な消費を批判する。

 陸上の産品でローマにもたらされた高価な商品はまず胡椒、それから香料の原料となる各種の植物、シナモン、カシア、乳香、没薬、バルサム、スト・・・ラックス、ガルバヌム・・・。乳香についてだけ少し述べる。プリニウスによれば、乳香のとれる乳香樹の外観はギリシア人もローマ人も誰もはっきりとはわからないのだ。生産地の人が秘密にしている。秘密といえば、セレスの絹も、蚕や繭、桑の木、その他製法はおろか、産地でさえも当時のローマ人にとって摩訶不思議で、何がなんだかわからない状態で、ただ絹への欲求だけが肥大化していた。しかし乳香については、プリニウスはその採取方法について具体的に述べている。乳香は乳香樹からとれる樹脂である。それが先に書いた通商路を辿ってアレクサンドリアに運ばれてくる。アレクサンドリアはいうまでもなく、すでにローマ帝国の領域になっている。

 「乳香が商品に仕上げられるアレクサンドリアでは、まあ、何たることぞ。どんな不寝番をおいても十分に工場を守ることができない。工員のエプロンには封印がおされ、彼らはマスクをかけ、あるいは頭から目のつんだ網をかぶらなければならない。構内を離れる

ことが許されたときには全裸にならなければならない・・・」。

 香料は、右の各材料を混ぜ合わせて一つの匂いを作ることだという。アレクサンドロス大王がペルシアのダリウス王を破ったとき、ダリウス王の所持品のなかに香料箱が発見された。その後、ローマ社会でも、香料の楽しみは最も優雅で立派な人生の享楽の一つとして取り入れられたのだという。だがプリニウスは皮肉屋である。「香料はあらゆる奢侈のうち、もっとも無駄な目的に奉仕するものだ。なぜなら、真珠や宝石は髪の毛につけることができるし、衣裳はしばらくの間もつ。しかし香料にいたってはたちまちに香気を失い、使用するとその途端にもう死んでしまうのだから」。さらに、香料に用いられる香木などが、死者に相応しい捧げ物になりはじめたという。死者への捧げ物というのは、棺を香木で焼くことをいう。こんな贅沢は高度成長期の日本でも聞いたことがない。プリニウスは「アラビアは一年間で、ネロ帝がその妃ポッパエアの葬儀にあたって一日のうちに焚いただけの香料も生産していない」と伝えている。本当なら呆れ果てたことである。

 プリニウスは、インドがローマ帝国から富を吸い取ること五千万セステルティウスを下らない年はないと断言する。ローマではインドでの仕入価格の一〇〇倍で売られていることを考えると重大問題だという。また別の箇所では「最小限に見積もっても、インド、せレス、アラビア半島はわが国から毎年一億セステルティウスを得ている。それがわれわれが贅沢と婦人のために費やす金額である」と。

 セステルティウスというのはローマの貨幣の基本的計算単位であり、それが具体的に金貨なのか銀貨なのか、あるいは青銅貨かはわからない。それに当時インドその他で貨幣経済がどれくらい浸透していたのか、それもはっきりしない。実際にインドではどのローマ

貨幣も発見されている。貨幣に用いられた金・銀・青銅もそれぞれが金属としての一種の商品であり、現地人にとっては物々交換に過ぎなかったのかもしれない。セレスで見た、相互が顔を合わさず言葉も交わさない物々交換とは違うが、貨幣を交換手段として用いる商品交換ではない商取引である。事実インドあたりでは、金貨に穴を開けて飾りにしたり、鋳つぶしたりする例も多かったらしい。金属としての使用価値を使用しているのである。つまり鉄の交易と同じである。プリニウスはローマが輸入する鉄のうちでセレス(中国)のものが最高で、ペルシアのものがその次だといっている。あんなに重いものをどういう経路で運んだのか、プリニウスは書いていない。セレスとあるのは中国ではなくインドだという説もあるが不明である。 プリニウスは、東方からの輸入品がローマでは一〇〇倍の値段で売られていると嘆くが、反対にインド人はローマから流入する商品、それは金を含めて、の価格が一〇〇倍の値段をしていると嘆いているかもしれないのだ。

 ローマには戦勝の賠償として莫大な金が流入したし、領土内、たとえばスペインでは豊富な金鉱山もあった。それにイタリア周辺のぶどう酒生産などは相当の利益を生み出していた。従って、ローマ帝国の経済力からいえば一億セステルティウスといっても国を傾けるほどの負担ではなかった筈である。ただプリニウスにとってはそれほどの金額がローマ人、ローマのご婦人たちによって浪費されていること、そしてその奢侈がローマ人に与える影響を危惧しているのだ。だが彼がそう嘆いている古代ローマの時代では、それらの商品を運搬する船は彼のいうように風と波と人力だけを頼りにしたのである。石炭も石油も電力も、原子力も一切使っていない。陸に上がってからも人力と家畜の力に頼るだけだった。地中深く潜って石炭や石油、ウランなどを採掘するようなこともなかった。それであの古代文明を築きあげた。その古代文明の発達も、その結果の浪費や奢侈も、当時の南極やアマゾン川、シベリアのツンドラなどの世界にとっては何の関係も持たなかった。地球自体が「シミ」にしかすぎなかったし、ローマ帝国の繁栄といえど、それは「シミ」(地球)のまた「シミ」にも当たらなかったのだ。だがプリニウスは、奢侈がローマの不幸の始まりだと強く主張していた。ローマ帝国の高官であった彼にとってそれは見逃すことのできない汚い、そして危険な「シミ」だったのだろう。