一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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薩摩藩への軍楽伝来

2007-08-11 07:48:59 | History
▲サツマ・バンド
"The Far East" 1870年7月16日号より

薩摩藩の軍楽隊について、次のような史料が目についたので、ここに書き付けておきましょう。

土佐藩出身の軍人で、後に西南戦争時に熊本鎮台司令官となった谷干城の回想です。
「(慶応3年12月)27日にいたり日御門(建春門)前において薩長土芸四藩の観兵式の天覧あり。さすがに薩は服装帽も皆一様にて、英式により大太鼓、小太鼓、笛等の楽隊を先頭に立て、正々堂々御前を運動せる様、実に勇壮活発、佐幕者をして胆を寒からしむ。」(『谷干城遺稿』)
これは後になっての回想という点が弱いのですが、他の史料によって、まず確実であろうと思われます。

というのは、薩摩藩へは早くも、文久3(1863)年の時点で、横浜外国人居留地に駐屯したイギリス軍から、大太鼓、小太鼓、ラッパ(または代替品として日本の篠笛)という編成の軍楽が伝わっていたからです(建春門前観兵式の4年前)。
また、それ以前の弘化3(1846)年に、薩摩で行なわれた高島流の演習で、島津斉彬から蘭式のドラムに関して質問が出ている、ということも背景にあったでしょう。

従来の「サツマ・バンド」についての通説では、明治3年に横浜に「薩摩藩洋楽伝習生」が派遣されたことを契機としていますが(横浜の本牧山妙香寺に「日本吹奏楽発祥の地」の碑あり)、それ以前から薩摩には、軍楽に対する興味関心とともに、英式軍楽が伝わっていたことを、谷干城の回想は示しています。

したがって、幕末から第一次の薩摩軍楽隊があり(この軍楽隊が、天覧観兵式に参加)、第二次の薩摩軍楽隊が「サツマ・バンド」と称せられるものとなるわけです。

「サツマ・バンド」が、フェントンの指導を受けて、海軍軍楽隊に発展するのに対して、第一次の薩摩軍楽隊は戊辰戦争の混乱の中で、その後どうなったかもはっきりしていないために、あまり重視されていないようです。
しかし、「日本吹奏楽発祥の地」の碑は、横浜ではなく、鹿児島ないしは京都に立てられるべきかもしれません。

この第一次の薩摩軍楽隊については、次のように書かれた文章があります。
「1867年(慶応3年)1月に全面的にイギリス式兵制へ改編した薩摩藩では、40歳以下の能役者に『陸軍楽隊』(鼓笛隊)を命じ、また、同年7月に京都にのぼった島津久光の随行部隊は喇叭と大太鼓・小太鼓・笛からなる楽隊を有していた。このイギリス式楽隊は、同年12月9日の王政復古クーデターのさいも建春門外で部隊の先頭にたって行進している。」(『グラスバンドの社会史―軍楽隊から歌伴へ』所収、塚原康子「第3章 軍楽隊と戦前の大衆音楽」)

*なお、先日書いた高島秋帆の蘭式軍楽については、次のような記述があったことをご紹介しておきます。
「天保年間長崎の高島秋帆は蘭式兵学を学び、大砲隊と歩兵の訓練を行ひ、これが附属として鼓笛隊の必要を認めた。洋楽の知識のあつた長崎のことなのでオランダ式軍楽はかくしてでき、各藩も新しい兵学と軍楽に留意するやうになった。かくして開港当時フーチャーチン(原文ママ。プチャーチン)やペルリの軍楽隊を見学した結果、軍楽隊の必要を大いに感じてゐたのである。」(遠藤宏『明治音楽史考』、昭和23年初版発行)


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