一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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江戸のタワー・ジャンパーたち その4

2007-09-01 08:13:00 | History
以上のほかにも、寛政年間(1789 - 1801) の記録に、
「鳥の飛ぶ事を学びし者、さいつ頃城南二井田村にあり。一農民工夫して一羽の乾鵲(からす)を得て首尾両翼より其胴体を分量におのれ骸(からだ)へ較べ配当し、双翅を作り両の肩に結び腕にそへて飛ぶことを習ひしに、はじめは難かりしが、漸々調練して、のちには下より上へ飛んは難れども、上より下へ下らんには、伏翼して飛べば小山の上高き勾欄屋梁などよりは四、五丈乃至は六、七丈も安す安すと怪我なくなせしとなん。」(人見蕉雨『黒甜瑣語』)
というものがありますし、また、茨城県やたべ市の飯塚伊賀七(「からくり伊賀」)が、
「筑波山から谷田部までを滑走する計画をたて、藩に許可を求めたが、認められず禁止させられた。」(茨城県立つくば工科高等学校HPより)
との史料もあるそうです(小生未見)。

まだ、このほかにも調べれば日本各地に同様の記録がありそうです。

以上、ご紹介したのは「タワー・ジャンパー」だったわけですが、特殊な例として、熱気球あるいは水素気球を造り、空を飛ぼうとした人物もいます。

文政年間(1818 - 30)に、「空翔ける風船」の考案に関して幕府に上申したのが、近江国国友村(現・滋賀県長浜市)の鉄砲鍛冶職人の親方(「年寄脇」)国友一貫斎(1778 - 1840)です。

一貫斎は、鉄砲の面では空気銃、天体観測の面では反射望遠鏡を製造したりと、当時の西欧科学の成果を実際に試作した人として、その分野では有名です。
その一貫斎が、『環海異聞』『紅毛雑話』などの書物の挿絵で、ジャック・シャルルの水素気球や、モンゴルフィエの熱気球を見て、日本でも試作しようと思い立った(モンゴルフィエの人類初の浮揚飛行が1783年)。
上述のように幕府に上申したものの、その結果は思わしいものではなく、結局実験は行なわれませんでした。

それにしても、挿絵を見て(もちろん、蘭学者などよりの説明はあっただろうが)、実際に作ってみようとした実験精神には驚かされるものがあります。

上述したように、民間での「空への憧れ」「飛行への意欲」が、その後も続き、明治時代以降の民間での「空飛ぶ機械」制作への動きへと続いていくわけです(二宮忠八、奈良原三次、伊藤音次郎など)。

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