一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

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「覇道の帝」と「王道の帝」

2007-09-24 05:01:36 | History
kuroneko さんのブログ「みんななかよく」(9月20日付)に、「両陛下訪問の案内状で入力ミス=悪天候を『悪天皇』、職員処分-秋田県」という記事が紹介されていました。

そこで、ブログの内容とは係わりなく、頭に浮かんだのが、後醍醐帝のこと。
戦前の皇国史観では、「建武の中興」を行なった偉大な天皇となっていますが、「覇道の帝」であったことは間違いない。

それでは「覇道の帝」とは、どのような存在か。

その前に、後醍醐帝については、ご存知ですよね?
人によっては網野善彦『異形の王権』を通じて、「異類異形」の徒を動員して王権の確立を図ろうとした「異形の王」としてご承知かもしれません。
また、ごく一般的には(教科書的には)、「正中の変」「元弘の変」を通じて鎌倉幕府(武士政権)の打倒を図り、隠岐配流はあったものの、ついにはそれを成功させた天皇として知っているでしょう。

この時代、幕府政権の打倒を狙う以上、何らかの形で「武力」を使わざるをえない。
その意図を典型的に示したのが、帝の皇子大塔宮護良親王です。
天台座主の地位にありながら武芸に励んだ、というのも父帝後醍醐の意図によるものでしょう。
『太平記』には、
「義真和尚より以来(このかた)一百余代、未(いまだ)斯(かか)る不思議の門主は御坐(おはしま)さず。後に思合はするにこそ、東夷征罰の為に御身を習はされける武芸の道とは知られたれ」
とあります。

また、権謀述数を討幕過程のみならず、成立しつつあった足利政権を崩すために駆使したことは、言うまでもありません。
代表的な事例を1例だけ挙げておけば、幕府打倒の功労者である護良親王ですら、帝によって捨て去られた形跡が大きい。
『梅松論』によれば、
「宮(=護良親王)の御謀叛、真実は叡慮(=後醍醐帝の意図)にてありしかども、御科(おんとが)を宮に譲り給ひしかば、鎌倉へ御下向とぞきこえし。宮は二階堂の薬師堂の谷に御座ありけるが、武家(=足利尊氏)よりも君(=後醍醐帝)のうらめしくわたらせ給ふと御独言(ひとりごと)ありけるとぞ承(うけたまわ)る」
ということです。

このように、武力および政治上の権謀述数を駆使して政治を行なうことを、「王道」に対して、古来「覇道」と言います。

したがって、「王道」を理想とする新井白石など、江戸時代の学者の評価では、後醍醐帝は「不徳の君」だった。

それでは、明治維新後の天皇は、どのような存在であるべきとされたのか、あるいは、存在であったのか。
これに関しては、また別の機会に。

森茂暁(もり・しげあき)
『後醍醐天皇―南北朝動乱を彩った覇王』
中公新書
定価 714 円 (税込)
ISBN978-4121015211

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
すみません、うっかりで。 (kuroneko)
2007-09-27 10:20:46
一風斎さま

 TB承認が遅れてすみません。
 「悪大臣」で頼長のことを思い出したとき、大塔宮護良が践祚したら「悪天皇」かなあと思いました。
 ちょっと、中世風でかっこいいですよね。「悪天皇」。危ういけれど。
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これはまたご丁寧なご挨拶 (一風斎)
2007-09-27 17:30:22
いたみいります。

さて、大塔宮は、
ちょっと政治性に欠けているんじゃないでしょうか。
直情径行というか、一本調子というか……。
そういう意味で、
お父っつぁんの後醍醐に
貫禄負けしてしまいそうです。

小生は、やはり「悪天皇」には、
後醍醐帝を推奨します。

後白河帝なんていうのも、
その次の候補にしておきましょうか。

危ない、危ない。

では、また。
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