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 神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

バブル期の北陸温泉郷事情

2024年09月26日 08時18分04秒 | 歴史・雑学・ニュース
 先日、温泉旅行の備忘録をアップしたけれど、あれは記憶を呼び戻しながら書いたものだった、まあボケ防止の対策の一つだと思っていただければありがたい
それと同時に、当時のことが次々と思い出されてきた。
令和になって、私も同級生旅行、友達小グループとの旅行以外ではこうした大規模な温泉旅館へは行かなくなった。
同級生旅行も去年から中止になった、70歳を過ぎて自分がガンなどの病気になって、あるいは配偶者が病気になったり、亡くなったりして不参加になる者が増えて来たからだ
また事務局長兼会計長を毎年やってくれたY子の突然の死、あれでみんな意気消沈したことも原因だ。

以下、軽薄な文になりますので、呆れたらスルーしていただいて結構です

バブルの時代、昭和50年代はたしかに華やかで、よく働き、よく稼ぎ、よく遊んだ、我々より5年、10年早い人たちは、まさにバブルのど真ん中で恩恵を受けたようだ
土地ころがし、株価の史上最高値などで俄か成金が日本中に溢れて、会社員や個人経営者も収入が一気に何倍にもなって、その水準たるや今の時代の収入とさほど変わっていないのだから、その後の失われた30年は実感できる
「世界のNOKYO」が流行語になり、眼鏡に出っ歯、首からカメラをぶら下げた日本人団体のアジア観光旅行の風刺画が目立つようになった。

昭和20年の敗戦から、日本国の再建に、自分の生活の再建に汗水たらして遊びなど思いもせず、休みなしで必死で働いてきた日本人
その甲斐あって、昭和30年を過ぎると国内経済は良い回転を初めて、倍倍ゲームで所得が増えていった
少し前の中国経済と同じだ、それを日本は40年以上前に成し遂げたのだった

生活費に加えて、余剰資金(こづかい)も増える、働きづくめから余裕が出来て、たまにはパッと遊ぼうじゃないかと団体旅行ブームが起きた
先輩たちからは韓国旅行で妓生パーティをしたとかの軽薄で世界から軽蔑される武勇伝をよく聞かされたが、我々世代が海外デビューしたころには韓国の経済状況が良くなって、我々はそんな遊びの経験はない
その代り、国内の温泉には観光旅行でよく行ったものだ
われら北陸地方の住人は何といっても加賀温泉郷(片山津、山代、山中、粟津&和倉、芦原)へ行くことが多かった。

特に大きな温泉街は片山津と山代で、この二つだけで年間300万人以上が入れ込んだ、もちろん能登の和倉温泉も「プロが選ぶ宿」で加賀屋が10年くらい1位を続けて、加賀屋ブームを起こしていて山代、片山津と競い合っていた。
また加賀温泉郷に近い福井県の芦原温泉も東尋坊、越前海岸、芝政や三国競艇をバックに集客力があった、この時はまだ恐竜博物館はなかったが
加賀温泉郷の中では山中温泉は観光客数が75万人ほどで山代、片山津の半分、粟津は5万人程度だったが、粟津の宿、「法師」は北陸でもトップクラスの老舗で人気が高かった、和風の宿で廊下のあちこちに九谷焼が展示されていた
そして宴会のあとの二次会には館内に大きなクラブ風の一画があり、そこは和風の宿から一転して洋風の華やかなホールになっていてギャップに驚いたものだった。

和倉温泉であれ、山代、片山津であれ、仲居さんが名物でお客さんを楽しませてくれる腕は日本一と言っても良いだろう(熱海など伊豆の観光温泉もそうかもしれなかったが、当時は行ったことがない)
宴会後には二次会をしてその間中、仲居さんが一緒に無料で付き合ってくれる
その後も、宿の外に案内してくれるのだが、これも無料、いったい無料奉仕して得があるかと思うが、結局は宿内であれば二次会に客を連れて行けば、それなりの歩合、外へ行けば紹介料、客からのチップなどの副収入になったのかと思われる・・・知らんけど。

団体だと、お風呂に入ってから夕食宴会となるが、そろそろコンパニオンというものが流行り出したころであった
大人数には主催者幹事が杓してまわるなどできないから、、コンパニオンを頼んで盛り上げたが、10人、15人くらいでの宴会の時には、宿の仲居さんがだいたい2人ついて料理運びの合間には話し相手になってくれたりして、それが海千山千の40代、50代だと「高いお金を出してコンパニオンなんか呼ぶより、私たちの方がよほど楽しいよ」と自信ありげに言う、闘争心むき出しなのも、コンパニオン以前から客を楽しませてきたと言うプライドだろう
確かに、話し上手で温泉の裏表、男女の問題などさらりと話してくれて、なんでも打てば響く、われわれも血気盛んな30代、40代だったから大いに盛り上がった
確かに若くてぴちぴちのコンパニオンだが、いかにも営業スマイルで、話も騒がしいだけで面白くない
せいぜいカラオケでジュエットしたり、酔いに任せてチークを躍るくらいで、会話の面白さは仲居さんには遠く及ばなかった
バブル崩壊で、あのようなベテランの仲居さんが居なくなり、若い二十代の仲居さんになり時代も変わってお行儀のよいマニュアル的な人ばかりで、仲居さんと言うより社員と言う感じになった
あのベテラン仲居さんのような味のある、とぼけた面白さは期待できなくなった、艶話などしたら「セクハラ、パワハラ」と言われそうで、結局コンパニオンに逃げるしかないが、それさえ必要ない年齢になった。

同級会旅行が主になって、これまたコンパニオンなど足元にも及ばない同級生女子の面白さ、他の部屋の団体さんがカメラを取りに戻て、我々の宴会を撮るほどのエンターティナー女史揃いだった
それも今は夢物語となってしまった。

加賀屋に最上級の雪月花が出来、百万石は梅鉢亭と同じ旅館でもハイクラスのの客向けの別館特待サービスでプライドを持ち上げた、仲居さんや従業員には浴衣で特別な客であることをわかるようにしていた。

大きな温泉宿は館内にクラブ、居酒屋、スナック、カラオケボックス、ラーメン店などを作って、客を外に出さないようになった
コンパニオンも予定時間が終わってもしぶとく幹事や客に宴会中から、「席がお開きになったら館内の二次会に連れて行って」とねだる
酔っぱらって太っ腹の「なんちゃって社長さん」になった客は「はいはい」とお大尽様になって了承するが、コンパニオンはちゃんと30分刻みで花代を加算している
それも一人ならいいが、二人三人と居るから、翌日帰る時になって、フロントで支払いが終わった幹事から、コンパニオンを引き連れて遊んだ連中は「夕べのコンパニオン代一人2万円徴収します」などと言われて、素面の顔が真っ青になることもしばしば
遊びに行かなかった仲間から借金する羽目の者が時々いたものだ
利口な奴は宴会中に仲居さんと約束して二次会は少しのチップで仲居さんとカラオケなどに行って一緒に楽しく遊んで、1時間ほどで切り上げて部屋で飲みなおして寝る、仲居さんも手すきの仲間を呼んでくるが、飲み代を持ってやるだけでコンパニオンみたいに花代はいらないから安いものだ
バカな奴はべろべろになって、部屋までコンパニオンを連れてきて飲みなおすから、タクシーのメーターの如く花代は跳ね上がっていき、翌日の悲劇を迎える。

芦原温泉でのこと、私と先輩のKさん二人で、宴会のあと外に出てラーメンを食って一杯飲んで部屋に帰ってきたら、若い芸者が一人、部屋の襖の前で正座している
「なんだ?どうした?」と聞いたらば、「この襖の向こうにいるHさんと言う人に宴会の時『部屋で飲みなおすから来い』と言われて来たのですが、もう一時間待ったけど寝ていて起きないんです、帰れば怒られそうですし、姐さんにももう一席と言ってあるので帰るに帰れません」と言う
Kさんと目配せして「わかった、もう彼氏はグッスリで起きないから、あんたも今帰れと言われても困るだろうから、俺たちと外へ飲みに行こう」と言って
連れだした、そして温泉街の店に案内させて彼女と夜中まで3時間ほど飲み明かして戻った。
翌朝、当然ながら請求が来た、もう忘れたが相手はコンパニオンではなく芸者だから花代も高い、5・6万円くらいだったと思う
その請求書をHに見せて、「あんたが呼んで、ずっと待たせた芸者の請求書です、俺たちも後始末のために付き合いしたから、これは三等分と言うことで支払いしましょう」ということで決着した。
本人は芸者を呼んだことすら覚えていなかったらしいが、事実は事実だから仕方ない
記憶が無くなるほど飲むと、こんな風に寝ているだけでも花代がつくことがあるから気をつけないとね。
もっともバブルの頃だから、それほどこたえなかったが、年金生活の今ならとてもじゃないができることではない。




令和の時代に米騒動とは

2024年09月07日 17時34分44秒 | 歴史・雑学・ニュース
 富山県魚津市の海岸道路を走っていると目に付くのは「蜃気楼道路」の看板
5月の連休ごろ、”ぼわ~”とした晴れた日に蜃気楼は発生する
私は蜃気楼は2回しか見たことがないが、高速道路か新幹線の高架橋のようなのが、海上に出てきて、それは少しずつ伸びていった
富山市の工場の景色が水蒸気や大気のスクリーンに写ってできるらしい
これは余談
同じ道路に「魚津米騒動の発生地」みたいな看板が立っている
前に、この件は書いたことがあるから、詳し事は書かないが、大正7年に起こった事件で、米不足で毎日米の値段が上がるのに、米商人の蔵には米があり、それを北海道で売れば魚津で売るよりはるかに大儲けできるため、商人は船で北海道に転売する
それを知った、魚津の漁師のおっかちゃんらを中心に米の積み出しを阻止した事件だ。

私はスーパーに米が無いと聞いて驚いた、まさか令和の時代に米が無いとは何たることか
まあ日本人というのは、騒ぎ立てると、それに乗りやすい国民性なのか?
さらにテレビ、新聞、週刊誌が書き立てると、ますます危機感を募らせて、愚かな奴は買占めを謀る
自分さえ良ければ他人はどうでもよいが見え見え、日本人の質もずいぶんと落ちぶれたと思う、みんなで少しずつわけあうという精神が見えない
それより飽食の時代に、米が少し減ったからと言って買いだめまでするか~?
もう新米の時期がそこまでやってきているのに。

過去にもオイルショック、近いところではコロナ騒動で、それぞれトイレットペーパー(当時はロールではなく、四角い紙束)、洗剤が店から姿を消し
コロナ騒動ではマスクが姿を消したし、大地震が起きるとスーパーの食品売り場が空っぽになった
こんなに物が豊富になったのに突然無くなるとは信じがたい
騒ぎを聞いて、米がないなんて人口が多い都会の話だろう米どころの北陸、越後はまさかそんなことはあるまいと確認にスーパーへ行って見たら
本当に5㎏袋の米は一つもなく、高級米の2㎏、1㎏袋がかろうじて残っていた
それも「お一人様一袋」と書いてあった。

私は米が無ければ、パンでもうどんでもラーメンでも、私の好物ジャガイモやコーンを食べていれば良いと考えるが、世間の多くはそう考えていないのだろうか
米を食べる世代が減って、パン食家族が多いと聞いたが、こんな時だけ米を食べたくなるのだろうか?
ある人に聞いたら、米を買い占めるのは高齢者なのだと言った
なるほど、高齢者は米食する人が多いかもしれない、それにしたって、高齢ともなれば一日にどれだけたべるだろうか、大したことは無いと思うが、マスコミに踊らされるのも高齢者が多いのかもしれない
我が家は米は1日4合炊く、一か月なら1斗2升と云うところだから18㎏あれば間に合う
女房殿の実家は農家なので(農協だか大規模農家だかに委託している)、10か月は融通してもらっている、残りの2か月だけ米店かスーパーで買っている。

買占めなんかしなくても、1か月待てば美味しい新米がどっさり出てくるのに、当座分だけ買えばいいものを、今度は余していつまでも新米を食べられなくなるだろうに・・・
今年は豊作らしいが、米の小売価格は上がるらしい
米農家の収入があがるのは喜ばしいが、年金暮らしの財布は細るばかりだ。

我が家の周辺も、そろそろ刈り入れかな





平和な時代、動乱の時代

2024年08月26日 19時24分32秒 | 歴史・雑学・ニュース
 日本国の凡そ1500年の歴史を見ていくと、海の波の如く動乱と平和が繰り返されているのがわかる
太古の事は古い書物でしかわからないが、実否あれども、それに従うしかないが、大化の改新までは帝の強権の時代で治まっていたかと思われ、大化の改新は最初の動乱だったのだろう。

以後、藤原氏を中心に300年の平安の時代は、為政者の内部抗争があったとしても平和で文化的な時代だったのだ、そして朝廷に馬牛の如く仕えていた武士が天皇家の血筋に混じってくると動乱の時代の幕開け。

我が世の春を謳歌した平氏も、「奢れるものは久しからず」で源氏の仇討ちによって滅び、続いて源氏も三代で滅び、頼朝の女房方の、前北条氏が仲間内の内部抗争という動乱を勝ち抜いて長期政権を作り上げた
そしてまた、しばし100年余の平和の時代が訪れた

北条は天皇をも島流しにする横暴を行い、それはやがて尊王の武士団の目を覚まさせ、三度動乱の時代に突入して、北条氏を滅ぼして朝廷政治に戻した・・かに見えたが、この乱の最大の功労者、足利尊氏のまさかの反乱で新田義貞、楠木正成ら尊王武士団との間での内部抗争が始まり、南北朝の動乱、天皇政治は束の間に終わる、足利家も兄弟の死闘を経て室町幕府が誕生して、また京都を都とした華やかな室町文化が花開き、今に伝わる金閣、銀閣など多くの寺院が興った
大国、明との貿易も盛んになり足利義満は明に従った形式の中に実をとった。

平和な時代がまた70~80年ほど続き、巨大化した足利幕府の執事、守護大名同士の間で応仁の大乱が始まる、それは戦国時代の引き金となって250年にわたる日本史最大の動乱の時代に突入した。

250年かかって、ついに徳川家康によって永久の平和が訪れた、江戸時代は平安時代にも劣らぬ250年近い平和な時代をもたらした
250年の動乱のあとに、250年の平和が続いたのだから、まさに神の悪戯とも思えてしまう
しかし徳川政治は外国の黒船が砲艦外交に訪れて揺らぐ、またしても平和は破られ動乱の時代へと入る
アメリカ、天皇と公家、徳川家、攘夷と平和外交、尊王と佐幕、尊王大名が複雑に絡み合い、京の都は血で染まり、徳川幕府に引導を渡した鳥羽伏見戦、江戸開城、奥羽越列藩同盟を打ち負かし、北の果てで最後の抵抗を鎮めた函館戦争を経て明治維新を完成させた
これは武士による封建時代の終焉でもあった、帝国日本を誕生させた明治新政府は急いで日本を欧米風に改造を始めた
髷を切り、刀を廃し、幕藩体制を中央主権国家に改め、大名政治は中央政府から送られた県知事が取って代わった
しばし西郷らの内乱が勃発したが、それでも欧米風のモダンな新時代、平和な時代に突入した
明治時代は初めて大規模な外国との戦争(日清、日露)もあったが、外国が戦場でしかも内容は別としても勝ち戦だったから、国内平和は続いていた
国内は平和であったが、東アジアは動乱の時代に突入していた
そこに日本の軍隊も加わり、北京の55日、義和団の乱では日本軍が最大の兵を送って鎮圧に貢献した
これは欧米の軍隊に日本帝国も組しての軍事行動であった、これによって中華大陸に270年根を張った満州族国家、清国は滅びて、中国は欧米、日本帝国によって重要な港や都市を奪われてしまう
清国滅亡後、解放された漢人たちもまた各地で軍閥が誕生して群雄割拠の様相になった
日本国内は平和が続き、周辺の朝鮮、中国は動乱となっていた、そこに日本も加わっていたのだ
第一次世界大戦でも日本は国内は平和なままで、勝利した連合軍に加わっていた日本は、棚ぼた式に南洋諸島の管理権を得る、朝鮮国を1910年に併合して朝鮮半島を手に入れ、日露戦争で樺太半分と千島列島を手に入れ、台湾も統治と日本史上最大の国土を得たのである、まさにわが世の春であった
世界の5大大国に列したと言う錯覚、日本軍は最強という錯覚を軍や政治家だけでなく連日の報道に国民も錯覚したであろう。
そして中国北部で関東軍が動き出す、内容は書かないが満州と言う日本本土の何倍も大きな大地を支配した関東軍は自由奔放に活躍する場を得たと思われる
内地の政府や軍をも小さく感じたのではないだろうか、ジンギス汗の気分?
ついには中国全土を手中にしようという野望もうまれたか?
これが自ら引き起こした、動乱の幕開けだった
今までの動乱は日本人同士によるコップの中の波だったが、今は世界列強を敵に回した大海原の大波となった
昭和16年12月8日、日本帝国は悔いても悔いきれぬ大動乱を自ら引き起こした
得意の絶頂にあった明治維新から今日までの70年ほどの平和を経て、またしても動乱の時代に突入した
この動乱は4年足らずで終わったが、日本は主要都市のほとんどを焼かれ、人類史上最悪の非人道兵器を二発も人体実験的に受け、原爆と東京大空襲だけで非戦闘員の民間人30万人以上が一瞬にして殺された
全体では軍人、民間人あわせて350万人が死んだ、日本史上初めての外国との大がかりな戦争と云う大動乱で、日本国、大和民族2000年の誇り高い姿は消え去った。

だが、あれから70年日本は復興して世界でも稀な平和を謳歌している、一度も内外の戦争に参加せず、軍隊も無くなって徴兵もない
占領軍アメリカをバックにして、自衛隊と言う志願兵だけの組織が国土を守る。

動乱の時代には必ず英雄が雨後のタケノコのように現れ出でる
大化では蘇我氏、中臣氏、中大兄皇子などが
そして源平から徳川家康まで英雄は数多誕生した
明治維新には西郷、勝、坂本、新選組などを始めやはり百を遥かに超える英雄が出た
敗戦直後にも吉田茂、白洲次郎など魅力的な人物が登場する
平和な時代には英雄が出現することは稀だ、だから今日の自民党総裁選と候補をみれば未だ日本は平和なことがわかる
ヒットラーやレーニンのような者が出てくる時代は動乱の始まりなのだ
そう思えば大東亜戦争や太平洋戦争は、さしたる英雄も出てこなかった日本に
於いて、どうして誰が戦争を導いたかわからない?
神、天皇陛下を騙り戦争に導いたものは個人でなく政治家でもなかった、軍人さえもこれという人がみあたらない、世論が米英蘭との戦争を始めさせたのだろうか?
まだ生まれていない私にはわからない。

この先、この平和がどれだけ続くのかは知らない
明治維新後の平和は70年で終わった、今の平和は80年だ
平安時代、江戸時代は250年の平和が続いた、だが今はグローバルな世界、鎖国的な平和環境にはしてくれない
常に国際関係の天秤の中で生きている、敵も隣の豪族や大名ではない、国家を上げての戦争になる、負ければ国を失い、屈辱的環境で生きていくしかない。
我が国はたった一度の経験で意気消沈している、異民族の集合体で隣に国境線がある欧州は、2000年の間にどれだけ国境が変わり、滅んだ国や民族の数も半端ない、それが欧州人の日常、一度の敗戦で打ちのめされた日本人に、千数百年も国を失い世界を放浪したユダヤ人、イスラエルの事情は分かるはずがない
イスラエルとパレスチナの問題は長い歴史の中から起こっている、ずっと島国に閉じこもって平和だった日本人には理解できないと思う
日本人ももっと強くなるべきだと思うが、これが日本人の良いところかもしれない、世界の中で日本人は特別な歴史を刻んできたのだから
そして日本よりも何倍もゆったりとした時間を過ごしてきたのは中国人だろう
国家の危機にあっても、国を外国に奪われても動じない大国が中国だと思う
日本人は今日明日を思って騒ぐが、中国人は百年、千年で動いているように思える
中国の習近平とロシアのプーチン、日本の岸田総理を比べてみると国民性が見えて面白い、習近平はおっとりとして動かざる風情、プーチンはいつも苛立っているように見える、岸田総理は落ち着きがない。

例え話を大先輩に聞いたことがある、中国人が毎日海に数個ずつ石を投げこんでいるので聞いてみた、「いったい何をしてるのか」と
中国人曰く、「毎日石を投げこんでいれば、いつかあそこに見える島まで陸続きになるだろう」と
勝海舟の「氷川清話」を読むと、勝海舟が見事に中国人と日本人の違いを見抜いて面白い。
「平和よ永遠なれ」は難しい。








「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた(179) 甲越 川中島血戦 6

2024年08月24日 08時25分30秒 | 歴史・雑学・ニュース
 上田原の戦に敗れて退いた村上義清は、退路を断たれて城に入ることが出来ず
そのまま峠を越えて山中に入り、北を目指して越後に落ち延び越後府内に入り、長尾景虎に対面した
義清は「某は十年にわたり武田家と戦いを重ねてきたが、去る二十四日上田原の一戦で、敵大将武田晴信と一騎打ちを行った、晴信の近臣がわが馬腹を突いた為に落馬して鼻を打ち目がくらみて討ち死にとなるところを、わが郎党馳せ参じて助け、換え馬に乗り次いで窮地を出した
されども居城葛尾には入ること能わず、腹を掻き切らんと思えども、死は安し生きるは難じと思い、ここまで来りて候なり
公の父祖とわが先祖は代々武威を争ってきたが、義清、今日は恥辱を忘れて降を請う、公の英雄の名声は天下にとどろき、某の心中を察して今一度、葛尾に帰住するを叶え給われば大いなる幸、莫大な厚恩を賜ることになります
越後にある某の領地も返し奉らん」と頭を下げて頼むを見て、景虎は村上を哀れと思い、上田原の合戦模様をしばし尋ねてから
「御言葉、まことに痛ましきなれ、某の父、信濃守為景は加賀能登越中の間に、数年合戦を挑み、武威を示したけれども越中に於いて不慮の討死を遂げた
父の孝養の為、越中の敵を討ち、加賀能登越前を始め、東国を幕下につけ、帝都に上洛して、将軍義晴公に謁し天下の権を掌に握り、武名を四海に残さんと思う
しかし、某今年十八歳、若年なれど、某を頼み思召すとの一言、黙視できず越中攻めはひとまず差し置き、この上は晴信と一戦交えて公を更科に帰国させ申さん」と熱く語った。
そして、晴信の軍立ては如何なるやと問えば、義清は景虎の信義の熱きことに恩を謝し、「某は数年、晴信の父、信虎と戦ったが、甚だ強き矛先であり天晴なる豪傑の勇将でありました、されども晴信は、その父、信虎にも勝る大将にて、武略に長じて、軍を大事と心得、そこつの働き無く、勝てばいよいよ慎む者にて候」と言う
景虎はしばし話を聞き「さては晴信とは人数の扱いうまく陣法をもって勝つと見えたり、我まずは信州に打ち出て試しの一戦を挑み、敵の奇術を確かめん」
先と申す
先陣は長尾越前守、二陣は直江山城守、古志駿河守、柿崎和泉守、安田上総介、そのほか宇佐美駿河守をはじめ、越後の勇将を引率して其の勢は六千余騎
十月九日、府内を出て信州に押し出し、敵国を放火して勢い大にして民郷を侵し、所々に狼藉をおこない、従う者は恩をもってなづけ、城に籠って出てこぬ者は無視して少しもかまわず、これ味方に降らすための謀りである。









戦争に負けて79年が経った

2024年08月13日 19時24分41秒 | 歴史・雑学・ニュース
 日本が有史以来初めて対外国との戦争に負けたのは昭和20年(1945年)
それも軍、民あわせて300万人以上が戦争で死んだ、そして東京を始め主要都市50以上が爆撃、砲撃で壊滅的被害を受けたという悲惨な戦争
我が家の先祖代々の浜松の寺も艦砲射撃で住職ごと破壊(焼失?)されたという
数分で10数万人を殺した原子爆弾投下が2度、2時間で10万人以上を焼き殺した東京大空襲(祖父母が亀戸で犠牲になった)と世界でも例のない大虐殺を5か月で3度も受けた日本はそれ以上戦争継続をすることはできなかった。

もっとも一部軍の上層部では戦争継続を叫び、アメリカ軍を本土に上陸させて一気に殲滅する、あるいは刺し違えるといった考えもあったようだ。
そのために多くの航空機や燃料、武器弾薬を各地に隠しもっていた、父が入隊していた調布の陸軍飛行場にも掩蔽壕の中に戦闘機を隠して数十機が敵の攻撃を免れてあった
(終戦直後の8月末には武装解除の為、調布飛行場の飛行機が整列した、三式戦、四式戦ほか50機弱が残っていた。)

この場合、日本はいかなる被害を受けても降伏せず、一億総国民(一億はいなかったが)玉砕まで視野に入れていたようだ
皇居が爆撃される恐れもあり、天皇陛下を長野県の松代にお迎えするため地下要塞を作った(作っていた)
もし本土決戦が実行されていれば、ベトナム戦争、日中戦争、ヨーロッパ戦線同様に民間人も巻き込まれて日本人の何割数千万人が死ぬ事態が起こっただろう、アメリカ軍の死傷も100万人などと想定されたが、そうなればアメリカだって、のこのこと上陸しない
原爆を更に数発、制空権を握っているから爆撃も更に中小都市まで爆撃、制海権も握っているから日本沿岸から艦砲射撃と徹底的に無人の荒野としてからの上陸作戦となっただろう、軍隊が隠れていそうな最終決戦地、長野や岐阜、東北の山間部、山林は焼き尽くされたかもしれない、なにしろ国土の90%以上が山地山林の日本だから隠れ場所は多い

北からはソ連軍が北海道、東北に上陸してきたかもしれない
ソ連軍は世界初の社会主義国家であり、独裁国家であるからアメリカとは異なる非情な行動に出る恐れがある
事実、戦後日本軍を武装解除した後、日本に帰さず、労働力として極寒のシベリアに60万人以上を捕虜として連行して、強制労働を数年間させて6万人とも言われる病死、過労死、脱走死があった。

勝利国による日本分割案もあったようで、日本をアメリカ、イギリス、中国、ソ連の4か国で分割統治するという案だ。
北海道、東北はソ連が、中国は四国を、アメリカが関東、中部、沖縄など、イギリスは中国地方、九州を統治、北陸、関西は米中が共同統治
東京市は悲惨で4か国が共同統治となる、ベルリンを見ればわかるがソ連、中国が居留する区は社会主義、その他は自由主義区域となる
恐らくベルリン同様、「東京の壁」が作られただろう。

しかしアメリカは政治体制が異なるソ連の日本統治を恐れ、徹底的にこれを排除する様々な努力をした
日本に原爆投下したのも、ソ連を脅して発言力をけん制するためだったという話もある
あるいは現在の北方領土を含む千島列島、樺太の領有を無条件で黙視したのも懐柔策の一つだったかもしれない。
そもそも終戦まじかなタイミングで満州に突然攻め込んだのも、アメリカとの密約だったという話もある
国土が荒れ果て疲弊し1500万人近い死者が出た中国が日本統治に参加するのは現実的でなかった、しかも共産軍と国民党軍がいまだ内戦状態だった。

イギリスもアメリカに委任した形で、結局ソ連を黙らせたアメリカ一国の占領になったのは日本にとって不幸中の幸いだったかもしれない。
だが日本の軍備は解体されて日本は素っ裸にされた、明治憲法も焼却されてアメリカ指導の新憲法が作られて天皇の神格化は否定されて人間天皇となり、政治関与も禁じられて「国民の象徴」という?の表現に定められた
この憲法で軍備を持たない、戦争しない平和国家日本となった。
それに日米地位協定というのも作られ、日本はアメリカの言うがままに操られる立場となった、今も新憲法と同じく、その効力は続いている
占領されて支配され国内経済のみの日本国の主権は昭和27年まで消えたのだから、それも仕方ない。

一方でわれわれ戦後生まれは今日まで戦争の体験、あるいは軍隊生活を味わうことなく生きてこられた
これは新憲法によるものだ、アメリカは早くも昭和25年には、アメリカの支配下として利用できる日本軍を失くした失敗を感じただろう、それは日本の隣に起きた朝鮮戦争の為だ
韓国軍はあっという間に釜山に追い詰められた、敵は北朝鮮軍とそれを支援する中国共産党軍だった
歴史上初の自由主義陣営と社会主義陣営の戦争が始まった、アメリカは何が何でも朝鮮半島が共産化するのを阻止する必要があり、軍を仁川に上陸させて逆転に成功した。
日本占領軍からも朝鮮に派遣された部隊は多かっただろう、そのため日本の進駐軍が減った、それを補うため苦肉の策で日本人による予備軍を創設させて「警察予備隊」という名を冠した。
航空機や戦車は持たないが軍備は軍隊そのもので警察などと言うレベルではない、しかも5年前までアメリカ相、中国相手に戦争していた現役兵だから戦争の仕方を知っている。  今の自衛隊の前身である、こうして海外派兵しない、戦争に参加しない軍隊が日本に誕生した
ほどなく戦車や航空機、海上艦船も導入される

今や世界でも10本の指に入る軍隊となっているが憲法上、軍隊とはならず敵からの攻撃に対しての反撃にも国会の承認が必要な組織となっているから、現場からも自民党からも憲法を改正して世界各国と同様な軍隊として認め、明記しようという気運がはっきりとでてくるようになった。
一方では日本の再軍国化を懸念する勢力もあり、なかなか難しい問題となっている、平和に慣れた国民に軍隊はピンとこない、だから三島由紀夫が決起した衝撃的な行動にも同調者は少なく、関心を持つた人は僅かであった
国民の間では憲法改正、軍隊の承認などの話はほとんど出てこない
敵国家が攻めてきたらアメリカ軍と自衛隊が何とかしてくれるだろうくらいに思っている
核攻撃をちらつかせる敵国家があっても、アメリカの核の傘に入っていれば攻撃はないだろうと思う人が多い
それに核攻撃があれば「おしまい」と割り切る人も多い、そもそも核シェルターがどこにあるかも知らないし、地方には地下の横断歩道くらいしかないのだから
東京、大阪などには地下街や、地下鉄が発展しているから上野駅の新幹線ホームや大江戸線に逃げ込めば少しは気休めになるかもしれないが、やはり多くの犠牲は出るだろう、だからじたばたしても仕方ないという気分はある。

国民に祖国防衛の思想はまだまだ根付かないようだ、だがオリンピックなどの国家の威信をかけたスポーツには熱くなる人が多い、私もそうだ
日本が勝てば大いに舞い上がり、負けると腹立たしい、どんなに大人しく、穏やかに見えても使命感や恨みが芽生えると人間は一瞬で変わる
日本人が戦争や軍隊を嫌うのは、あの鉄拳制裁と軍体調言葉、粗暴な上官の命令を映画やドラマで見て、あの封建的、前近代的なイメージを持っているからだろう、それと悲惨な戦争フィルムも嫌と言うほど見ている
おそらく世界でもっともそういう映画や写真、本を見ている国民が日本人なのだろう、そのくせウクライナやパレスチナの現実の悲惨な戦争には同情するが、それ以上ではない。

世界から武器が無くなれば戦争も無くなる
戦いたければオリンピックでカタを付ければよいと思うが、そうはいかない
火を噴いて飛び交うミサイル、都市に落下して爆発、吹き上がる炎と煙
あれの代わりに花火を打ちあえば、どれだけみんなが喜ぶだろうかと花火の季節になるといつも思う。










昭和の戦争 たった一度の過ちなのに

2024年08月11日 20時14分46秒 | 歴史・雑学・ニュース
 甲子園球場は大阪府だとずっと思っていたが兵庫県が正解らしい、知らんかった!
さて一昨日は新潟県代表の新潟産業大付属高校が春優勝経験がある埼玉徳栄に2対1の接戦で勝った、新潟代表が初戦突破したのは7年ぶり、
ずっと新潟市、長岡市の高校が代表だった中で、産大付属は中堅都市柏崎市の高校だ、もしかして柏崎市からは初の甲子園代表かもしれない。
石川県代表小松大谷も勝って北信越勢はまず2勝0敗
富山商業は東海大相模との初戦、強豪相手にどんな試合を見せるか。



 局地戦は別として国家間の大戦争はわが大日本帝国は明治以来負け知らず
ついにはアメリカ、中国、イギリス、フランス、オーストラリア、オランダ、ニュージーランドなど世界の強国相手に戦争を始めた。
中国とは一対一の差しの勝負、精密に言えば一対二、と言うのは中国側は日本とと戦争する前には蒋介石の国民党軍と毛沢東、周恩来率いる共産党軍が内戦状態で覇権を争っていた
そこに日本軍が割って入っていったために、まずは中国人同士休戦をして共同で日本軍を追い払い、改めて戦争をやり直そうと手を結んだ(国共合作)
それだから正確には一対二なのだ。

日本は昭和16年には、すでに中国とは4年近くも戦争状態だった、そこに更にアメリカのハワイ真珠湾を奇襲攻撃してアメリカとの太平洋での戦争を始め
さらにさらにマレー半島を占領していたイギリス、オランダをも攻撃して、一気に三方面戦争という離れ業
しかも16年12月の初戦はどちらにも完勝してしまう。
真珠湾のアメリカ太平洋艦隊は、大被害を被って一年や二年は立ち直れまいと
そしてマレー沖では日本の航空隊がイギリスが世界に誇る戦艦プリンスオブウェールズ、および巡洋戦艦レパルスの二隻を沈没させてしまう
マレー半島ではたちまちイギリスを駆逐、オランダ軍は降伏する、フランスは本国がドイツに占領されて亡命政権となったために戦うことなく日本が占領
これでインドシナ半島と現在のインドネシアの一部は日本軍が大部分を掌握した。 イギリス軍はインドに撤退した。

だが日本の誤算は、清国、ロシアという古代からの大国に勝利したので、新興国家のアメリカの力を過小評価してしまったことだ、おまけに中国での戦争も南京陥落だの、上海爆撃だのと勝利勝利の報道が続いていた
山本五十六などアメリカ通ならばアメリカの巨大な生産力と軍事力を知っていただろうが、多くの日本軍参謀や政治家は初戦勝利によってアメリカなど敵ではない」気分に酔いしれただろう、もちろん国民の多くも大勝利のニュースに提灯行列の大盛り上がりだったらしい。
運動会でもそうだが勝っている時は勇ましい気持ちになり、自分が英雄の気分になる、誇らしくなる。

だがアメリカは真珠湾で破壊された戦艦を修理して復帰させるのに、長くはかからなかった、しかも航空母艦は真珠湾には居なくて全艦無事だった。
それに気づいて日本軍は世界に誇る航空母艦艦隊をミッドウェーに送って、アメリカ海軍を絶滅する作戦に出た
戦争が始まってまだ6か月後の事である、ここで日本軍は後手に回りアメリカ空軍の先制攻撃を受けて、主力空母4隻を失い、帰る船が無くなった航空機も300機が搭乗員もろとも海の藻屑と消えてしまった。
アメリカ軍は空母1隻が沈んだだけであり、アメリカの大勝利だった。
以後、日本海軍は一進一退の戦いを続けたが次第に劣勢になり、レイテ湾海戦では世界最大の戦艦武蔵が沈められるなどの大敗北を喫し、以後よいところなく海軍は衰退していく。
これで太平洋の制海権、制空権を失い、あちらこちらの島に駐屯していた日本軍は各個撃破されるか、無視されて飢え死に病死するかのいずれかの運命となった。
あの羽柴秀吉が得意とした飢餓作戦をアメリカも南方戦線の島々で使ったのだ
アメリカの南方作戦は①制海権、制空権を奪った後に艦砲射撃、空爆、戦闘機の機銃掃射、それから大軍での上陸という物量作戦で需要な島を占領する
②利用価値の少ない島は包囲するだけで攻撃せず、島の守備隊を餓死、病死に追い込む、だいたいこの二つだった。
アメリカ軍はニューギニア、インドネシア、そしてフィリピンを取り返し、台湾は素通りして沖縄攻撃に向かう
西太平洋ではサイパン、グアム、テニアンの重要拠点の島が玉砕してアメリカ軍のものとなり、そこからB29が日本国土の空襲を始めた
更に硫黄島を攻撃して守備隊が玉砕、ここもアメリカが占領するとB29に護衛戦闘機がつけるようになって、日本の戦闘機も容易にB29のそばに近づけなくなった、そのため爆撃精度が高まり、日本の基地、軍需工場などが次々と破壊された
日本にはまだ軍艦や航空機が多く残っていたが、肝心の燃料が不足して迎え撃つことができない、備蓄した燃料は特攻作戦に優先され、残りも本土決戦に備えて隠された。
軍艦は港につながれたまま米軍航空機の餌食になり、戦艦大和も片道燃料で沖縄へ特攻作戦に使われたが鹿児島沖で敵に攻撃されて沈没した。

マレー半島の日本軍は勝ちに誇って、インドのイギリス軍を叩くためインパール作戦を敢行、しかし無謀な作戦計画で逆襲を受けて5万人以上が犠牲となる大敗北を喫した。
日本軍で健在なのは対中国戦線の軍だけであった、千島列島の先、アリューシャン列島のアッツ島など守備隊も攻撃を受けて玉砕したが、キスカ島では奇跡の脱出作戦が成功して守備隊は無事に脱出できた。

沖縄も占領され、日本近海にはアメリカの潜水艦がわがもの顔で動き回り、通過する日本の輸送船などを次々と沈没させた。
またB29は日本の主要都市を無差別で爆撃して一般市民の多くを殺傷した
日本の空を飛んでいるのは90%以上がアメリカの戦闘機と爆撃機で日本軍の反撃は皆無に等しく、高射砲だけが戦ったが、長距離砲がある場所は避けて通るようになったので解散する高射砲隊も出て来た。
日本軍の抵抗は神風特攻隊など自爆兵器のみとなり、もはや戦争の体は無くなった、それでも戦争は終わらず、無為に月日が過ぎ、その間にも南の島では生き残った兵隊が伝染病や飢えで次々と死んでいった
アメリカ軍は包囲するだけで積極的に相手にせず、飢え死にするくらいならと玉砕戦法に出て来た日本兵を機関銃で打ち殺す作戦
国内では都市爆撃で一般市民が殺害された、そしてなおも降参しない日本に対して悪魔の爆弾、原子爆弾を世界史上初めて人間の頭上で爆発させた
そして広島、長崎の二大都市を一発で焼き尽くして20万とも30万という市民を殺した。
それから一週間後の8月15日、ついに日本は天皇陛下の玉音放送をもって連合軍に対する降伏となった。
民間人の犠牲者80万人、兵隊の死者数230万人と言う、昭19年以降の戦死者は飢え死に、病死の割合がそうとう多く、敵と戦っての戦死とどちらが多かったのだろうか? やりきれない。
飢え死にだろうが戦死だろうが死んだ兵隊の多くは手柄を立てて軍人として出世しようなどと思ったわけではない、一般市民が突然の招集令状一枚で強制的に戦場に送られて命令系統の最下位に置かれて、生死までも命令されるままにするしかなかった。
これは今生きている戦争を知らない世代の考えでしかない、実際に戦場に立った人たちは、こんなセンチメンタルな気持ちだったのか、お国の為に憎き敵を殺すと勇ましく出征していたのかわからない。
私が高校生の頃、父は私が戦争を批判すると「おれたちのことを、どうこういうのはやめてくれ」とだけ言った
戦闘の場面に毎日いた人でなければ本当の戦争はわからない、非難、批判するのは簡単だが、それは同じ立場にあった人だけに許されることではないだろうか。
戦場に立てば私の心もきっと変わるだろう、変わらなければ耐えられないだろう、もちろん戦争はしないにこしたことはない
だが敵が攻めてきたらどうする、「お互い平和に暮らしましょう」などと日本語で言ったところで敵は帰って行かないだろう。

明治になってちょんまげを切り落とした日本人は百戦百勝で外国との戦争に勝ち続け、ついにアメリカなどの連合軍を相手に戦争をした
その結果、みじめに負けてしまった、初めての負けであった
日本軍の責任者の多くが海外で逮捕され現地で裁判を受けて、多くが秘密裏に処刑された、日本国内でも東条首相兼陸軍大将を始め軍事、政治の責任者が絞首刑を執行された。
総理経験者の近衛氏は逮捕前に自殺した
国家指導者でさえこれであるから、一般国民を守って占領軍に物申す政治家など皆無であった、国家は一時的になくなったのだ。
そして昭和27年4月に日本はアメリカ占領から解放されて国家として再び世界から承認されて独立した
だが再軍備はアメリカが作った新憲法で禁止された、しかし朝鮮戦争で軍人不足を補うために日本に命じて警察予備隊という名の軍隊を作らせた。
それが自衛隊の始まりである、いまや自衛隊の軍事力は世界でも上位であるが、人数も少なく、核を持つことはいまだに戦勝国に禁じられてアメリカの安全保障下で守られている状態である
それもアメリカの奉仕の精神で守られているわけではない、アメリカには莫大な用心棒代を請求され、言われるままに支払うしかない、まま値切り交渉はしているようだが。
         つづく
*記憶違い、勘違いがあるかもしれませんがご容赦願います。








8月は日本の対外戦争を考える

2024年08月10日 17時47分33秒 | 歴史・雑学・ニュース
 わが日本国の歴史は第三十三代推古天皇の御代、西暦で言えば590年頃からある程度信頼に足る資料が現れる、推古天皇の時代の有名人と言えば聖徳太子である。
三十一代用明天皇の二子で、皇太子となり推古天皇の片腕として法隆寺建立に寄与し、冠位十ニ階、十七条の憲法、遣隋使など様々な活躍をした。
ライバルは推古天皇の叔父、蘇我馬子、聖徳太子が亡くなると蘇我氏によって聖徳家は滅ぼされてしまう。
これは内乱であるが、この時代は大陸では隋の二代皇帝煬帝の時代(隋は二代で滅び唐に取って代わられる)、日本とは平和外交であったが、朝鮮半島は三国時代で、日本(倭国)と何らかの関わり深い「任那(みまな)」の地を巡って、任那を奪おうとする南東部の「新羅」相手に半島に出兵して戦った。
それ以前にも、第十四代仲哀天皇の后である神功皇后が男の姿で半島に攻め入った伝説などがあり(四世紀前半の頃らしい)、この神話時代ともいえる頃から、倭国は朝鮮半島に渡って戦をしていたらしい、これが最初の外国との戦争であろう。

鎌倉時代後半には、世界制覇を狙う大陸の大元国(モンゴル)が、占領した宋や半島の高麗の兵を使って日本占領を企てて2度も九州博多あたりに攻め寄せたが失敗して撤退する戦争があった。
逆に16世紀末には豊臣秀吉が明国を従えようとして、大軍で朝鮮に渡り、抵抗する朝鮮軍や明軍と二度にわたり大戦争を行った
一時は朝鮮半島全域を占領したが、朝鮮戦争同様に大陸国家が出てきて押し戻された。 秀吉は戦争中に亡くなり、この侵略戦争は失敗に終わった。

その後、スペインやポルトガルもメキシコや南米、インドやフィリピン、東南アジアを武力で占領して日本も占領しようと企んだが、二百年以上国内戦争を続けて来た日本は、そのとき信長、秀吉、家康と言う戦国最強の覇者が居た時代で、逆に秀吉は朝鮮を蹂躙し、スペインが占領していたフィリピンにも攻め込むほどの勢いだったので、当時最強のスペインも手が出せずに終わった。

江戸時代になると鎖国が二百年以上続いた、そして明治維新で日本は帝国となり富国強兵に励んで、先進国に追いつけと軍備を拡張した。
そして1894年には「眠れる獅子」と言われた東アジア最強の清国と戦争になり、なんと完勝して多額の賠償金を清から獲った、これにより清国は弱体化して漢民族の蜂起により間もなく滅ぶ。
(清国は漢民族の国家ではなく、中華を占領していた満州人国家)

勢いに乗った明治政府は、こともあろうに1904年満州や朝鮮の権益をロシア帝国と争った、今でいえば今のアメリカ相手に戦争するのとあまり変わらない(核抜きで)、当時のロシアは世界でも五本の指に入る強国、生産力、軍事力、国力すべてにおいて明治政府の10倍以上の力があったという。
ご存じの通り、同盟国イギリスの援助もあり、明治政府は海軍が日本海でバルチック艦隊を100:0で破り、東洋艦隊をも全滅させた
陸軍はロシアの5倍以上の戦死者を出してロシアを追い払った。
(ロシアでは革命の兆しがあり、日本との戦争に集中できない事情があったようだ、結局帝政ロシアは赤色革命で世界初の社会主義国家ソビエトになってしまう)
この二大戦争に勝ったことで日本は1910年朝鮮国を日本に併合して中国進軍の足掛かりとした。

アジア最強と言われた清国、世界最強のロシアとの戦争に勝った明治政府の流れは、昭和に入って第二世代が受け継ぐ
軍備も世界の列強に次ぐ規模となり、精神面では最強国家に二度も勝ち、しかも無敗、日本こそ世界最強との意識をもった軍人は多かったのではないだろうか、ましてや国民は大日本帝国万歳である。
「ぐずぐず言う国は叩き潰してしまえ」くらいの意気込みとプライドが芽生えたのではないだろうか・・・知らんけど。
そして満州に大日本帝国の傀儡政権を誕生させて、二百万ともいう日本人が満州開拓に渡った。
満州の関東軍百万の指導部は満州から中国国内に軍を進めて中国軍と戦争となったのは昭和一桁の時代
日本軍と協力していた満州閥の親分、張作霖を爆死させるなど関東軍の暴走がはじまり、日中戦争は泥沼化していく
そして、それを非難して日本軍の満州及び中国撤退を要求した欧米を相手に一歩も引かず国連を脱退する、今度はイギリスは敵側に回り、ソビエトとは日ソ不可侵条約が結ばれていた
(日本の敗戦が決定的になった20年8月に突如ソビエトは条約を破棄して満州に攻め込んで民間日本人を殺害、兵士は捕虜としてシベリア強制収容所に送る)

日本は欧州占領をもくろむヒトラーのナチスドイツと同盟を結び、いよいよ運命の大東亜戦争、太平洋戦争へと突き進む。
                 つづく



病気の便り

2024年07月20日 20時18分03秒 | 歴史・雑学・ニュース
 同年代の福井の知人から4年ぶりに手紙が届いた。
越後、北陸路を歩き続けた商売人である、知的でエレガントな人物、達筆で味わいある筆字は「もらってうれしい年賀状」でも紹介した。

内容は廃業の知らせだった、コロナで往来と商売がママならなくなり休業していたが、その間に腎不全や脳梗塞などいくつかの数値が悪化していることがわかり、精密検査で脳動脈瘤も発見されたとのこと。

ようやく商売再開という気運になった頃、長距離運転が不可能になり、さらに悪化した動脈瘤の手術、それで廃業を決めたという
年齢も70代、きっぱりとあきらめたらしい。

毎年楽しみにしていた年賀状が4年間途絶えていたのは、このような事情だったらしい
こうして内情の知らせが届いたことで彼の義理固さが再び蘇った

私も70代半ばで大腸がんが発見された、これまで何一つ不自由がない健康体だったのに、急に私も彼も、同級生も次々と大病を患うようになった
団塊世代は競争世代で、今振り返れば随分と肉体的にも精神的にも無理と我慢をしてきたと思う

40代は我慢の人生から一気に解放されて、毎晩のように飲みに出て梯子酒の御前様それが20年以上も続いた
きっと、その時のツケが今回って来たのだろう
同級生の女友達たちの夫は、私より少し年上の75から80歳前後が多いが、数年前から数人亡くなった。
また60代以後、私のようにガンを患った旅行会メンバーも20人近い仲間の三分の一いる、幸いに再発せず今も元気に暮らしているが
夫婦でガンになったメンバーもいる、ガンが日本人の二人に一人時代と言うが、どうも団塊世代から上が、この数字を押し上げている気がする。


有難や節 - 守屋浩

私がパンをあまり食べなかったわけ

2024年06月23日 19時24分31秒 | 歴史・雑学・ニュース
 今日は、さっぱり朝の4時半から時間が進まない。
最近の決め事、「5時前に間が覚めても布団の中で、まどろみながら5時半過ぎまではじっとしている」
それが今日は守れなかった、外では早くも鳥たちが夜明けと共に活動を始めている
決め事をするまでは、5時でもおかまいなくチュン太たちに朝ご飯を提供していたが、さすがに今は早く起きても、そこまではやる気は無い
この頃は6時から7時の間で定まって来た。

朝のルーティンも定まって来て、まずは顔を洗って神棚の榊の水と、水を取り替えて拝礼をする。
それから、仏壇のご飯を取り替え、花の水を新しくする、そして焼香と朝の挨拶をする。
その後で、庭の畑の空き地でチュン太に朝ごはんを振る舞い、楽チェアーに足を延ばして10分ほどチュン太たちを見ている
頭を空っぽにして眺めて居るだけの、この時間が至福の時、一番好きだ。
空っぽと言いながら、チュン太たちのほほえましい姿に何かを思っている。

それから自分の朝食のご飯やおかずを作り始める、だいたい30分くらいで出来る、ほとんどが野菜料理と卵料理、それにみそ汁やスープ作り
パンを朝食べる習慣は74年間ない、朝はご飯に味噌汁と決まっている
パンは中学の学校給食で三年間毎日冷たくあじけない「こっぺぱん」を「キャラメルみたいな固いバター」をかじりながら(塗るのは不可能)、アメリカからもらった栄養不良を補うための脱脂粉乳の冷たいミルクと一緒に胃に流し込んだ
まれに「小倉ミルク」と言って、甘い小豆入りの脱脂ミルクが出て、それはうまかった。(脱脂ミルクは、アメリカでは家畜の飼料との噂があった)
おかずはだいたいがうまくなかったが、「クジラの竜田揚げ」と「春雨サラダ」だけは数少ないうまいおかずの記憶がある、それ以外は記憶にない
パンの話が中学校の給食に脱線したが、そんな冷たく固い、まずいパンを食べていたのでパン嫌いになった。
それが滅多にパンを食べない理由である。
そもそも「こっぺぱん」が大きすぎる、たいてい半分食べて残りは紙にくるんでカバンに入れて持ち帰り、家でスライスして素揚げして、砂糖をかけておやつ代わりに食べたが、やはり毎日だと飽きる。
人それぞれで中には私のように残す者からもらって2人分食べる奴もいた。

これは中学校の給食の話だが、小学校の時はうまいパンを食べていたのだ
弁当を持って行くのは自由だったが、昭和30年代の事だから、朝から色とりどりの弁当を作ってくれるのは町場の豊かな家の奥様位なもので、私たちのような下町のかあちゃんは忙しいから、たまに作ってくれるのは「のり弁」
運が良ければ、小さな卵焼きが入っていることがあったが、卵も貴重な時代。
さすがにのり弁は味気ないから、のりを二段にしてくれと頼んで「二段弁当」
これで昼飯は終わったが、弁当が無い日はパン食
朝、パンの注文当番が点呼をとる「こっぺぱん」「ぶどうぱん」「ジャムパン」「クリームパン」「栄養パン」など何種類かを読み上げ、挙手で数を書いていき、それを先生に提出すると、昼に廊下でパン屋から受け取る仕組みだった
牛乳も注文出来て、ビンに入った牛乳と、コーヒー牛乳があった、断然コーヒー牛乳が甘くて好きだった
甘いものが不足の時代だった、支払いはどうしたか覚えていない。

高学年になると、少し利口になって情報を活かすことができるようになった
学校の正門の前に食料品店があって、そこの奥でこっぺぱんを買うと、ジャムなどを選んで塗ってもらうのだが、中に「バターピー(バターピーナッツ)」があって、これが抜群の旨さだった
もう学校の注文パンなんか食べていられない、少数の情報を得た子供だけが、特別美味しいパンを食べられる
私も、その一人であって、密かに優越感を持ちながら食べていた。
それが中学校に行って、あのまずい「こっぺぱん」に戻されたのだから、パンを嫌いになって当然だった。

今は女房殿がパンやケーキを焼く文明の利器で、毎週一回は焼いてくれるので温かくて柔らかいパンを週二回は食べている。

女房殿が実家の畑で作ったジャガイモを持って来た、ざっと200個以上はありそう。 でもほとんど女房殿の叔父さんが作ってくれたのだ。
ベーコンとで「チーズポテトグラタン」でも作ろうかな。


橋幸夫 雨の中の二人

「虎に翼」花岡判事の餓死

2024年06月16日 06時24分31秒 | 歴史・雑学・ニュース
 一時、寅に恋慕の情を持っていた真面目で清廉潔白な花岡判事が「食管法」を守って飢え死にした。
一年間、米汁だけの食事を続けた挙句だという。
花岡判事のモデルは大分出身の山口良忠判事である、亡くなった時は34歳だったそうだ。

昭和20年8月、日本はアメリカ、中国、英、仏、蘭、豪などとの戦争に負け、アメリカに国土を占領されて食糧難の時代を迎えた。
アメリカ支配下の日本政府は「食糧管理法」を制定して、米や主力食材を国がいったん吸い上げて、それを国民に平等に(眉唾?)配給した(配給制)
そうはいっても農家だって、苦労して作った米、野菜を「はいはい」と100%政府に出すわけがない、当然我が家が不自由しないだけの米は隠しただろう
政府も。そこらあたりは目をつぶったに違いあるまい。

ともあれ、配給された米や食糧だけでは空腹を満たすことが出来なかったのは間違いなく、それを実践して餓死したのが法を執行する立場の山口判事だったのだ。
逆に言えば、政治家も法律家も警官も闇米を食っていたということだ。
農業の非生産的な都市部の住民は宝石や高価な着物などを持って、田舎の農家を訪ねて米と交換してもらったという
そうして、やっと手に入れた米、野菜は駅で待ち構えている警察の摘発で多くが没収された、泣きの涙である。
こんな状況下で小平事件のような連続性犯罪まで起きた時代である。

父は昭和23年、23歳であったが、当時東京調布で軍隊時代の上官に誘われて、終戦後から倒産すれすれの農機具店から農機具を安く買い取り、農家に売る農機具販売(と言えば聞こえは良いが、詐欺まがいの商法であり、目的は米を得る手段であった)
その後、これを批判した湯たんぽ製造会社の社長に気に入られて、湯たんぽを新宿の闇市で売る仕事に転職した
だが当時の東京は金はあっても、若い男一人では暮らせない事情があったらしく、北陸に僅かな伝手を頼りにやって来た。

有力者の手づるも、信用も無い東京育ちの若者が簡単に職を得ることはできず、たまたま知り合った魚市場の番頭さんの情けで、山間部の農業地帯に魚売りに行くことになった。
闇市経験で、ちょっと斜にかかった言葉遣い、都会的な父は山奥の農家のおんな衆にたちまち人気となって、商売も順調であった。
もっとも背中に缶一つ担いでいくだけの魚だから売り上げは知れているが、戦後のインフレでお金の価値など一日ごとに下がっていく時代だった
何といっても米がお金の何倍も価値あるものだった。
父は魚と米の物々交換というスタイルを築いた、田舎で得た米を町場で売る
しかも家でも食べられるから一石二鳥、25年に生まれた私も生活は貧しかったが、食べ物に不自由した経験はない。

但し、父はたいへんだった。
都会同様に警官が闇米取引に目を光らせていた、わが家と山奥の村の中間に谷筋で一番賑やかな集落があって、そこに駐在が居た。
これまた若いのだが頑固で職責に忠実な警官、父は余裕があれば山の中の道を通って、警官に会わずに済むが、なんせ道が悪い上に遠回りだ
だから米が多い時などは、駐在所の村を急いで通る、それを見つけて警官は自転車で追いかけてきて没収される

父は三回目の没収の時、ついに牙をむいた
開き直って「全部持って行け、俺も今日で闇米商売は辞める、辞めたら閑になるから、おまえの家を毎日監視する、おまえや、おまえの家族が一粒でも闇米を手にしたら、ただでおかないからな」と啖呵を切った
戦後の闇市で生き抜いた父だからこそ言えたセリフだった
警官はだまって缶に蓋をして「行け」と言ったそうだ
それ以来、二度と捕まることは無かったそうだ
父の頭の中にも昭和22年の山口判事の飢え死にがデーターとしてあったのだろう、そんな時代だった。

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