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のんきいきいき So(走) Happy! -櫻庭健一の日記-

いつも笑顔と感謝を忘れずに
甘っちょろいと言われても希望を捨てず生きる
過去の少しの試練はそれで乗り越えたのだから

綺麗な庭。偉いのは私じゃなく、ここまで育てた両親です。

2016年05月25日 12時33分52秒 | Weblog
昨日、庭の手入れの職人さんが入りました。
とっても綺麗になって。
もう、言い訳はできません。
せっかく変わってきた自分なのだから。
この美しい状態をキープ。
これからの人生、テーマのひとつにします。

昨日、少し悲しかったこと。
デイサービスから帰ってきた父。
この庭を見てもほぼ無反応。
父が中心になって長い時間をかけて育ててきた庭。
それなのに・・・

うん、これからどんなになったとしても。
この庭はちゃんと受け継がなくちゃね。
思いを新たにしました。

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早起きして今に至るまでのあれこれ。

2016年05月24日 05時47分39秒 | Weblog
いつものように徘徊センサーが鳴った。
時計を見る。
うん、いい時間だ。

毎週火曜の朝はいつにも増して早起きをする私。
ラジオの深夜放送を聞くためだ。
私にとっては「早朝ラジオ」ということにもなるのだけれどね。
そのため唯一、目覚ましをセットする日。
最近はほとんど鳴る前に自然に目が醒めてしまうのでもあるが。

徘徊センサーが鳴ったのはセットした時間の45分前。
うーん、絶妙。
起きて発生すると思われる「作業時間」を考慮すれば丁度いい時間。

父はトイレではなかった。
台所に座っている。
この時間に尿意がない。
その時点でそうとう「やってくださっている」わけで。
シーツをチェック。
少し湿っている程度。ラッキー!

着替えそのものはトイレでなくたってできる。
「固形物」を伴う可能性もあるからね。
トイレに行ってくれればそれに越したことはない。
誘導することに成功・・・と思ったら・・・
トイレを通過して玄関へ。
靴を履いて外に出た。
ポストチェックだけだろう。
甘い見通しは裏切られ、門を開けて道路へ。
もう腹をくくるしかない。

様子を観察していろいろ学べました。
そうとう「よたって」いた。
20mもない路地の角までも真っ直ぐ歩けず、堪らず「月が綺麗だねえ」と声をかけて気をそらして一緒に家に戻った。
徘徊したとしても、どこか遠くへ行って行方不明という危機は去ったのかもしれない。
遠くへ行く前に力尽きるであろう、と。
逆の危機は考えなければならなくなったな。
人通りのない時間帯、つまり今のような夜中になるわけだが。
そのときの徘徊に私が気付かなければ、ぶっ倒れてそのまま・・・
そんな想像もしなければならない。

家に戻って。
やっとトイレ・・・と思ったらまたもや通過して寝室へ。
ズボンは濡れている。
このまままた寝てしまったら・・・
何とか着替え誘導に成功、ただし熱いタオルでの清拭はできず。

父が寝て。
そして私の時間がやってきた。
お湯とタオルはある。
これを無駄にするのはもったいない。
切り替えた、うん、自分で使えばいいんだ。
服を脱いで身体を拭く、そして着替え。
サッパリした。

いろんな作業。
終わったときにはもう放送開始直前。
楽しい時間の始まりだ。
放送が終わって。
走ろうかな、走りたい。
昨今の私の発想なら、本能にしたがって走ってきそうなものだが。
自重です。
一昨日昨日の暑さ。
バテバテだったことを忘れてはならない。
真夏よりも、まだ身体が対応していない今の暑くなり始めの時期が一番アブナイ。
ここ数年、この時期の対応、過ごし方を誤って体調を崩した苦い経験を活かさなくちゃね。
身体に負荷をかけていいのは身体が暑さに慣れたことを実感してからだ。

さあ、今日は庭の手入れの職人さんがやってくる。
草ぼうぼうで庭は荒れ放題、一週間前の段階で自分で何とかするのは諦めた。
綺麗にして貰ってそこからは私の責任。
自分の部屋だけではなく家の中全体を片付ける。
決心したばかり。

片付ける、綺麗にする。
何事もそこから先のキープが一番難しい。
そこに初めて成功したのが去年の自分の部屋、抜本的片付けから今に至るまでである。
今に至るまで、「リバウンド」はしていない。
あれは単なる片付けではなかった。
心の病の薬を止める過程でやったこと。
取り組む姿勢が違ったよ。
大袈裟でも何でもなく、部屋を変えたのではない、人生を生き方を変えたのだ。

夜が明けた。
【今日の写真】
昨日買った新しい花。
光を浴びる場所に出してみる。
心が安らぐ。
うん、生きている。
命をたいせつに、今の生活をたいせつに!

笑点、笑い、冒険、平和。

2016年05月23日 08時19分04秒 | Weblog
>“裕遊字的(ゆうゆうじてき)(http://ikiru.jp/)”内、今日の字遊航海(http://ikiru.jp/?p=5282
#「笑点」6代目司会に春風亭昇太さん 桂歌丸さんの後任(朝日新聞デジタルより)

歌丸さんなりの思いがあったのだろうな。
圓楽さんを選んでおけば、まあ間違いはない。
「無難な大笑い」は取れるだろう。
しかし意外性はまったくない。
新しい司会者を発表しても誰も驚かない。
言った瞬間に皆が納得してしまう。
歌丸さんにとってそれは一番我慢のならないことだったのだろうと。

誰もがビックリ。
してやったり。
笑いのプロの世界において「冒険心がない」なんて評価は最低だし。
快哉だったのだろうな。

正直に言うとね。
私には笑点が嫌いな時期があった。
落語や伝統が嫌いというのじゃなくてね。
チャレンジ精神が薄れて、たとえば苦しくなると安易な「メンバーいじり」のネタに走ってそこそこの笑いを取る。
しかしそれは「ほんわかした」安定を求める笑いであって、かつての歌丸小圓遊の言い争いのような「もしかしたらこれはマジの罵りなんじゃないか?」と思わせるような棘や毒はない。
そんな笑点が嫌いというよりつまんない。
ガキの頃楽しみにしていた番組だけにね。

伝統文化を守るというのは保守一辺倒になるということではない。
落語の世界ならなおさらのこと。
そして私も少しは成長して。
革新であり続けることの難しさを知り。
一巡してまた笑点を少し面白いと思えるようになった。
皮肉なことに私にそう思わせたのは「新しい風」ではなく。
歌丸さん、圓楽さん、木久扇さん。
居座り続けたメンバーたちの揺らぐことのないキャラと向かう姿勢であった。

笑いは難しい。
人を癒やすものであり、同時に使い方を誤ると大きく人を傷つける。
さりとて傷つけるとか受けないとか、それをビビるとつまらなくなる。
少しは大人になった私が気付いたこと。
笑いは好き。
自分も笑いたい。
人の笑顔も見たい。
笑顔の溢れる環境で生きたい。
笑わそうとするからいけないんだ。
笑われればいい。
笑ってもらう。
馬鹿をやって笑われる、そして自分も笑う。
そこに幸せを見いだせるようになったんだ。

どうやって平和な世界にするか。
その議題での角突き合わせての笑顔になれる要素一切無しの醜い罵り合いや相手の人間人格否定。
なんかおかしくね?

平和にしたいならまず自分の心が平和でなくてはならない。
笑顔に溢れた世の中に憧れるならまず自分が心からの笑顔になることだよね。
笑いのための冒険心。
それを表そうとした歌丸さん。
格好良かったです。

【今日の写真】
今朝の夜明けの月。
綺麗でした。
うまく言えないけれど。
私もこんな存在になりたいなあ。(^○^)

加藤いづみさん、Tシャツを汚してごめんなさい。でもこれが愛用するということ。

2016年05月22日 20時59分53秒 | Weblog
昨日、平成28年5月21日(土)
加藤いづみ 25th Anniversary Concert 『あの日、私の歌が生まれた』
(Vo. 加藤いづみ Gt. 高橋研 Gt. 狩野良昭 Pf. 佐藤史朗 Ba. 榎本高 Dr. 田中徹)
東京 Mt.RAINIER HOLL SHIBUYA PLEASURE PLEASURE
開場 16:15 / 開演 17:00

行ってきました。
ほんとうに楽しかった。
笑顔を見て、うれし涙とたくさんのありがとうを感じて。
幸せな気持ちで帰宅しました。

そして・・・
いつもの日常が戻ってきました。
留守中父のお世話をお願いしていた姉の情報によると、最後のシモのお世話は午後6時過ぎ。
私の昨夜の帰宅が午後10時半ごろ。
いつ「決壊」してもおかしくない時間である。
さりとて午後11時は今の私の生活サイクルでは深夜だからなあ。
諦めて、いつものように徘徊センサーをオンにして床に入った。

逆に不気味。
鳴ることはなかった。
私が寝たのは遅かったけれどいつも通りの時間に目が醒める不思議。
もう染み付いてしまったのだろうな。
朝食準備、父は声掛けにも起きない。
うーん・・・
最後の交換から半日以上経過。
もはや怖くて布団に手を入れて「状態」を確認する気にもなれない。

起きたのは9時半を過ぎてから。
そりゃ凄いことになっていましたよ。
「大きいほう」は出ていなかった。
ラッキー!そう考えましょ!
防水シーツ貫通、布団にも「被害」
買った当初はまさに完璧に布団を守ってくれて、心強い存在だった防水シーツにも経年劣化がある。
買い換えなくちゃ。

諸諸のシモのお世話とそれに伴う決して楽しいとは言えない「作業」の数々。
それはまだしも機嫌がすこぶる悪い。
久々の「言葉責め」も受けたけれど。
たいせつな部分がグッショリ。
目覚めてそんな状態だったらそれも無理はないな。

朝ご飯が終わるといつものように父はまた布団へGo!
さて私の生活、自分の時間だ。
が・・・
暑い・・・
真夏のクソ暑さに比べたら気温はそんなに高いわけではない。
網戸にして扇風機を回せば室温は29度くらい。

個人的に暑さで体調を崩す、その一番深刻な時期は今ごろ。
ほんとうに暑くなってしまえば、身体は慣れてくる。
暑くなり始め、それほど気温は高くないが身体がまだ対応できない。

ここ数年、この時期の対応を誤っている。
心の病の薬を30年ぶりに止められて初めての夏。
ここもちゃんと今までの人生から学ばないとな。
心がけたこと。
やりたいこと、やっておいたほうがいいこと。
満載の日曜日であったけれど。
何もしないで可能な限り横になって過ごす。
身体を休めて、暑さに慣らすことに集中する。
濡れタオル、窓全開、扇風機、こまめな水分補給。
ただし冷房だけは入れない。
それが身体と心を慣らして、夏、本格的な暑さに備えるための効果的な準備段階での最良の過ごし方。
室温が30度を大きく超えたら冷房なしでは身体を壊すから遠慮なくスイッチオンでも、この時期この気温で頼り始めてしまうとあとで苦しい思いをする。
学んだことは活かさないとね。

お風呂は沸かしておいた。
起きた父がいつでも入れるように。
お昼過ぎ、案の定起きた父が入ると言ってきた。
「あの状態」だったのだからオシモを中心に気持ちが悪いのは当然。
先読みの勝利です。

そして「その危機」はやってきた。
すこぶる元気な表情、動きもいい、油断しました。
お風呂から上がった父。
椅子に座った途端に全身の力が抜けて目がうつろになった。
ヤバイ、これはほんとうにヤバイ状態だ。
それくらいのことはわかる。
本気で救急車を呼ぶことを考えた。

母のときの体験が生きた。
パニクっていたけれど、最低限の冷静適切な対処をして。
オムツを穿いて貰うときに「大きいほう」もかなり出続けている状態だったけれど。
優先順位は心得ていた。
今やるべきはシモの衛生確保ではなく一刻も早く休んで貰うことだ。

布団の横でずっと待機。
脈拍正常、息も落ち着き、顔色も正常に戻った。
油断はできない。
今日は夜も添い寝かな。
そこまで覚悟はしたけれど。

三時間経過。
父は極めて元気そうに起きて「食べる」と言う。
時間はまだ早いが、一般的に夕食を食べる時間にこだわる場合ではない。
食べられるとき、食べたいときに食べて貰って、さっさと休んで貰わなくちゃ。
一緒に夕食、まだ陽がさんさんの時間だ。
食べ終わればソッコーでまた「寝る」になる。
ここではさすがにこだわらざるを得ない。
さっきのオシモ、あの状態、このまままた半日・・・
父のためにも私のためにも想像したくない世界だよねえ。

お世話開始。
心も含めて、いろんな意味での準備は万端。
使い捨て手袋で一番臭いの残りやすい両手を完全防備。
そして服装・・・
昨日コンサート会場で買ったばかりの加藤いづみさんのアルバムTシャツを着ていた。
少し考えて。
それは着替えないことにした。

予想通りたいせつなTシャツには「汚れ」が付いた。
この場面での「汚れ」の意味、わかりますよね。
後悔はなかった。
一般的なファン道としては間違いなのかもしれないけれど。
私にとってはこれがたいせつなTシャツの「正しい汚し方」であった。
サインしてもらった色紙とかだったら別の話だけれど。
額に入れて飾るTシャツでは意味がない。
着てこそ価値が出る。
自分が生活していく上での汗にまみれ、汚れる。
それでも洗濯して何度も着る。
結果、ぼろぼろになるのは早くなってしまうだろうけれど。
それがたいせつなものを「活かす」「自分のものにする」「愛用する」
そういうものだと思うようになったよ。

まあこんなブログ、ご本人は見ていないでしょうけれど。
万が一ご覧になったとしても、この話で気分を害することはないだろう。
私の感覚が正しければ、加藤いづみさん、ご本人はそういう方のような気がしています。

さりとて、思い入れのあるアルバムのロゴの入ったTシャツを本来付くべきものでないもので汚してしまったのは事実です。
いづみさんに対しても、心からのごめんなさい。
こんな人間がファンの一人、気分を害される可能性が少しでもあるならもっとごめんなさいなのでありました。

【今日の写真】
ってなわけでTシャツの汚れた部分を隠して記念撮影。
この汚れを隠さず撮ってWebで公開。
する勇気はない、しない常識はある。(苦笑)

コンサートから帰還~~

2016年05月21日 22時48分14秒 | Weblog
今日は渋谷でコンサートでした。
あ、私のコンサートじゃないですよ~~
あれ?!誰もそんなこと言ってないかっ!
失礼いたしました。

デビュー25周年記念ということで、サプライズゲストが登場したのですが。
ちょいと有名な方たち過ぎてねえ。
なんかの企画で、なんかの番組のサプライズとして、なんたらかんたら・・・
なのかなあ?
とか深読みすると、こんな駄ブログでネタばらしをしたら、迷惑かなあ?
ってことで、公になるまで寝かせておくことにします。

でも、もう留守中の父のお世話、お願いしていた姉にメールで伝えちゃったなあ。
早まったかなあ?(^^;)
では、私の生活サイクルでは、もう夜も遅いので。
おやすみなさい~~ZZZzzz...

開封に時間がかかります

2016年05月20日 19時29分26秒 | Weblog
aikoさんのニューアルバム。
Amazonさんから届きました。

届いたのは今日じゃないですよ。
ソッコーで開けるべきところ、開けたいところでありますが。
開封するには踏ん切りが必要。
しばらく寝かせましたよ。
開けて、そして案の定の「ヘビーローテーション」です。

今朝、走る予定でした。
久々だ、よーし!
やる気満々で布団に入り。
うまくいかないものです。
こんな日に限って、睡眠中断、父に関わる二度の「一時間作業」発生。
まあ、皆さん慣れましたよね、こういう話。
何をやったかはご想像通りのことで間違いないです。

二度目。
作業が終わって。
起きるのを予定していた時間だ。
そしてもう、目はすっかり冴えてしまった。
走るかな!

冷静になって。
自重であります。
今朝は走らず、そのまま布団に入りました。
この目の冴えは「錯覚」である。
経験を重ねてわかっていること。
目が冴えていても今はちゃんと休まなくちゃ。
ゆっくりと「目が醒めるまで」寝て。

それでもちゃんと起きたのは、「普通の人」並かそれより少し早い時間。
いつも通りの一日が始まった。
aikoさんのCDは切り替えのためのいい刺激になりました。
音楽と癒やしと笑顔と。
人生にとってたいせつなことですよね。

そして、明日は加藤いづみさんのコンサート。
敬愛するアーティストと連日関わることのできるできごと。
大きな幸せ。
父のお世話をできる。
愛する人を支えられる。
そんな日々。
それも大きな幸せ。

目覚まし要らず~~

2016年05月19日 20時20分31秒 | Weblog
最近の生活。
目覚まし時計が要らなくなった。

布団の横に置く時計は時間を確認するためだけの用途。
ピンポイントで何時何分に起きたい。
鳴らすのはそういうときだけである。

心や身体の状態にあわせて勝手に適切な時間に目が醒める。
目覚ましをかけないと延々と起床時間が先送り。
もう過去の話になった。

心の病の薬を止めた。
それもひとつの要因ではあるだろう。
でも、それは一番大きな要因ではない。
そう思うようになった。

薬を止める。
転機、きっかけではあったけれど。
ある意味「スイッチ」でしかなかった。
パチンと切り替えるだけのスイッチでしかなかった。

そしてそのスイッチの意味は大きかった。
なにせ「人生」「生き方」のスイッチだから。
走ること、生きること、考え方、日々の過ごし方、心構え。
ここ半年で大きく変わったよ。

単に前向きになったとか、そういうことでもない。
できないことも気合いで何とかなる。
そんなおめでたい思考は逆に遠くなったな。

ただし、何事もただ悲観的に見るだけではなくなった。
今、不具合があっても、この先、困難が予想されても。
不具合や困難を受け入れた上で「ま、いっか!」といえそうな気がする。

幸せ。
それを評価する基準も変化した。
こういうことを理屈馬鹿な表現で誠に申し訳ないのだけれど。
絶対的に人より低くて、相対的にはとても高い。
幸せ、笑顔、感謝。
そのハードルが半端なく低くなっちゃったんだ。
人が標準より下に評価することでも「ああ、これも幸せだよなあ」って。

あ、今日は父に関する「望ましくない作業」が一度で済んだ。
その一回は普通の人が「どん引き」するような内容でも。
「ああ、今日はラッキー!」って。
このあいだ、ふとそれを冷静な視点で考えて。
もう、苦笑いするしかなかったです。

♪月がとっても青いから~~遠廻りして帰ろう~~
そんな歌の世界のできごとが「うわあ~~幸せ~~」って。
すれ違う人がいたら気味悪がるような笑顔になっている。

安い人間になって。
安上がりになって。
でもとても幸せで。
幸せを実感できて。

いいんじゃないっすか!
他ならぬ本人が笑えて幸せなのだから。
こんなおめでたい人生も。(^_^)v

走れども走れどもゴールがないから人生は面白い

2016年05月18日 11時27分26秒 | Weblog
昨日、病院に行ってきた。
あ、父じゃなくて私の病院ね。
診察じゃないです。
デイケアと呼ばれている場所の夕食会。
私のたいせつな場所。

他のメンバーとは行く日を決める基準は違う。
この日に行きたいから行く。
私も昔はそうだった。
今は始めに行く日ありきではない。
父のお世話をお願いできる日。
姉とのスケジュール調整。
それで、後付けで行ける日、行く日が決まってくるのだ。

ここのメンバーになって20年以上が経つ。
私の心の病の歴史、ここはその足跡そのものである。
今の私だけを知っている人が当時の私を見たら。
にわかには同一人物とは信じられないであろう。
精神的に病んでいたのはもちろんのこと。
肉体的にも、そして外見も、今とは別人だった。
20代後半の私よりも若々しい52歳。
年相応を基準とするなら、そういうことにもなってくる。

統合失調症、精神病院への入院、今とは違った理由で働くことができなかった年月。
別に「黒歴史」でも何でもない。
その経験があったからこその今の私。
二十歳の発病から、三十年を吹っ飛ばして、フルマラソンを普通に走れる自分になったら。
深みも何もない、つまらない、それだけじゃない。
天狗の鼻の伸びきった、とんでもない勘違い男になっていたであろう。

今年二月、三十年以上を経て、やっと薬を完全に止められた。
ここは、まだゴールではない。
たとえばいわゆる「離脱症状」の存在。
覚醒剤とかとは違う。
けれど、心に直接作用する薬、向精神薬を長く続けたのは事実。
三十年以上の「薬物依存」だったんでしょ。
そう言い切られたら返す言葉がない。
薬を断ち切った段階でそれでお終い、病からの卒業。
辞めた瞬間から「不具合」は一切起きない。
そこまでの楽天家にはなれないなあ。

今、デイケアに通うのは今までとは違う意味もある。
ひとりぼっちになりたくない、楽しいから、メンバーとの交流、あるいは社会復帰の準備。
単純にそれだけではない。
スタッフとの面談、今の自分の状態を話す、自分がどう見えるか忌憚のない意見を聞く。
「調子が良い」その自覚だけで突っ走るわけにはいかない。
「この病気」だけに薬を止めたときの「調子が良い」という本人の感覚そのものがひとつの離脱症状、勘違い、悪化、失敗の入口である可能性がある。

昨夜も面談も受ける予定で行ったのだけれど。
なんか違うことになっちゃった。
普通、普段通り、みんなと話す、交流する。
そのほうが面白くなっちゃった。
馬鹿言って馬鹿やって大騒ぎしてそれでお終い。

まあ、これはこれでいい。
これも私には必要なこと。
心を癒やすために行った。
父の介護に向き合うだけの日常生活では、違う意味での「なんらかの精神的肉体的不具合」が発生する。
病気のこと、薬のこと、ここに居るときも一切考えない。
それも今の私にはとても重要な時間の過ごし方だからね。

なんだかんだであちらもプロだから、私の状態を見てくれているわけで。
「大丈夫ですか」「また痩せました?」「無理しないでくださいね」
その手の声掛けをさりげなくしてくれる。
ほんとうにありがたいこと。

今の私は一見順調、健康的。
「その情報」を知らずに今の私だけ知っている人にはそう見えている。
たとえばマラソンの会場で会う人たち。
交流して話していて前述の
「大丈夫ですか」「また痩せました?」「無理しないでくださいね」
そう言われることは皆無である。
良くも悪くもフィルターのかかっていない視線。

それとは別に謙虚な気持ち、人の意見に耳を傾ける姿勢。
私を思ってくれている人たちからのお叱りをちゃんと聞く。
自分の良くない部分、思い上がりや勘違いを改めることから逃げ回らない。
それらを忘れた回復なら、発病前の二十歳の自分に逆戻り。
つまりは真の病からの卒業にはならない。

いろいろあって。
やっぱり昨日も楽しかった。
やっぱり笑顔と感謝で締めくくれた。
やっぱり今の私は幸せなのだと思うよ。

これからどうなるかなんてわからない、今からわかるはずがない。
それでも、働くことを再開する、走り続ける、父を支え続ける、何より幸せ。
そんな今以降の自分の人生がイメージできる。
お日さまをタップリ浴びたシーツたちを見ながら。
そう、今、私は誰より幸せなのだぁ!

柏崎潮風マラソン、途中リタイア。切り替えて笑顔でのランナー応援で得たもの。

2016年05月17日 06時55分15秒 | Weblog
バタフライナイフを手に持って、その刃を研ぎながら。
「いや、決してあなたに危害は加えませんよ。あ、これですか?万一の備えに持っているだけです。安心してください。仲良くしましょう。私は争いごとが大嫌いな平和主義の人間ですから!」
そういう人を信じられるだろうか?

飄々として馬鹿なことばかり言っている。
ずっこけオヤジギャグ連発、ときに場の空気を凍らせる。
けれど決して嘘は言わない。
いつも笑顔で誠実で、やりたいことをやっている。
その「やりたいこと」が人の道から外れることは決してない。
大きなことを成し遂げたわけではない。
有名人ではない、地位名声があるわけでもない。
その人がその人をよく知る人たちからこんな評価を受けるだろうか?
「いつも馬鹿なことばかり言っているから、あの人の言うことは一切信用しないことにしよう」

誤解をされている。
とんでもない濡れ衣を着せられた。
誹謗中傷をされた。
そんなときにするべきことはなんだろう。
必死になって言い訳をしまくる、正論をまくし立てる。
それで危機は去るだろうか。
普段通りの生活を続けて、いつも通りの行動をして。
自分がどんな人間かを言葉で語るでもなく誠実に体現する。
それでいわれのない災難がずっと続くだろうか。

回りくどいことを書きました。
ここからが本題です。

一昨日、柏崎潮風マラソン、四回目のフルマラソンにチャレンジ、28km地点で途中関門の制限時間に引っ掛かってリタイア。
走りながら完走が難しいと悟ったときから、周囲のランナーの応援に徹しようと切り替えた。
止まって、歩いていたわけじゃない。
満面の笑みで、それでもある程度のスピードを出して走りながらの応援。

新しい気付きがあった。
理屈ではわかっていたけれど、一昨日初めて実体験として身体で覚えたことがあった。
いろんな反応があって面白かった。
一瞬だし、余裕綽々で走っている人はいないから、気の利いた反応、たとえばお笑い芸人並みのボケやツッコミをしてくるランナーはいない。
なおかつ走りながらの私の声援に悪意の反応を返す人は皆無であった。

ランナーにとって沿道の応援はとてもありがたいものだ。
それはもちろんのことなのだけれど。
同じレースに参加しているランナーが自分の力を尽くしながらの応援。
それは違った形で心に響いてくる。

うん、これでいいんだ。
これからはこういう生き方でいこう。
ランナーとしても、記録記録と血眼になることはやめよう。
風を切って速く走るのは気持ちがいい。
でもひたすら速く走ればいいってもんじゃない。
記録を追求するランニングスタイルももちろんありだ。
けれど私は気質として違うのだろう。
給水所ではコップを掴んで走り去るのではなく、必ず止まってじっくり補給やメンテナンスをしながら、スタッフに軽口を叩いて笑顔で「ありがとうございます」と言う。
自分の記録よりも周囲のランナーを応援することを優先する。
それも素敵に思えてきた。
そんなランナーがいてもいいじゃないか。
「仮装道」に徹する素敵なランナーにも出会った。
私は私にしか出来ない走りをパフォーマンスを。

走ることは生きること、それ以上でも以下でもない。
食べること、寝ること、笑うこと、泣くこと、愛すること。
私にとっては生きることそのものと同列で、日々自然に行っているそれらと同じことなのだ。
日常生活に走ることを取り込む。
普段通りの自分のままで走る。
走ることが自分という「人間」の表現手段のひとつになればいい。
日々の走り、ランナーとしての資質向上。
それはタイム短縮のためが一番ではなく、笑顔で走れるスピードを上げて、制限時間内で完走できる大会を増やすため。

名誉のリタイア。
走り終えて、そんなことを思いました。
新しい世界が見えた。
今までと同じだけれど、今までと違う生き方も追加しようと。
今、そんな気持ち。
笑顔、感謝、充実。
うん、それでいい。(o^^o)

昨日。笑顔と感謝で応援に徹した日。柏崎潮風マラソン完走ならず。

2016年05月16日 19時57分26秒 | Weblog
昨日、平成28年5月15日(日)
柏崎潮風マラソンhttp://shiokaze-run.info/

途中リタイアです。
まあ、名誉の撤退ですな。
決して万全とは言えない体調。
それであの激坂のコースと暑さ。
無理無茶をするべき日ではなかったです。

8時スタート。
その直前に汗を掻いたTシャツを着替えた。
それくらいの暑さ。
ゆっくりと走り出した。
このペースで走りきれば、途中関門に引っ掛からず制限時間内にゴールできる。
そういうスピードではあったけれど。
このペースを最後まで維持できる。
このコンディションでその幸運は考えないほうがよさそうだ。

そして「あの違和感」は、3km地点でもうやってきた。
そこで切り替えましたよ。
前回の「頑張っての制限時間ギリギリ完走」を目指してはいけない。
身体の調子を見ながら決して無理無茶をしない。
同時に最初から手を抜いたり諦めたりはしない。
そのときどきで今の自分にできる最高のパフォーマンスを。

案の定、ペースは徐々に落ちてくる。
このままのペースを保てれば確かにまだ大丈夫だけれど
完走は現実的に考えて難しいことが明らかになってきた。
フルの30分後スタート、ハーフマラソンの部、先導車に抜かれたとき。
ハッとひらめいた。
開き直りと言ってもいいのだけれど。
完走が無理なら他に目的目標を設定してみる。
経験を重ねたランナーとの直感として、折り返し地点、つまりハーフの距離に設定された第一関門、ここの制限時間に間に合うかも怪しいものだ。
じゃあ、今日は応援に徹してみようと。
今日は他のランナーの応援に徹してみようと。

こういう人間だから、切り替えたら楽なものだ。
ここからはもう「声を嗄らして」「満面の笑み」で追い越していくランナー、折り返してきてすれ違うランナーを応援し続けました。
すると面白いことが起きた。
私を追い越すランナー、すれ違うランナー。
その時点で私よりも速い、走りにキレがあるランナーなわけで。
そういう人たちを応援していると、こっちまでその気になってきた。
あれ?もしかしたらまだ俺もちゃんと走れるんじゃないの?
応援、笑顔、声掛け。
これに気を取られ、集中していたら、今の「自分の不具合」が頭から吹っ飛んでしまった。
今日のこの状況、状態でこのスピードを出したらダメだろ。
気付いたらそんなペースになっていた。

無理だと思っていた折り返し地点の第一関門、制限時間まで少しの余裕を持って通過。
偉大なる勘違いであります。
でも、所詮そこまでだった。
折り返すとそこからすれ違うのはほとんど力尽きたランナーたち。
応援は続けたが、もらえる元気はない。
ここでも冷静だった。
28km地点の第二関門、「制限までの残り時間」割る「距離」、つまり突破に必要なペース、そしてそこに至るまでのキツい登り坂、かんかん照りでますます上がっている気温、今の自分の「状態」。
万全で臨める「普段の自分」だったら難なくクリアできるペース。
しかし今は違う。
今日そのペースで走ってはいけない。
ランナー人生、まだまだ先がある。
故障、回復不能、あるいは回復に時間がかかるダメージ。
それだけは回避しなくちゃならない。

ってか、そんなスピードは土台出せる状態ではなかった。
ここでもう一度切り替え。
目標変更。
間に合わないから完全に諦めるというのも自分として違和感がある。
守る原則、今日こそは貫く。
走る、とにかく走る、止まってもいいから歩かない。
自分はランナーとして参加しているのだから。
最後は「関門不通過を目指してラストスパート」だ。
粋な計らいもあった。
関門では通過に間に合わないランナーひとりひとりにゴールテープが用意されていた。
笑顔でゴール?!

うん、楽しかった。
記録の残らない途中リタイア。
悔しいとか情けないとか。
そういう気持ちが微塵も生まれなかったことがとても嬉しかった。
コンディションが悪いなりに、そのときどきの状況に応じて、今の自分のベストパフォーマンス。
完走できなかったということ。
確かに初めてのことではあるけれど。
長く続ける気満々のランナー人生なら必ず通る道。
ランナーとして人間として、天狗にならないためにはその経験も有益だからね。
こういう「特別な状況」でランナー同士の交流もできたし。
うん、負け惜しみでもなく、とっても楽しかった。

帰宅。
父のお世話は姉にお願いしていた。
今回は泊まり込みだったわけで。
飲食物販売店舗の店長さん、姉にとって土日を通して休むというのは厳しいことであったのは間違いない。
感謝感謝であります。
やっぱり来てくれたけれど先に帰り、会えなかった姉同然の従姉妹に会えなかったのが残念。
私が帰宅して、話を少しして姉も自分の家に帰って。
そして私はいつもの日常に戻った。
夜中、いつものように徘徊センサーが鳴って。
いつものようにシモのお世話をして。
いつものように今日も父がデイサービスへ出掛けて。

いつもと違ったこと。
昨日は15日、つまり母の月命日。
恒例の月命日墓参りには行けなかった。
今日、一日遅れで挨拶に行ってきました。
【今日の写真】
こんな感じです。
しわしわのゼッケンを飾ってハイチーズ!(o^^o)

今日、柏崎潮風マラソン。楽しんできます!

2016年05月15日 05時17分17秒 | Weblog
今日のこの近辺。
レース終盤、一番キツそうな時間帯、4mの風の予報。
海が近く、しかもその方向からの風。
この予報より強い風が吹くかもしれないことは容易に想像がつく。
まあ、人生こんなもんだ。

(自分の)睡眠中も徘徊センサーを気にする環境から久々に解放されてぐっすり眠り。
目覚めスッキリ、体調は良くも悪くも現状維持。
この朝を迎えられました。

平成28年5月15日(日)
柏崎潮風マラソンhttp://shiokaze-run.info/

そう、いつも通り。
笑顔と感謝を忘れずに走れればいい。
結果は後からついてくるもの。
今日を、今を、感じながら楽しんできまーす!

前日乗り込み。明日は柏崎潮風マラソン。

2016年05月14日 20時54分38秒 | Weblog
柏崎に着きました。
いよいよ明日です。

宿泊の駅前ホテル。
バスルームに窓があって、決して明るくはない夜景が逆に素敵。
普通に部屋でWi-Fiに繋げられる。
嬉しい誤算。

さて。
これでもそれなりに経験は積んできた。
レース当日朝の過ごし方は心得ている。
スタート時刻は午前8時。
その3時間前には朝食を食べ終わっていたい。
逆算すると・・・ってことです。
久しぶりに徘徊センサーを気にすることなく寝られる夜。
こんな日に目覚ましの音で起こされるのはもったいない。
せっかくの機会だから、目覚ましの音で起きるのは「何だかなあ」って感じなので。

さっ!さっさと寝ることにいたしましょう。

衰えていく父と、喜びを与えてくれる父と。

2016年05月13日 06時16分30秒 | Weblog
昨日の夜のことだった。
「いつものように」トイレで父の「お世話」していると。
父が突然言った。
「こうしているととても嬉しいな。ありがとう。親子ってホントにいいな。」

嬉しかったなあ。
うん、涙が出るほど嬉しかった。
こういうストレートな言葉を素直に口に出すことは決してなかった父。
ホント、嬉しかった。

私の気持ちと行動が伝わった。
こういうことを言う父になった。
私の言葉が伝わったんじゃない。
やったことは返ってくる。
私が信じていたことは、やっぱりほんとうだったのだ。

父の言葉ではない最近変わったところ。
理不尽にキレることがなくなった。
キレることはある。
でも、私が「ちゃんとしたこと」をしているときにキレることはなくなった。
半年前なら日常茶飯事だった、「父が下から床に落としたもの」を掃除しているときに「臭いぞ!早く何とかしてくれよ!」なんて類のことは絶対に無い。

父が言葉にしてくれたから。
私もちゃんと言葉にした。
「こちらこそ。ほんとうにありがとう。僕も嬉しいよ!」
平和で、優しい時間が流れた。

最近、起きたこと。
起き始めたこと。
いいことばかりではない。

文字通りの「失禁」をするようになった。
お風呂から上がって着替えの最中。
座ったままの状態で、気付くと「父は気付かず」普通に「放出」が続いている。
するべきではない場所、するべきではない体勢、するべきではない場面。
そういう状況下ですることは今までもあった。
しかしそれはあくまでも自覚があった上でのことだった。
廊下ですっぽんぽんで「いきむ」
決して望ましいことではないけれど。
「意識」を持ってやっていたことだったわけで。

眠っている状態で漏らしてしまうのは、また別のお話。
「違うステージ」に入ってきたということかもしれないけれど。
望ましくないことが起きて。
そして、とても嬉しいことが起きて。
ちゃんとしたことをしていれば、ちゃんとバランスは取れてくるのだな。
それがどんな形かはわからないけれど。

ちゃんとした状態。
その定義もイマイチ曖昧。
それでも今は間違いなく「良い状態」だという自覚がある。
不都合不具合があって。
それでも心身のバランスはちゃんと取れている。
何らかの形でプラスは訪れてくる。

うん、ちゃんとしよう。
今まで通りです。
今日、私の精神科通院、そして仲間たちが集うデイケアと呼ばれる場所へ。
先生に、スタッフに、話したいことがある。
そして、四度目の42.195kmは明後日に迫った。
いつも通り、笑顔と感謝で走る。

そう、特別なことじゃない。
毎日いつも通りの自然な私を出していく。
その先に必ず幸せはある。
そのことだけは強く信じられるよ。
これこそが真の幸せ。
心から感謝したいです。

素晴らしい人生の器を準備しよう

2016年05月12日 10時32分03秒 | Weblog
生まれて初めての経験の真っ最中。
楽なものではありませんが、その先にある希望の世界が見えているので「苦しい」という感じではありません。
最近、このことで思わせぶりな表現をいろいろしてきたように思います。
それが具体的になんなのかは、日曜日のレース明けにでも書くことにします。

それでちょっと生活が停滞していた。
今まで何度となく「停滞」と言ってきたこととはまったく違うもの。
結果、慎重になっていた。
そう言えば聞こえはいいけれど。
務めてアクションを起こさず、落ち着いて過ごしていた。
まあぶっちゃけ悪く言えば「何もしていなかった」のです。

いろいろ一周しちゃってさ。
吹っ切れましたよ。
今まで通りでいいのだと。
いや、ちょっと違うかな。
今までやっていてうまくいってきたことはそのまま続ければいいんじゃないかと。
そして変えていくことがある。
変えたほうがいいことがある。

やること。
やると決めたこと。
去年、自分の部屋の抜本的片付けをした。
二段ベッドと大きな棚を三つ処分。
文字通り、今までとは違うレベルの片付けをした。
今に至るまで「リバウンド」はしておらず、成功と言えるだろう。

それを家中に広げる。
父が嫌がることはしない、父に思い入れがあるものは処分しない。
セーブの条件はそれだけ。
自分の部屋と同じく「抜本的片付け」をする。

【今日の写真】
たとえば台所の流しの横、こんな具合である。
家中の写真を見せるのもなんだが「一事が万事」と思っていただきたい。

白状しよう。
自分の部屋を片付けたとき。
考えて止まっていたら進むことはできなかった。
自分の部屋を綺麗にするため、なるべく置くものを少なくするため。
最終的ににっちもさっちもいかなくなって処分に困ったものたち。
邪魔なものを他の部屋の押し入れに片っ端からぶち込んだりした。
まあ体の良い「たらい回し」である。
自分の部屋を綺麗にして自己満足に浸るため。
問題を先送りにして逃げただけの部分は確かにあった。

三十年以上続けた心の病の薬を完全に止めた。
自分の心と身体、要観察期間。
父の介護、自分の心と身体を整えること。
後者については「走る」ことがその代表。
それに特化、集中する日々を過ごしている。
父の年金に生活資金に充てて私は今仕事をしていない。

今、焦って動いてすべての努力を台無しに、二十歳の発病の状態に逆戻りという最悪のシナリオだけは避けたい。
そして同時に、ずっとこのままではいけないのはもちろんのこと。

動ける時間があること。
それを活かしてみるんだ。
心と身体の状態を慎重に見ながら落ち着いて過ごす。
そこからは卒業。
普通にしてみよう。
やりたいこと、やるべきこと。
それは心に従って素直にやることにしよう。
自分のためにと「無理をしない」ことが結果、心に背いて自分に不自然なセーブをかけて「無理をする」ことになっている。
その本末転倒に気付いたから。

進もうと。
自分の未来のために。
これから開ける素晴らしい人生の準備をしよう。
なりたい自分にふさわしい器を用意しよう。

自分の実力以上のものは出せない。
それが人生の基本。
走ることで実感として理解することができた真理。
私がフルマラソンを2時間10分で走ることは不可能。
どんなに頑張っても達成不可能な目標がある。
そのどうしようもない現実。
そして日々の走りの積み重ねで「実力」は上げられる。
突然、実力を大幅に上げることはできなくて。
同時に始めるのに遅すぎるということはなくて。
亀の歩みでも実力は確実に上げていくことができる。

そのために今やりたいこと、できることを積み重ねていく。
動けるまとまった時間があることを活かす。
その始めの一歩が家の手をつけなかった場所の抜本片付け。

さあ、始めましょうか!(^_^)/

好きな言葉「走ることは生きること、それ以上でも以下でもない」

2016年05月11日 07時18分21秒 | Weblog
昨日、ちょっとショックなことがあって。
頭を空っぽにしたかった。
天気予報は外れ。
降っているはずの雨は上がっていた。
走ってきた。

いいなあ。
スッキリした。
こういう部分でも走ることは「たいせつなこと」になっている。
そんなに凄い人間ではないからさ。
なにか「にわかには受け入れがたいこと」が起きたとき。
頭だけで考えていたらパンクしてしまう。
走ってスッキリしても問題そのものの解決策にはならないけれど。
考え込む、抱え込む、そういうことじゃない別のアプローチはちゃんと見えてくる。
頭と身体の関係、バランスってたいせつなのだな。

#走ることは生きること、それ以上でも以下でもない。

最近出会った素敵な言葉。
グッと来た。
そうなんだよね。
何故走るかという問いに対して一番しっくりとくる答えだった。
食べること、寝ること、笑うこと、悲しむこと。
走るのはそういうことと同じ。
人生、生活の一ページなのだと。
普通で、でも生きる上で欠かすことはできなくて。

正直に言おう。
走ることを半ば義務感でやっていた時期はあった。
走らなきゃいけない。
そろそろ走らないと健康を維持できないのじゃないかな。
それだけで走っていて面白いわけがない。
「走ることは生きること」になったとき。
私の走りは変わったのだと思う。
心も、身体も、そして人生も変わったのだと思う。

走ることは凄いこと。
同じように一時期持っていたそういう考え。
優越感、思い上がりだったよ。
凄いこと、つまり特別なことだったから。
「無理」になっていて続かなかった。

今、走ることは日常の中にある。
ごくごく普通のこと。
日々普通に生きている中で自然と走りたくなる。
それだけじゃなかった。
体調が優れない、心が求めていないときは走りたくなくなる。
ホント、自然なことになった。
だから続いているのだろうな。
もはや「続けられている」という感覚でもない。

【今日の写真】
昨日、走り終えて。
Garminくんがまた新しいことを言ってきた。
好調時より圧倒的に遅いスピードで走っているのに評価が上がる。
心拍数も測ってくれるからさ。
その上がりが少なく安定している。
コップの高さは下がったけれど容量が大きくなった。
そういうことなのだろうな。