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日帰りモニターツアー~壱岐の守護代少弐氏について~

2016-02-26 08:50:00 | 学問


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前回は、
新城神社



平景隆(たいら の かげたか)の墓所

千人塚



を巡りました。

今回は、少弐公園を回ったのですが、その前に・・・
 

『少弐公園ってどんなところなのか!!』ざっくり説明しますと、弘安の役の戦場となったところで、弱冠19歳で討ち死にした当時の壱岐の守護代少弐資時(しょうに すけとき)の墓と、その墓の近くに彼を祀った壱岐神社があります。

なかには、少弐資時って誰よ???って思った方!!!
私も、「誰???どっかで聞いたような???」って思いました(((uдu*)ゥンゥン

そんな貴方のために♪♪♪少弐家について簡単に紹介しますね!!!
まず、少弐家の始まりともなる、少弐資時(しょうに すけとき)から見て曽祖父になる、『武藤資頼(むとう すけより』(名前が違うのは、後ほど説明してますので、このまま進みますね!!)
実はこの方、武将なのです。そして九州に派遣されて大宰府の少弐*に任ぜられ、鎮西奉行*(ちんぜいぶぎょう)に就任。さらに、肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護となりました。

ココで、用語の説明
1.大宰府の少弐職
おおまかに仕組を説明からしますと・・・
大宰府 (だざいふ)
 西海道の9国2島(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅、壱岐、対馬<現在の九州・壱岐・対馬>)を管理し、大陸との外交、国防をつかさどる役所がありました。
(「太宰府」→これは太宰府天満宮を表しています。『大』または『太』という漢字の違いで、意味が異なるのです!!)

大宰府の役所の中には、次のような役職がありました。
☆大宰帥 (だざいのそち)
 大宰府の長官。親王職。親王は任地には赴かず、実務は大弐(次官)が執り行ってました。

☆大宰権帥 (だざいのごんのそち)
 納言以上が任ぜられた。あの有名な「菅原道真」「藤原伊周」等、上級貴族の左遷職でもあります。この場合、官名のみです。

ポイント!!大宰帥も代理の大宰権帥(だざいのごんのそち)も,左遷の意味で任ぜられたとき以外は赴任しなくなり,次官の大弐(だいに)・少弐に実権が移るのです。

☆大宰大弐 (だざいのだいに)
 大宰府の次官。(親王が大宰帥に任ぜられる事が慣習化すると、実質的長官としての役割を果たした。)

☆大宰少弐 (だざいのしょうに)
 大宰府の次官で、大弐の下。大弐の職務を補佐した。(本来この役職は、公家*(くげ)の官職なのです。)

公家(くげ)
 日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。
↓↓↓このような姿の方
 

鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)
 鎌倉幕府において、鎮西(九州)の御家人*(ごけにん)の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれます。

御家人(ごけにん)
 将軍と主従関係で結ばれた武士。
↓↓↓有名な「蒙古襲来絵詞」 の一部
 

ということは、少弐資時(しょうに すけとき)の曾じいちゃんである、武藤資頼(むとう すけより)は、武将の身分だったのに、公家の官職である大宰少弐に初めて任ぜられたということになるのです。(すごい(@ ̄□ ̄@;)!!)

それ以降、大宰少弐職は、武藤資頼(むとう すけより)の子資能(すけよし)に継承され、以降は世襲となります。これが少弐姓の由来である。

そして、下の略図が、少弐家始まりの武藤資頼(むとう すけより)から、蒙古襲来時に活躍された方をピックアップしました。

数字は、宗家。壱岐に関連する登場人物のみまとめています。

ということで、ツアーで回ったところを紹介したいと思いますが、、、、
だいぶ、長くなりましたので、次回は写真を多めに見やすく『少弐公園・壱岐神社』 を紹介したいと思います。

おたのしみにぃ~

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