壱岐☆Iki Iki 情報プラザのほぼ毎日?ブログ♪

壱岐の情報や壱岐市福岡事務所の活動状況など、おもしろ情報満載のブログです(・∀・)ノ

日帰りモニターツアー~元寇史跡めぐり part4~

2016-03-04 08:20:00 | 学問


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前回は、少弐公園~壱岐神社・千人堂の碇石を紹介しました。











今回は、ツアー後半に回った場所を紹介します。(過去に紹介した箇所は、過去の記事をリンクしてますので、ぜひその記事もチェックして見てくださいネッ)

芦辺町の海沿いを走りました。

↑↑↑清石海岸

↑↑↑八幡半島が見えます。シーズンになると海女さんの姿も見れますよ!!

そして、この時“防人の歌”というものがあると、初めて知りました。(中山さん、歌ってくださったんですよ!!お上手でした)

歌詞の中の「磯馴の松(いそなれのまつ)」とは、海風に吹かれて、風の向きに傾いた状態の松を言うそうです。

↑↑↑枝が横に伸びてるでしょ!!これを、磯馴(いそなれ)というそうです。

↑↑↑青島公園!!火力発電所があります♪

↑↑↑人気のパワースポット“小島神社”

他にも、見ごたえのある観光スポットは、車内で写真を用いて説明してくれたり♪

(中山さんが実際に撮影した写真だそうです。キレイですよね!!)



と、車窓から壱岐の風景を楽しんでいると、あっという間に一支国博物館に到着です。

一支国博物館は、過去にも紹介した記事があるので、ぜひチェック♪
【過去の記事:『壱岐研修 1日目☆その(2)』】





今回、館内展示品の解説をしてもらいました。
ガイドをしてくれた、松尾茜さん(*''ω''*)(この方も、説明がお上手で…聞き惚れました(*´艸`*))

博物館内は、実際に触って確かめれる展示物もあります☆彡
一支国博物館でしか手に入らない“お土産”、“本”、もあります。(なんと壱岐焼酎も販売してます。)





一支国博物館からも全体を見ることができる、原の辻一支国王都復元公園です。
【過去の記事:『壱岐研修 1日目☆その(3)』】



最後に、岳の辻の展望台に登りました。

岳の辻の高さはおよそ212.8m。壱岐の島のほぼ全体を見渡すことができます。


展望台横にある龍光大神(神社です。)
全体像を撮り忘れちゃったのですが、、、中央に祠があります。その右側にある龍神様の像です。

この龍神は、なんと指が7本もあるのです。

爪が7本?!・・・どんな意味があるのかさっぱり(;^ω^)一旦、調べてみたいと思います。(わかったら、報告したいと思います♪)

展望台を後にし、バスが待っている駐車場へ向かっていると・・・
「どんどろ洞窟」と呼ばれているほら穴があるとの中山さんのお話。(今回は、行ってないのですが・・・)

「どんどろ洞窟」の由来は、、、
昔々、壱岐の島で仏教が盛んな頃、毎日たくさんの托鉢僧(たくはつそう)が郷ノ浦の町を訪れていました。
その中に、色白でたいへん顔立ちの良い(今風に言うとイケメンの)、若い僧がいて、町中の若い娘達の間でキャーキャー言われていました。
しかし、その若いイケメンの僧は、どこのお寺に住んでいるのか、どこからやって来るのか誰も知らないのです。そこで、元気の良い村の青年が後をつけることにしました。
若いイケメンの僧はしばらく歩いて岳の辻のふもとまでやって来たとき、ひょいと後ろを振り返りました。

なんと、振り返ったときの僧の顔は青白く、おまけに目も口もありません。(イケメンでもなんでもなくなりましたネッ!!)それ以来、その若い僧は郷ノ浦の町には来なくなりました。

しばらくして今度は、岳の辻で、白髪(しらが)頭で、白衣を着た老人を見かけるようなりました。この老人を見た者は高熱を出して寝込むようになったために誰も岳の辻には近づかなくなりました。

これを聞いた城代は、真相を究明するために若者を700人程集め、ほら貝を合図に、手に手に鎌を持って、やぶや草をはらいながら、若者たちは岳の辻を上って行きました。8合目あたりまで来たときに、人がやっとは入れるくらいの穴を見つけ、おそるおそる穴の中に入ろうとすると、中から、「どろ~ん、どろ~ん」とぶきみな音が聞こえます。そんなときに、急に雷鳴がとどろき、大粒の雨がはげしく降ってきました。

若者達は、しかたなく、穴の中に入っていきました。奥まで進んだとき、若者達が見たのは、なんと、とぐろを巻いた大蛇でした。それ以来、この洞窟を「どんどろ洞窟」と呼ぶようになり、誰も近づかなくなりました。
という、怖いお話でした。(夏場はともかく、寒い冬場に聞く話じゃないですね(´-∀-`;))

ということで、今回のモニターツアーで回った史跡は以上となります。
では、とっておきのランチ紹介は・・・次回♪
お楽しみに~

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日帰りモニターツアー~元寇史跡めぐり part3~

2016-03-01 08:50:00 | 学問


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前回は、壱岐の守護代少弐氏について、簡単に仕事内容と少弐氏の略図を紹介しました!!
今回は、少弐公園~壱岐神社を写真で紹介する前に・・・守護代少弐家の各人物像を簡単に紹介しますね!!

1.武藤資頼(すけより)
1196年、筑前守護・大宰少弐に任じ、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬を統括。これ以降、子孫世襲し、少弐を氏(姓)として室町幕府の末代まで及ぶ。

2.資能(すけよし)
弘安の役に出陣!!重傷を負って博多へ護送後、弘安4年7月18日死亡。70~80代の老将とはいえ、戦場に臨んだ理由として、(a.)北九州一帯の守護職に就いていたことによる名誉と責任。(b.)孫である「資時」の弔い合戦と思っていたからだとも言われている。

3.経資(つねすけ)
弘安の役の大将。総司令官として九州の守護たち各司令官を束ねて、連合軍として船団を率いていた。

4.景資(かげすけ)<資時の叔父>
文永11年10月20日、上陸を開始する元軍を、日本の総大将として迎え撃つ。

5.資時(すけとき)
文永11年10月20日、叔父の景資(かげすけ)が総大将をした文永の役が初陣。弘安4年(19歳)の時、壱岐の守護代となり、居城は、瀬戸浦の船匿城(ふなかくしじょう)であったと伝えられている。弘安の役、壱岐で壮烈な戦死をとげた。

この像は、芦辺港のフェリー乗り場、正面玄関前にて、見ることができます。
≪以上、参考:山口博千氏のHP「壱岐めぐり」≫


さて、前置きがかなり長くなりましたが!!以上をふまえて、少弐公園をまわりま~す。
↓地図をご覧ください!!

黄色の線で示してますが、“start→①→②→③→goal”の順番で巡ってます。

スタート地点の駐車場の風景です。


さぁ~次は①の少弐資時公墳墓へ行きます。







↑↑↑少弐資時公墳墓です。


続いて、②の展望台・のろし台へ行きます。




↑↑↑道中、瀬戸浦が一望できます。


展望台とのろし台なのですが・・・いたずらっ子がいたらしく・・・こんな、忘れ物が(;^ω^)

碇石(いかりいし)

元の軍船に使われていたといわれる碇石です。近くの海底から引き揚げられたそうです。
壱岐神社の後に行ったのですが、芦辺浦にある千人堂にも碇石があります。



この千人堂では、碇石は御神体として信仰の対象とされています。地上に出ている部分は1m、地中に2m埋まっているそうです。


最後に③の壱岐神社です。



↓↓↓見えてきました




中には、元寇襲来の絵や少弐資時の絵などが飾られています。







↓↓↓ここにも、碇石がありました

文永の役・弘安の役で守護代として、戦い抜いた少弐家3代の強い責任感・生き様・・・感動しました!!知らないことだらけで、「ごめんなさい」と謝りたくもなりました。
そんな気分の後は、お腹も満足に~ということで昼食に行ったのですが、それは、最後にしましょう!!
次回は、午後に回った箇所を紹介します。

お楽しみに~

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日帰りモニターツアー~壱岐の守護代少弐氏について~

2016-02-26 08:50:00 | 学問


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前回は、
新城神社



平景隆(たいら の かげたか)の墓所

千人塚



を巡りました。

今回は、少弐公園を回ったのですが、その前に・・・
 

『少弐公園ってどんなところなのか!!』ざっくり説明しますと、弘安の役の戦場となったところで、弱冠19歳で討ち死にした当時の壱岐の守護代少弐資時(しょうに すけとき)の墓と、その墓の近くに彼を祀った壱岐神社があります。

なかには、少弐資時って誰よ???って思った方!!!
私も、「誰???どっかで聞いたような???」って思いました(((uдu*)ゥンゥン

そんな貴方のために♪♪♪少弐家について簡単に紹介しますね!!!
まず、少弐家の始まりともなる、少弐資時(しょうに すけとき)から見て曽祖父になる、『武藤資頼(むとう すけより』(名前が違うのは、後ほど説明してますので、このまま進みますね!!)
実はこの方、武将なのです。そして九州に派遣されて大宰府の少弐*に任ぜられ、鎮西奉行*(ちんぜいぶぎょう)に就任。さらに、肥前、筑前、豊前、壱岐、対馬の守護となりました。

ココで、用語の説明
1.大宰府の少弐職
おおまかに仕組を説明からしますと・・・
大宰府 (だざいふ)
 西海道の9国2島(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅、壱岐、対馬<現在の九州・壱岐・対馬>)を管理し、大陸との外交、国防をつかさどる役所がありました。
(「太宰府」→これは太宰府天満宮を表しています。『大』または『太』という漢字の違いで、意味が異なるのです!!)

大宰府の役所の中には、次のような役職がありました。
☆大宰帥 (だざいのそち)
 大宰府の長官。親王職。親王は任地には赴かず、実務は大弐(次官)が執り行ってました。

☆大宰権帥 (だざいのごんのそち)
 納言以上が任ぜられた。あの有名な「菅原道真」「藤原伊周」等、上級貴族の左遷職でもあります。この場合、官名のみです。

ポイント!!大宰帥も代理の大宰権帥(だざいのごんのそち)も,左遷の意味で任ぜられたとき以外は赴任しなくなり,次官の大弐(だいに)・少弐に実権が移るのです。

☆大宰大弐 (だざいのだいに)
 大宰府の次官。(親王が大宰帥に任ぜられる事が慣習化すると、実質的長官としての役割を果たした。)

☆大宰少弐 (だざいのしょうに)
 大宰府の次官で、大弐の下。大弐の職務を補佐した。(本来この役職は、公家*(くげ)の官職なのです。)

公家(くげ)
 日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。
↓↓↓このような姿の方
 

鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)
 鎌倉幕府において、鎮西(九州)の御家人*(ごけにん)の指揮統制を行った職である。鎮西守護(ちんぜいしゅご)とも呼ばれます。

御家人(ごけにん)
 将軍と主従関係で結ばれた武士。
↓↓↓有名な「蒙古襲来絵詞」 の一部
 

ということは、少弐資時(しょうに すけとき)の曾じいちゃんである、武藤資頼(むとう すけより)は、武将の身分だったのに、公家の官職である大宰少弐に初めて任ぜられたということになるのです。(すごい(@ ̄□ ̄@;)!!)

それ以降、大宰少弐職は、武藤資頼(むとう すけより)の子資能(すけよし)に継承され、以降は世襲となります。これが少弐姓の由来である。

そして、下の略図が、少弐家始まりの武藤資頼(むとう すけより)から、蒙古襲来時に活躍された方をピックアップしました。

数字は、宗家。壱岐に関連する登場人物のみまとめています。

ということで、ツアーで回ったところを紹介したいと思いますが、、、、
だいぶ、長くなりましたので、次回は写真を多めに見やすく『少弐公園・壱岐神社』 を紹介したいと思います。

おたのしみにぃ~

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日帰りモニターツアー~元寇史跡めぐり part2~

2016-02-23 08:50:00 | 学問


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前回紹介した、元寇ゆかりの地は、、、下の2つ。
クレヨン数字(1) デコメ絵文字


元寇襲来時に隠れていた穴!!

クレヨン数字(2) デコメ絵文字


文永の役に、元軍が上陸した海岸!!

前回のブログはコチラ!!


さて、本日も元寇ゆかりの地を回りましょう!!
地図をご覧ください。

 

クレヨン数字(3) デコメ絵文字


新城(しんじょう)神社は、壱岐の守護代・平景隆(たいらの かげたか)の本陣であった樋詰(ひずめ)城跡にあります。
城と言っても、大きさは“”程度のものであっ
たそうです。
神殿は明治19年に造営し、平景隆をはじめ、元寇で殉難
した将兵諸神(しょうへいしょしん)を安置しています。


さて、歴史を見てみると・・・
文永11年(1274年)10月14日、対馬で守護代・宗助国(そう すけくに)が80騎で元軍と応戦するも、元軍に敗れます。
そして翌日の15日、元軍は、壱岐の北西海岸から上陸しました
壱岐では守護代・平景隆が100余騎を率いて湯の本、本宮方面
まで出向いて戦いましたが、撤退を余儀なくされ樋詰(ひずめ)城まで退却。
↓↓↓一族もろとも15日に自刃したと伝えられています。

平景隆が切腹の時、家来の宗三朗(むねざぶろう)と自分の娘の姫御前(ひめごじょう)に、元軍襲来壱岐の現状を太宰府に知らせなさいという命令を出してます。
命令を受けた2人は、大宰府に向かいますが、そ
の途中で、元軍の放った毒矢が、姫御前にあたり、死ぬまぎわを見せたくない姫は自害しました。
(今回、ツアーで回ってはいませんが、姫御前の死を憐れんで、里人が塚を造った史跡“姫御前塚”もあります。)
家来の宗三朗は、一人太宰府に現状を伝えに行きました。

(平景隆墓所前で、地元ガイド:中山さんのお話を聞き入るツアー参加者の皆さん♪)

ココで、ちょっと疑問!!
なぜ「太宰府?!」なのかというと・・・
太宰府は当時の外国勢力の防波堤としての役割があり、外国人の使節なども、ほとんどが太宰府で止められていました。
外国から何か襲撃があれば太宰府が対応し、経過は太宰府から中央に報告が行きます。
なので、元軍襲来の際、報告するために太宰府に行ったのですねっ!!


平景隆墓所を後にして、歩いて次の目的地、『千人塚・文永の役跡』に向かいます。





もうすぐですよ!!


文永の役の古戦場に到着!!



大きな石碑がたっていますが、これは、元寇で犠牲になった人々の冥福を祈るために造られた千人塚です。この一帯は最後の激戦地であったとみられてます。
千人塚の中央に元寇殉国忠魂塔が建ち、左脇には観音像、右脇に本来の千人塚の標石である自然石が2基あります。

また、左脇には観音像は、おっぱいを出して、赤ちゃんに飲ませている隠れキリシタンの信仰の跡とも言われています。

(普通の人が見たら、観音像に見えるようにしてあるようです。)

案内看板もあり、元寇の悲惨さを忍ぶことができます。
 

はぁ~今回も長くなりましたので、
ここまで!!

次回も続きをお楽しみに~ 

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日帰りモニターツアー~元寇史跡めぐり part1~

2016-02-19 08:50:00 | 学問


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前回、元寇についての歴史をかる~く振り返ったかと思います。
知ってる方も、知らない方も、忘れた方も!!
前回のブログをご覧ください(*´艸`*)

ジェットフォイルでの船旅は、あっという間でした!!
壱岐に到着!!
主催である壱岐市観光連盟の方々が、港までお出迎え♪からスタート

ツアー参加者も、船を降りて続々と集まってきてます。

福岡の空模様はあんなに悪かったのに・・・

壱岐到着後は、青空が!!(テンション上がりますねぇ)

そして、ツアー開始前に最初の思い出づくり☆彡
参加者全員で【集合写真】を撮りました

よーく見ると、いろんな方向に視線が行ってますが…複数のカメラが多方面から狙っていたので・・・どこ向いていいかわかりませんでした(;´・ω・)

さぁっ!!バスに乗り込みます

よろしくお願いします☆彡

みんな揃ったところで、しゅっぱーつ♪行ってきまーす

少し、バスが走ったところで、、、
壱岐のことを知り尽くしているプロフェッショナル、『壱岐 島おこし応援隊“チーム防人(さきもり)”代表者の中山さんの紹介があり、ガイドとして、元寇ゆかりの地を案内して下さいます。

席に着くと、工程表と番号が記載された地図をもらいました。
工程表には、史跡名称はもちろん、関連のあるチェックポイントも記載!!もちろん車窓から見えるポイントものってます。優しい~~(*''▽'')初めての人にもわかり易い配慮に感激です。 

地図を見ると、壱岐を【ぐるっと一周】してるんです!!

今までに、沢山の方を案内されたんでしょうね。お話が上手♪
印象的なお話として、「壱岐は、福岡市北区壱岐と紹介してます。福岡には北区という地域は無いのですが((笑))」
など、ところどころに、面白いお話をされるので、テンション上がりっぱなしです。

楽しくお話を聞いていると、最初の史跡スポットに到着。
バスを降りて、向かいますよ~。





当時生き残った人が隠れてた穴です。このような隠れ穴がたくさん点在しているそうです。

この隠れ穴は、壱岐では一番大きな穴で、高さ2m・幅3m・奥行5m!!かなり深いんだなという印象を受けました。

隠れている人の中には、赤ん坊を抱えている人もいて、赤ん坊の泣き声が敵に聞こえないよう、きつく口を押えすぎて窒息死したというお話も聞きました。

他にも・・・
島民が殺された理由として、
元寇は、「元」という国だけでなく、朝鮮の高麗(こうらい)軍も多くいたため、高麗軍の士気を高めるという目的での虐殺もあったかもしれないとのことです。

最終的に生き残った壱岐島民は、63~65名(少なすぎます(´;ω;`)ウゥゥ)。また、3000頭という牛が食べつくされたそうです。
文永の役では、200名の少年少女が奴隷として連れ帰られ、戦い方は、偵察も兼ねていたそうです。
弘安の役では、700人の軍隊が入ってきてそうですが、この時は、日本軍の反撃にあってます。元軍は、壱岐を捨てて、平戸に逃げたとのこと!!
文永の役と弘安の役では戦い方が違うと、お話を聞いて初めて知りました。


ツアー参加者の方も、かなり勉強をされていらっしゃる方も多く、たくさんの質問もありました。
(私は、そのガイドさんの説明を聞いて驚くばかりでした(;´・ω・))



壱岐には大きい湾が5つある。そのため、島全体が「“雪”の結晶」のようだとも言われてもいます。
そのうちの1つである湯ノ本湾!!この湾には、小さい島がたくさんあります。

(↑↑↑湯ノ本湾です)

元軍の兵力4万人。軍船900隻。その内訳は、大きい船が300隻、中くらいの上陸用の船が300隻、食糧等を積んでいる船が300隻です。
(ちょっとした、大移動ですよね!!!)
文永の役の時に元軍が上陸した場所が、ここ!!【浦海海岸】なのです。対馬から一番近い湾なんですって!!!

(↑↑↑浦海海岸です。)

上陸跡地が分る史跡があります。
当時の記録によると、10月14日午前4時頃、2隻の船で400人くらいが上陸したそうです。

と、まだまだツアーは続きますが、、、
長くなりますので、本日はここまで☆彡
続きは、次回♪お楽しみにぃ

 

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