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日帰りモニターツアー~元寇史跡めぐり part3~

2016-03-01 08:50:00 | 学問


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前回は、壱岐の守護代少弐氏について、簡単に仕事内容と少弐氏の略図を紹介しました!!
今回は、少弐公園~壱岐神社を写真で紹介する前に・・・守護代少弐家の各人物像を簡単に紹介しますね!!

1.武藤資頼(すけより)
1196年、筑前守護・大宰少弐に任じ、豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬を統括。これ以降、子孫世襲し、少弐を氏(姓)として室町幕府の末代まで及ぶ。

2.資能(すけよし)
弘安の役に出陣!!重傷を負って博多へ護送後、弘安4年7月18日死亡。70~80代の老将とはいえ、戦場に臨んだ理由として、(a.)北九州一帯の守護職に就いていたことによる名誉と責任。(b.)孫である「資時」の弔い合戦と思っていたからだとも言われている。

3.経資(つねすけ)
弘安の役の大将。総司令官として九州の守護たち各司令官を束ねて、連合軍として船団を率いていた。

4.景資(かげすけ)<資時の叔父>
文永11年10月20日、上陸を開始する元軍を、日本の総大将として迎え撃つ。

5.資時(すけとき)
文永11年10月20日、叔父の景資(かげすけ)が総大将をした文永の役が初陣。弘安4年(19歳)の時、壱岐の守護代となり、居城は、瀬戸浦の船匿城(ふなかくしじょう)であったと伝えられている。弘安の役、壱岐で壮烈な戦死をとげた。

この像は、芦辺港のフェリー乗り場、正面玄関前にて、見ることができます。
≪以上、参考:山口博千氏のHP「壱岐めぐり」≫


さて、前置きがかなり長くなりましたが!!以上をふまえて、少弐公園をまわりま~す。
↓地図をご覧ください!!

黄色の線で示してますが、“start→①→②→③→goal”の順番で巡ってます。

スタート地点の駐車場の風景です。


さぁ~次は①の少弐資時公墳墓へ行きます。







↑↑↑少弐資時公墳墓です。


続いて、②の展望台・のろし台へ行きます。




↑↑↑道中、瀬戸浦が一望できます。


展望台とのろし台なのですが・・・いたずらっ子がいたらしく・・・こんな、忘れ物が(;^ω^)

碇石(いかりいし)

元の軍船に使われていたといわれる碇石です。近くの海底から引き揚げられたそうです。
壱岐神社の後に行ったのですが、芦辺浦にある千人堂にも碇石があります。



この千人堂では、碇石は御神体として信仰の対象とされています。地上に出ている部分は1m、地中に2m埋まっているそうです。


最後に③の壱岐神社です。



↓↓↓見えてきました




中には、元寇襲来の絵や少弐資時の絵などが飾られています。







↓↓↓ここにも、碇石がありました

文永の役・弘安の役で守護代として、戦い抜いた少弐家3代の強い責任感・生き様・・・感動しました!!知らないことだらけで、「ごめんなさい」と謝りたくもなりました。
そんな気分の後は、お腹も満足に~ということで昼食に行ったのですが、それは、最後にしましょう!!
次回は、午後に回った箇所を紹介します。

お楽しみに~

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