つれづれなるままに

日々の思いついたことやエッセイを綴る

第50回東北地区躰道優勝大会(その1)

2024年09月19日 | 躰道
 第50回東北地区躰道優勝大会が宮城県気仙沼市総合体育館(ケーウェーブ)で開催されましたので、観覧に行ってきました。

 開会式の時に祝辞を述べさせてもらいました。
 「この東北地区大会が開催された経緯についてお話をします。私が仙台に赴任していた時に東北各県の躰道指導者たちと交流を重ねていました。昭和47年、東京から躰道創始者である祝嶺正献最高師範を仙台にお迎えして、東北の各県指導者たちにも集まってもらい懇談会が開かれ、その中で東北地区大会の開催することが決まりました。
 翌年の昭和48年に福島市で第1回東北地区躰道優勝大会が開催されました。第2回は青森県弘前市、第3回は宮城県石巻市で開催されました。その後毎年各県が持ち回りで東北地区大会が開催されてきて今回が第50回記念大会となりました。
 その間、東北地区で指導的立場である志摩制基師範や工藤善己師範の指揮により大会開催実績を積み重ねてきました。その大きな要因は、躰道の正統な理念と実技を継続してきた真摯な東北気質の賜物であります。東北人の素晴らしさと逞しさが垣間見えます。益々精進をして躰道の発展を祈念しております」
 東北地区大会の初期の頃の模様と50回大会まで継続されてきた努力について祝辞を送りました。

 開会式では、勝沼栄明大会会長、日本武藝躰道三代宗家祝嶺正献先生、小野寺五典衆議院議員、菅原茂気仙沼市長たちが来席されてご挨拶がありました。

 選手宣誓は木村貴希選手(宮城県)が行い、躰道五条訓は小松優選手の指揮で選手全員が唱和しました。その後、競技は開始していきました。

 
第50回東北地区躰道優勝大会横断幕  躰道紋章と創始者祝嶺正献先生
 
第50回東北地区記念プログラム表紙  各種目の入賞者のメダル
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群林堂の「豆大福」

2024年09月18日 | 店舗

 群林堂の「豆大福」

 護国寺前の音羽通りを行くと群林堂があります。

 「豆大福」が美味しいとの評判のお店です。予約不可で行列しても食べたい逸品と話題の豆大福。
 向かい側には出版社の講談社があります。作家の松本清張や三島由紀夫も好んで食べていたという。

 開店は午前9時30分。開店まで待っていました。お店は予定の10分前に暖簾を出してお店に客を招き入れていました。


 何時も来るときは売れ切りや定休日で購入することが出来なかったことが多かったので、今朝はラッキーであると開店早々「豆大福」を購入してすぐに家に帰る。

    群林堂の「豆大福」は購入したその日に食べてほしいとのこと。

 レトロな包み紙がとてもいい。豆大福は直径6センチほどで、一個の中に赤えんどう豆が30個くらい入っていて歯触りがとても良い。大福の中の餡子が美味しくて絶品です。

 希望していた群林堂の「豆大福」を食することが出来て良かったです。


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(思い出)気仙沼の小松 武さん

2024年09月16日 | 友人
 東日本大震災から10年となるのにあたり、天皇皇后両陛下は、宮城県の被災地の復興状況をオンラインで視察し、被災した人たちと懇談されました。

 気仙沼大島で自宅やカキの養殖場(ヤマヨ水産)が被災し、その後、養殖を再開させた小松武さん(45)は「『体に気をつけて仕事に励んでください』とおことばをいただき、とても感激しました。今回の経験を糧に、よりよい漁業やまちづくりに励んでいきたいです」と話していました。

 東日本大震災大津波で被災をした小松武さん一家。牡蠣養殖いかだは流され、牡蠣処理工場と自宅が全壊してしまいました。その後、避難所、仮設住宅と困難な生活をしている中、常に前向きに活動をして牡蠣生産に力を注いできました。今ではオーナー制度を立ち上げて順調に進んでおります。

 小松武・万里子夫妻は東京国際大学躰道部の出身で、今では躰道の素晴らしい指導者となり、地元の大島小学校で子どもたちに指導をしております。各種大会に出場する選手たちは入賞実績を積み重ねております。

 娘である小松優選手は全国少年少女躰道優勝大会で優勝しました。小松武さん一家は、先日のNHKテレビ「50ボイス」でも、優さんが出演をして「躰道」を紹介しておりました。
(2021.3.20)

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浅草寺仲見世

2024年09月15日 | 池さんぽ

 浅草寺参道の仲見世

 「仲見世」は浅草寺の表参道である。雷門から宝蔵門まで長さ約250mにわたって、参道の両側に朱塗りの店舗が並ぶ。日本で最も古い商店街のひとつであり、いつも活気に溢れている。

 仲見世という名は、浅草広小路(現在の雷門通り)あたりに並ぶ店と浅草寺観音堂前に並ぶ店との中間、つまり「中店」ということからこの名で呼ばれるようになったともいわれている。

 流石に東京の代表する観光地・浅草です。仲見世には玩具、菓子、着物、土産物などを観光客の好みのものを販売するお店が多くあります。

 宝蔵門寄りの店は20軒の水茶屋があったことから俗に「二十軒茶屋」といい、美人の看板娘を置いて人気を集めたようです。看板娘に惚れ込んで朝から晩まで茶を飲み続ける者もおり、川柳に「おおたわけ 茶店で腹を 悪くする」と詠まれた。とのエピソードがあります。

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日蓮聖人と池上本門寺

2024年09月14日 | 歴史

 日蓮聖人像

 池上本門寺は、日蓮聖人が今から約七百三十数年前の弘安5年(1282)10月13日、61歳で入滅(臨終)された霊跡です。

 日蓮聖人は、弘安5年9月8日9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かわれ、その途中、武蔵国池上(現在の東京都大田区池上)の郷主・池上宗仲公の館で亡くなられました。

 長栄山本門寺という名前の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けられたものです。そして大檀越の池上宗仲公が、日蓮聖人御入滅の後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進され、お寺の礎が築かれましたので、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。

 毎年10月11日・12日・13日の三日間に亘って、日蓮聖人の遺徳を偲ぶ「お会式法要」が行われ、殊にお逮夜に当たる12日の夜は、30万人に及ぶ参詣者で賑わいます。

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常盤橋について

2024年09月13日 | 名所
 常盤橋(ときわばし)は、日本銀行本店のすぐ傍にあり、東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川にかかる橋です。常盤橋は2つあり、江戸城常盤橋門に通じる歩行者専用の石橋と関東大震災後の復興計画で建設された道路橋がある。

 この2つの橋は共に2連アーチの構造を持ち70mほど離れて架けられている。区別するため石橋の方の「磐」の字は「般」に「石」が使われている。
 明治になって、常磐橋は石造のアーチ橋に架け替えられたものの、手狭であったことから、関東大震災後の復興計画で幅広の常盤橋が少し離れたところに道路橋として建設された。常盤橋門は明治初期に解体され石垣のみが残っています。門の周囲は常盤橋公園となっており大きな樹木に囲まれたところに渋沢栄一の銅像が建っています。

 旧橋は東日本大震災の影響による損傷で通行禁止となっていたが、2013年より修復工事が行われ、約7年かけ東京都内で最古の石橋の復旧工事が完成して2021年5月10日から通行を再開した。2007年常磐橋・常盤橋はともに千代田区景観まちづくり重要物件に指定されました。
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懐かしい写真

2024年09月12日 | 躰道
 祝嶺正献最高師範を囲んでの懐かしい写真(足柄山)

 躰道の仲間である三浦照雄さんの家を訪れた時に懐かしい写真を見せてもらいました。

 祝嶺正献最高師範が足柄山で執筆活動をしていた時の記念写真。昭和46年9月のこと。

 ショーボンド建設の仙台支店に赴任していた時代。そこで宮城県で躰道を指導している人や会員たちとの交流ができました。仙台では、東北大学と東北学院大学に躰道部を創設して指導を担当していました。週末は、境一成先生の実家である石巻市まで行って日和山道場で指導を担当していました。そこに石巻道場の指導者として三浦照雄さんと和田さんがいました。

 2人を連れて車を飛ばして足柄山へ行きました。足柄山の祝嶺正献最高師範のところには、境一成先生と佐藤先輩(福島医科大学躰道部OB)、そして東京国際大学躰道部の後輩である小野寺一善君が訪れていました。昼食をした後に外へ出た時に撮った記念写真であります。

 左から和田、三浦照雄、小野寺一善、祝嶺正献最高師範、境一成先生、佐藤先輩、そして自分が写っています。とても懐かしい写真であります。


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池上本門寺「松濤園」

2024年09月11日 | 池さんぽ

 池上本門寺名園「松濤園」

 池上本門寺奥庭の「松濤園」が期間限定で公開されていたので見学に行ってきました。
 「松濤園」は、昭和11年に東京都旧跡に指定された約13000平方メートルの池泉回遊式庭園です。

 桂離宮の建築と造園で名高い小堀遠州により作庭されたものであります。本坊客殿より渓谷美を俯瞰できるように作られたものです。茶室「鈍庵」は栗材を使った建物です。

 慶応4(1868年)年3月、新政府軍の参謀西郷隆盛と徳川軍の勝海舟が、江戸城開城の交渉を行った場所でもあり、庭園内には会見碑がありました。
 歴史を感じながら、東京都内とは思えない緑豊かな庭園を歩いてみました。

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寅さん記念館

2024年09月10日 | 芸能

 寅さん記念館

 映画「男はつらいよ」の世界を存分に楽しみことができる寅さん記念館。入口から笑いを誘います。寅さん自身が館名の看板文字を取り付け中であり、真下の床面には雪駄の片方が転がっています。

 中に入るとくるまやだんご屋のセット。これは実際の撮影に使用されていた「くるまや」のセットを松竹撮影所から移設したもの。寅さんが店先で居眠りをしています。映画の中に入り込んだ気分が味わえます。

 その他にタコ社長の朝日印刷所、名場面集では寅さんのマドンナたち、寅さんが愛した鈍行列車の座席の車窓には、啖呵売の名場面が再現されています。吹き抜けの中庭には、全ロケ地を焼き付けタイルで地図化してあります。

 引き続き山田洋次ミュージアムでは、「男はつらいよ」以外の映画作品のほか、山田洋次監督の創作活動の資料が展示されています。中央には映画づくりのカメラや照明、録音・編集機材などが披露されています。映画ファンならたまらないコーナーが網羅されています。


 
 

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カーブの山の手線

2024年09月09日 | 豊島区

 カーブしている山手線

 山手線の池袋から大塚へ向かう時に池袋跨線橋のところから大きくカーブしている。昔、山手線の線路を敷設する時、すでに運行をしていた目白駅から巣鴨駅の直線を計画したが、その中央部に東京拘置所(現・サンシャインシティ)があったために新線計画を断念して、新たに池袋駅と大塚駅を新設するようになった。と豊島区立郷土資料館の担当者から聴いたことがありました。
 

 そのために目白から巣鴨に線路を敷設するときに池袋と大塚の間は大きくカーブを描かなければならなかった。その名残が今でも見れます。池袋跨線橋から健康プラザとしまの横を通り堀之内橋のところまでは大きくカーブをしています。
 

 もし、直接に目白~巣鴨間に線路が出来ていたならば、今のような池袋と大塚の街の発展はなかったであろう。昔の駅は街道と交差しているところが多い。目白駅は目白通り、巣鴨駅は白山通りです。しかし、池袋駅と交差する街道はありません。昔のことを知ると面白い事実が出てきます。

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マジック教室(9月)

2024年09月08日 | マジック
 9月のマジック教室は7名が参加しました。

 最初に10月27日(日)に開催される「TAMCマジック発表会」を観覧する人に入場券が配布されました。

 トランプカードのマジックでは、①嘘の切り方、②27枚カード、③12枚カード、④黒の探偵コンビ、⑤魔法のじゅうたんなどを復習をしながら研修をしていきました。

 指のマジックは、最初は「指のギロチン」を試みました。穴の中に指を入れて上部から刃物を落としていくが、指は切れずに下の穴に通したものだけが切断していくもの。指を入れる人はおっかなびっくりで緊張をしていました。少しユーモアのある作品です。
 紐ロープを活用して試みます。各指に絡ませていきすべてが絡まったところで親指の紐を外してから小指のところにある紐をずらしていくとすべての指に絡まった紐が解けていくもの。
 輪ゴム2本を両手にかけて、あやとりのようにして各指で支えておき、一番上の輪ゴムに紙をひっかけて指の輪ゴムを緩めていくと紙は上から下へと移動していく作品。

 参加された皆さんはとても熱心にマジック作品を研修していました。

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「駒形どぜう」について

2024年09月07日 | 飲食店

 駒形「どぜう」

◆200余年の歴史
 「駒形どぜう」の創業は1801年。徳川11代将軍、家斉公の時代です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。
 当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートのメインストリートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客様で繁盛したと言います。

 初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁に加え、二代目助七がくじら鍋を売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド『江戸名物酒飯手引草』には、当店の名が記されております。

 やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災、第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。しかし多くのお客様のご支援と先代の努力もあって、江戸の味と建物は現在の六代目へと引き継がれております。

◆のれんの由来
 仮名遣いでは「どじょう」。もともとは「どぢやう」もしくは「どじやう」と書くのが正しい表記です。それを「どぜう」としたのは初代越後屋助七の発案です。
 文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらったのです。これが評判を呼んで店は繁盛。
江戸末期には他の店も真似て、看板を「どぜう」に書き換えたといいます。
200余年の歴史を刻む、店の大事なのれんです。


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雑司が谷旧宣教師館

2024年09月06日 | 豊島区

 雑司が谷旧宣教師館

 豊島区の雑司が谷霊園の近くに東京都指定有形文化財「雑司が谷旧宣教師館」があります。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、明治期の宣教師館として大変貴重なものです。
 

 雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたもので、昭和16年に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。

 昭和62年、豊島区の登録有形文化財として登録し、その後、特に重要な文化財として保存、平成4年に指定文化財となりました。その後、平成11年に、東京都指定有形文化財になりました。館内には関連資料等を展示し一般公開を行なっています。洋風住宅を見学するには相応しいところです。

(余談)映画「墨東綺譚」(新藤兼人監督 1992年)では、作家である主人公の住宅として旧宣教師館が撮影された場所でもあります。

 

 

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名古屋城天守閣

2024年09月05日 | 名所
    名古屋城天守閣

    名古屋城は徳川家康が西国大名20家(加藤清正・福島正則ら)に土木工事を命じ、天守閣や櫓の建築工事は小堀遠州・中井正清ら命じ、1612年(慶長17年)に完成しました。

    天守閣の屋根に飾られている「金の鯱」は、空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の創建時の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るもので、貼られた金の量は慶長大判で1940枚と言われております。

    名古屋城の中に高くそびえる天守閣は荘厳な趣を感じさせてくれます。その後、向かいにあるウエスティン名古屋キャッスルホテルの最上階のレストランから天守閣を景観を楽しみました。

 日本のお城は天守閣があるとその重みを感じます。江戸城にも天守閣と本丸御殿の復元を願っております。


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深川不動堂について

2024年09月04日 | 池さんぽ
 深川不動堂本堂

 門前仲町を散歩しました。
 深川不動堂は、 新しい本堂が開創310年記念事業として建立されて、参拝見学が無料開放されております。おねがい不動尊、大日如来蓮池図天井画、祈りの回廊、阿字橋などが見学できます。

 成田山 東京別院 深川不動堂は、東京都江東区富岡にある真言宗智山派成田山新勝寺の東京別院。通称は深川不動尊、深川不動堂。

 江戸時代のはじめ、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まりました。
 これを受けて、元禄16年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳」(現代風にいえば「秘仏特別公開」)が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりであります。
 江戸における成田不動の出開帳は安政3年(1856年)まで、江戸時代を通じて12回行われたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となっていました。

 永代寺は明治維新後、神仏分離令により廃寺となり、旧境内は深川公園となりましたが、しかし不動尊信仰は止むことがなく、明治11年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することが東京府により認められた。境内地は、深川公園の一部を永久かつ無償で借用することが認められたものであります。明治14年(1881年)に本堂が完成。

 その後本堂は関東大震災・東京大空襲と二度にわたって焼失したが、本尊は焼失を免れました。永代寺は門前にあった塔頭・吉祥院が明治29年(1896年)に再興され、名跡を継いものです。

 なお、地名「門前仲町」は「永代寺の門前町」という意味であります。


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