ホープメール

永遠の書であるバイブルをじっくり味わいます

東の門

2024-10-01 | Weblog

 芸術の秋、読書の秋、食欲の秋など、様々な形容する言葉がありますが、みなさんはどのような秋を楽しんでいるでしょうか?

 「主は私に言われた。『この門は閉じたまま、開けてはならない。誰もここから入ってはならない。イスラエルの神、主がここから入られたからである。それゆえ、これは閉じたままにしておきなさい。』」エゼキエル44:2

 聖書を読む時、不思議な感覚を抱くことはないでしょうか?聖書は古い書物ではなく、永遠の書物であると言われています。神はエゼキエルに東の門を閉じたままにしておけと命じられました。ここは黄金門と言われ、二千年前、イエス様が子ロバに乗って入城された門でもありました。今(2024年)は固く閉じられ、都までの道はなく谷であり墓地になっています。しかし聖書預言によると、やがて東の門は開かれ、再臨のイエス様が先頭に立ち、聖徒たちを引き連れて入城されるとあります。 真嗣


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清めのいけにえ

2024-09-17 | Weblog

 ユーミンの「やがて雲はちぎれながら、空色を深め」という「残暑」の歌詞は素晴らしい表現ですね。

 「これらの日々が終わると、八日目以降、祭司たちはあなたがたの焼き尽くすいけにえと会食のいけにえを祭壇の上に献げなければならない。そうすれば、私はあなたがたを受け入れるー主なる神の仰せ。」エゼキエル43:27

 神が私たちを受け入れてくれるための条件とは何でしょうか?祭司エゼキエルは神殿が回復してゆく幻を見ました。回復には段階があります。まず祭司自身が清められること、その後、祭壇が清められ、ようやく、神は、「私はあなたがたを受け入れる」と語っておられます。受け入れの条件として、すでにイエス様が神の小羊として血を流し、清めは完成しました。すべて整えられており、私たちは神の御前に大胆に近づくことができるのです。 真嗣


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聖と俗

2024-09-12 | Weblog

 9月中旬になっても、30℃越えの猛暑が続いています。夏好きですが、そろそろ秋になって欲しいです。

 「彼は四方を測ったが、外壁は全体を囲んでおり、その長さは五百アンマ、幅も五百アンマであった。それは、聖なるものを俗なるものから区別するためであった。」エゼキエル42:20

 神は聖と俗を分けることを祭司たちにお求めになりました。以前、東南アジアにある国で、結婚式に参加したことがあります。時間指定はあいまいであり、席ごとでマージャンが始めり、参列者は思い思いに楽しんでいます。しかし主役があってこその結婚式であり、神聖さを感じる場面がありました。教会は誰にでも開かれており、気軽に礼拝に参加できます。けれども、神の御前に集っていると意識することを大切にしています。人と会う楽しさがあっても、主役の花婿(イエス様)がいなければ、本当の喜びにならないからです。 真嗣


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ケルビムとナツメヤシ

2024-09-03 | Weblog

 昨日からジムに通うことになりました。今朝は筋肉痛で、体がだるいです。

 床から入り口の鴨居の上まで、神殿の壁にはケルビムとなつめやしが刻まれていた。」エゼキエル41:20

 エゼキエルは幻の中で、神によって回復された神殿内部を詳細に見ることになりました。一番神聖な場所の壁には「ケルビム」と「なつめやし」が彫刻されていました。ケルビムは天使であり、神の聖さ、臨在を表わします。なつめやしは砂漠のオアシスに生える木であり、潤い、いのち、安らぎを象徴しています。ところで、クリスチャンは「生ける神の神殿」であると言われています。(Ⅱコリ6:16)人との出会いの中で、神のいのち、安らぎ、聖さを表わしてゆきたいものです。真嗣


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麻縄と測り竿

2024-08-29 | Weblog

 大型台風が雲仙市にあり、列島を横断する予定だと言うことです。お気を付け下さい。

 「主がわたしをそこへ連れて行くと、その姿が青銅のように輝いている一人の人が門の傍らに立っており、手には麻縄と測り竿を持っていた。」エゼキエル40:3

 ユダヤ国家は滅亡し、主だった人たちがバビロンに連れてゆかれ24年経っていました。エゼキエルとしては、廃墟となった都、瓦礫と化した神殿を見ても、失望と落胆しかなく、何の希望の光も見出すことができない心境でした。ところが、彼は幻の中で、天使が、豪華で整えられた神殿を麻縄と測り竿を使って計測しているのを見ていました。人間の視点ではなく、神の測り竿を基準としてゆく時、未来に希望を見出すことができるのです。真嗣


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聖なる名

2024-08-23 | Weblog

 先週、妻の実家関西に帰省しました。長距離ドライブで少々疲れが残っています。

 「私はわが聖なる名を、わが民イスラエルの中に知らせ、二度とわが聖なる名を汚させない。こうして、諸国民は私が主であり、イスラエルの中の聖なる者であることを知るようになる。」エゼキエル39:7

 聖書ほど、人類に影響を与えている書物はありません。その聖書世界の中心はイスラエルであり、現代においてもイスラエルについて多くの意見が交わされる国は他にありません。イスラエルを正しく読み解くことで、世界の動向を知ることができると言われています。さらに言うなら、神はこの国を通して、「聖なる名を知らせる」とあります。世界の動向を知り、神の存在を知り、神が聖であることを知ることができるのです。


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ゴグよ

2024-08-08 | Weblog

 昨晩、雷鳴がありました。「いかずち鳴り渡る時、まことの御神を思う」という聖歌が思い起こされました。

 あなたはわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。それは終わりの日に起こる。私はあなたをわが地に連れて来る。ゴグよ、それは、私が諸国民の目の前で、あなたを通して自らが聖なる者であることを示すとき、彼らが私を知るようになるためである。エゼキエル38:16

 昨今、エゼキエル38章ほど注目され、研究されている章はないと思われます。北の果ての国からゴクと呼ばれる総首長が平和に安んじていたイスラエルに同盟軍と共に襲い掛かります。しかし、大地震、疫病、大雨と雹、火と硫黄によって滅びるという預言です。聖書が神の言葉であるなら、預言成就の確立は百パーセントです。この出来事を通して、神が「偉大さと聖を多くの国々の前に示す」(23)とあります。 真嗣


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枯れた骨

2024-08-06 | Weblog

 家から職場まで電動自転車で通っていますが、さらに筋トレ含めた運動をしなければお腹の脂肪は落ちないようです。

  主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」エゼキエル37:9

 信仰することにどんな意味があるのでしょうか?この地上の生活に祝福があることだけを求めて、願いが叶えられても、やがて誰もが肉体の死を迎えます。エゼキエルは、幻の中で、枯れた骨が集まって、繋がり、そこに筋ができ、皮膚で覆われ、さらに霊によって立ち上がるという驚くべき光景を見ました。ただ神によって息を吹き入れられることによって、私たちは滅び、絶望では終わらないと信じて、喜ぶことができるのです。 真嗣


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聞け、イスラエル

2024-07-30 | Weblog

 先日、車を運転中、クーラーを最強にしても涼しくなりませんでした。外気温を見ると40℃になっていました。

「それゆえ、イスラエルの山々よ、主なる神の言葉を聞け。主なる神は、山と丘、谷と低地、荒れ果てた廃墟、また周囲の他の国々から略奪され侮られ、捨てられた町々に向かってこう言われる。」エゼキエル36:4 

 人から悪い噂話を立てられたり、直接的に侮辱されたりすることがありますか?イスラエルもまたそのような状況にあって苦しんでいました。しかしながら、イスラエルは、荒らされた廃墟を見、人々のあざけりの言葉を聞いて嘆くより、すべきことがあるとされています。主なる神の言葉に耳を傾けることです。回復を与える主権者なる神がおられることをバイブルは示しています。 真嗣


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しかしそこに主が

2024-01-11 | Weblog

 被災者の方々にお見舞い申し上げます。新年から心が暗くなるようなニュースばかりですが、じっくりと永遠の書バイブルを学んでゆきたいと思います。

 「それはお前が、『この二つの国、二つの土地はわたしのものになる。我々はそれを占領する』と言ったからである。しかしそこに、主がおられた。」エゼキエル35:10

 人間の罪深さはどのように表れるでしょうか?自分の物ではないのに、自分の物にしようとすることであると聖書は語ります。エドムは自分のものではないユダとイスラエルの二つの国を自分のものにしようとした時、「しかしそこに、主がおられた」とあります。盗人が空き家だと思って侵入してみると、そこに所有者が立っていたらどんなに驚くでしょう。人生における幸いは、持っているもので満足し、主に感謝を捧げることですね。 真嗣


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