京都の歴史は古く、大沢池付近から数万年前の旧石器が発見されておるのじゃが、大きく京都の歴史が動き出すのはやはり、「鳴くよ(794年)ウグイス平安京」の桓武天皇の平安遷都からであろうて。
平安遷都に関して、当時の最先端科学(?)であった風水の「四神相応」の考えに基づき都が定められたということが定説となっておる。
「四神相応」って何じゃ? 誰が考えて唱えはじめたのじゃ? と深く考えていくと話が混迷していきそうなので、「東西南北の四方を神で守られた土地」があるのだということを前提に話を進めていこう。
北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎という神々が配され、地形状のシンボルとして、北の玄武は大岩、南の朱雀は大池(湖)、東の青龍は大川、西の白虎は大道とされているのじゃ。
それらのシンボルを京都の地勢に照合すると、
北:玄武=船岡山
南:朱雀=巨椋池(おぐらいけ)(現存せず。昭和16年干拓)
東:青龍=鴨川
西:白虎=山陰道
と大方の書物には記されてあるのじゃが、異説もあってややこしい。
風水に造詣が深い作家の加門七海さんの文章を読んでおると、「白虎=木嶋大路(このしまおおじ)(現存せず)」と書かれてあるのじゃ。
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▼ 加門さん執筆の『京に張られた結界を探る』を収録。
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ワールド・ミステリー・ツアー13〈8〉京都篇 |
クリエーター情報なし | |
同朋舎 |
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加門さん曰く、現在、船岡山は、第六天魔王と自称し敗者である織田信長を祀る建勲神社(たけいさおじんじゃ)が建てられ、御霊を聖なるポイントで祀ることは聖山の意味を削ぐことになっておるという。
しかも、平成九年に竣工された四代目京都駅ビルのデザインが鏡貼りのため、北から流れてきた気を跳ね返してしまい、駅の南側にある京都の真の表玄関である羅城門跡や、門番的存在だった東寺と西寺跡の存在を無に等しくしてしまったのが、平安京の結界にとって致命的だと述べているのじゃ。
だがしかし、にわか風水師のオイラは考える。
京都駅と東寺、西寺跡の位置関係、羅城門跡との位置関係はどうなっておる?
かつて平安京の中心を貫くメインストリートだった朱雀大路は現在の千本通であり、千本通は京都駅の西にずれた位置を南北に走っているのじゃ。よって、駅ビルが気を跳ね返すことはなかろうに。
それより注目すべきは、北山から龍脈を通って千本通を流れてきた気は線路で分断され、梅小路の鉄道の三叉路で東京、大阪、山陰方面へ気が流れる仕組みになっておるように思うのじゃ。
それが明治時代、梅小路のあの場所に操車場を造った真の目的じゃろう。よーわからんけど。
まあ、とにもかくにも巨椋池がもう存在しておらんのじゃから、平安京の結界はとっくに崩壊しておることにかわりなかろうて。
ドメスティックな「京都の結界」のことよりも、昨今のニュースを見聞きしておると、なんだか「世界中の結界」が崩壊しつつあるように感じてしまうのじゃが……気にしすぎかの~。(+_+)
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