烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

素数の音楽

2005-12-29 12:25:47 | 本:自然科学

 『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ著、新潮社刊)を読む。 以前読んだ『素数に憑かれた人たち』(ジョン・ダービシャー著、日経BP社刊)が理系向けとするならば、こちらは文系向けのリーマン予想(「ゼータ関数の自明でない零点の実数部分はすべて1/2である」)をめぐるドキュメンタリーである。数式がほとんどでてこないので、リーマン予想が逆にイメージしにくくなっているが、この予想を証明しようとする数学者たちのドラマはより密に書き込まれている。 古代ギリシャのピタゴラスは、数が存在の根本要素と考えこの数が奏でる音楽(天球の音楽)を聞き取ろうとした。一見なにも秩序がないかのように振舞う素数の「音楽」をその中に聞き取ろうとする営みは、美しさが求められる数学の世界ならではと思う。 数が実在するのか否か、すなわち人間が存在しなくても数は存在するのかどうか・・・数学者は当然数は実在すると主張する。数が「実在」するってどんなことなんだろう。 結論はだせそうにないが、私が思うに「数が実在する」と直観する脳神経組織は実在するのだろう。「間違いなく実在する」という感覚には、単に知性的な認識だけではなくある感情が伴っている。これが純粋に経験的なものなのかどうかはよく分からないが、たとえば人の顔や声は、単なるものや音とは違い、私たちに「ありありとした」存在感をもたらす。相貌の失認やカプグラ妄想の例をみるとイメージの認識系と情動系の結合がそうした「ありあり」感をもたらしているようだ。私には分からないが、どうも優れた数学者は、数をありありと感じることができるようだ。 この「ありあり」感を伴うかどうかは、事物を愛情の対象とすることができるかどうかの分岐点ではなかろうか。「○○」を愛することができますかという問いの「○○」の中にいろいろな事物を代入してみる。「ピタゴラス」、「母親」、「りんご」、「メチルアルコール」、「世界」、「一般相対性理論」などなど。数学者は、この「○○」に「数」を代入したときに「イエス」と答える人たちなのだろう。