烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

リンさんの小さな子

2005-12-05 19:39:36 | 本:文学
『リンさんの小さな子』(フィリップ・クローデル著、高橋啓訳、みすず書房刊)を読む。
 この著者は、以前同社から出た『灰色の魂』を読んだときに初めて知り、その静謐な文章が気に入っていた。今回は書店でこの本を手に取ったときに前著とは大幅に違った作風であろうことは、容易に推測がついた。さて購入して読むかどうか。結局購入してみて正解であった。文章は簡潔にして明瞭だが、決して単調にはならず喚起するイメージはいちいち鮮明である。

 サン・ディウという名の孫娘をしっかりと抱いて異国の地に亡命してきたリンさんの心は固く閉じている。ちょうど密閉された箱の中にいて、周囲のにおいが全くわからないくらいに。偶然バルクさんという「外国人」と知り合う。言葉は理解できないにもかかわらず、言葉をかわすことによって知り合い、次第に心を開いていく。この場面を読むと、コミュニケーションとは言葉による情報伝達では全くないことがよく分かる。
 心が開いていくと香りが分かるようになる。そう窓を開くと外の世界の香りが入ってくるように。

 リンさんは息を吸う。目を閉じて、深々と吸い込む。やっぱり間違ってはいなかった。ここには香りがある、本物の香り、塩と空気と干物とタールと海藻と水の匂いがする。じつにいい匂いだ!

 ここで一気に警戒心の鎖が解き放たれ、リンさんは孫娘の服を少し脱がせて自分とバルクさんのあいだに座らせる。実に何気ない所作の描写なのだが物語の展開でここが実は最も劇的な転回点だと私は思う。ここからこのパラグラフの最後のところまで音読してほしい。泣けるのだ。バルクさんとリンさん、そして読者の心が一緒になれる。
 見返りを期待しない純粋な贈与(贈与とはそれが贈与だと分かった瞬間に純粋な贈与ではなくなる)というのがあるとすれば、それは言葉をかけることだとクローデルのお国の哲学者デリダが言っていたかしら。

 「こんにちは!」彼は叫ぶ、自分の人生そのものがこの単純な言葉にかかっていると言わんばかりに。

 単純な言葉を交わすことで心と心の交通ができるというメッセージを、これほど「単純な」言葉で構成された小説でしっかりと読み手の心に贈ることのできるクローデルという作者の力量に私は賞賛を惜しまない。