『漢文脈と近代日本』(斎藤希史著、NHKブックス)を読む。近世から近代への移行時期において漢文脈という文体がどのように変遷し、その文体が日本人の思考の姿とどう関係したかを考察している。漢文脈というのは、漢文そのものはもちろん、漢字仮名交じりの訓読文を含めたものまで含まれていることを意味している。
まず文体をたんなる表記に関わる表層的なものとしてではなく、思考の仕方を規定するもの、そして歴史の中で受け継がれる体系としても捉えることが重要である。ここでは文体を思考に関わる要素と機能に関わる要素として議論が展開される。
日本にはかつて複数の文体もしくは書記体系が存在し、(中略)漢文はその一つでした。何を書くか、その内容によって文体は自ずと定められたのです。文体を選択するということは、書かれるべき世界を選択するということだったのです。
素養としての漢文が強調されるのは、近世以降で、特に寛政の改革でとられた教学システムの基本が策定された時期以降であるという。武士階層は基礎学問として漢学を修めることが要求され、この基礎がないと天下国家のことを論ずることができなかったという(「経世の志は、儒家思想の伝播であると同時に、あるいはそれ以上に、天下国家について議論する文体によって支えられていたのです」)。士族階級が漢文脈による歴史意識を持つ上で、頼山陽の『日本外史』の影響が大きかったことが指摘され、これが明治維新になって漢文の訓読が政治性をもつ素地となったことが指摘されている。こうした摘は何気なく日本の歴史を読んでいると気づかずに通りすぎてしまうところである。
明治維新になり漢文そのものではなく、訓読文が機能面実用面に優れていることから、次第に訓読文が普通文として流通し、漢文は「支那」のローカルな文章だと見なされるようになったという。
近代以前は普遍として君臨していた漢文が、近代以降、東アジア世界のローカルな、あるいは遅れた普遍に過ぎないと見なされてしまえば、文体を支える精神などに用はなくなります。近世後期から徐々に確立された訓読文体という型は、漢字漢語の高い機能を保持しつつ、漢文の精神世界から離脱するための方舟となったのです。
明治時代になってから成立する近代文学が第三章で取り上げられる。ここでは言文一致体から見るのではなく、漢文脈から近代文学の成立を見るという視点がユニークである。
艶情を契機に出発した日本の近代文学が「恋愛」へとシフトしていく過程で北村透谷を生み、いわゆる浪漫主義を生むわけですが、これが脱=漢文脈。文学史の教科書だと、浪漫主義の後には自然主義が登場しますが、これが反=漢文脈です。文体的な遷移を見ても、自然主義は言文一致体にあたるわけです。教科書的な日本文学史では、文体としては言文一致体、文学思潮としては自然主義を中心として、明治から大正にかけての文学をそうした文体や思潮への発展として叙述することになるのですが、当時に即して言うなら、言文一致や自然主義は、あくまで漢文脈の外部として、それに回収されることを拒否して成立したものです。
最後になってようやく漱石が登場する。西洋をどう理解するかに終生悩んでいた漱石は、「餘裕のある」小説を目指したが、これは漢文脈における閑適に接続するものであるという。西洋文明に対抗する原理としての閑適を表現するものが漢詩である。この点と禅の問題についても指摘されているが、これは今後の課題といったところである。
同じ漢語を使った文章であっても、それを支えている書記システムの歴史のどこに位置づけられるかによってテキストの意味づけが異なってくるという見方での文学作品の解剖は面白かった。
本書の中で元田永孚によって起草された教育勅語のことが取り上げられていた。この中で「一旦緩急アレハ」という句は、国文法であれば未然形であるべきところを已然形で記載している誤りだと以前読んだことがあったが、近世後期の訓読では既定条件と仮定条件とを区別しないそうで、伝統的な日本文としてはおかしいが、訓読文としては許されるものだという。訓読文の影響が大なることを示す点だと指摘されていた。弘法も筆の誤りというものではなかったのだ。