『灯台守の話』(ジャネット・ウィンターソン著、岸本佐知子訳、白水社刊)を読む。 シルバーと名づけられた女の子が母親と死別し、盲目の灯台守のピューの元で生活することになることから話は始まる。彼女の父親は港に偶然立ち寄った船乗りで、そこで「母さんの胎内に錨をおろした」。彼女の家は「崖の上に斜めに突き刺さって建って」おり、ある日足を滑らせ家の中から崖下へ転落してしまう。このとき彼女は十歳。「十年前、わたしは虚空をまっしぐらに落ちて母さんの岸辺にたどり着き、この世に生まれた。そして今また母さんがべつの虚空をまっしぐらに落ち、わたしの手の届かないところに行ってしまった」というわけである。なんとも不思議な始まりの小説だ。 彼女の親代わりとなったピューは代々灯台守をしている。盲目でありながら光を航行する船に投げかけ船を導く役目をしているという不思議な人だ。外に光を与える源でありながら、その内部は闇に包まれている。
光が仕事なのに、わたしたちの暮らしは闇の中だった。光はけっして絶やしてはならなかったけれど、それ以外のものを照らす必要はなかった。あらゆるものに闇がつきまとっていた。闇は基本だった。わたしの服は闇で縁かがりされた。時化帽をかぶれば、つばが顔に黒い陰をおとした。(中略) 闇はひとつの実体だった。わたしはしだいに闇の中を見、闇を透かして見、自分の中にある闇が見えるようになった。
そしてピューは彼女に物語りを語る。この地の先祖のダーク父子の話が語られる。物語の始まりは1802年ジョサイア・ダークがソルツを初めて訪れる。1814年にここに灯台建設が決定されたときである。ジョサイアの息子バベルは牧師となり、1850年にソルツの地を始めて踏む。しかも1859年にはあのチャールズ・ダーウィンと会っており、小説家のスティーヴンソンもソルツの灯台を訪れているという設定である。
大海原を航海していくことを生きていくことに喩えられるなら、その道標となる光の導きが必要だ。しかしその光は常に私たちを照らしてくれるわけではない。不連続な光の明滅の中でそれでも私たちは自分の航跡を確かめるために自分の物語を語る。灯台守の話を読みながら自分の物語がちらちらと照らし出されるような、そんな不思議な気持ちがしてくる。
・・・これからわたしが語る物語は、わたしの人生の一部を語り、あとは闇の中に残したままにするだろう。あなたがすべてを知る必要はない。すべてなんていうものはどこにもない。物語それ自身に意味があるのだ。 人生が途切れ目なくつながった筋書きで語れるなんて、そんなのはまやかしだ。途切れ目なくつながった筋書きなんてありはしない、あるのは光に照らされた瞬間瞬間だけ、残りは闇の中だ。(中略) ほら、光の筋が海を照らしだす。あなたの物語。わたしの。彼の。それは見られ信じられるためにある。耳を傾けられるためにある。絶え間なく垂れ流される筋書きの世界で、日常の雑音を越えて、物語は耳を傾けられるのを待っている。
年明け早々気ぜわしい世間をよそに、ゆっくりとした時間を物語りに浸りながら過ごず至福を味あわせてくれる佳品である。物語の中にでてくるタツノオトシゴをかたどった、クラフト・エヴィング商會による装釘もいい。