『日本ナショナリズム解読』(子安宣邦著、白澤社刊)を読む。本書は本居宣長を出発点にして、日本のナショナリズム概念の形成を経時的に解読していく。
・・・「民族」の概念は、ただエスニックな契機によってではなく、強い集合力をもった歴史心理的な契機によっても規定されるものです。その歴史心理的な契機として言語や宗教、そして文化の同一性があるでしょうし、また神話や歴史的記憶の集合的共有もあるでしょう。こうした契機による強い排他的な集合性をもった「民族」概念は、決して古く形成されたものではありません。むしろこれは近代国家を新たに語りだすために造り出された概念といってもいいものなのです。
「民族」をはじめとして近代的概念が我が国においては、西洋からの輸入の「翻訳的な転移」として成立したことを著者は指摘する。この「転移」においてどのような欲望がその言葉のなかに織り込められたのかということに敏感でなければならないとこの本を読んで感じた。
第1章(解読1)から第5章(解読5)までは、著者が今までの著書(『本居宣長』『国家と祭祀』『『文明論之概略』精読』)の中で述べてきたことの概略が見通しのよい形で簡潔にまとめられている。ちょうど広角レンズで風景を眺めてから、興味のある対象に焦点を絞りこむように、前半で大きく俯瞰するように時代の流れを追い、後半は昭和初期のナショナリズムの成立に焦点が絞られる。ここでは特に和辻哲郎の『倫理学』が取り扱われる。その章(解読7)の冒頭で著者の結論的言辞が掲げられる。
明治に始まる近代日本にまず「倫理学」があった。すなわち「倫理問題」に先立って「倫理学」があったということである。
漢語にあった「倫理」ということばに、翻訳としての「倫理ethics」が転移され、「倫理学」が作り出される。この部分の著者の倫理学に対する診断は手厳しい。
市民社会の未成立の日本にまず近代倫理学が近代市民社会の倫理問題とは何かを教えていくのである。近代日本にはまず倫理学が存在しなければならなかったのである。倫理学が倫理問題に、政治学が政治問題に、宗教学が宗教問題に先立ってあるということは、近代日本のアカデミズムが終始もってきた性格である。倫理学の先在性ということが、日本のアカデミズムにおける倫理学を根本的に既定している。帝国大学の倫理学科とは欧米の倫理学説の導入のばであっても、日本社会の倫理問題に答えることに責任をもった学術の場ではない。
この空白の倫理学の中に近代市民社会のethicsとしての倫理ではなく、近代国民国家日本の倫理学が書き込まれていくのである。これはあの昭和初期という時代背景がどのていど必然的影響を及ぼしたのだろうか。あの時代に限らず同様の欲望の転移はまた再発することがあるのだろうか。真摯な疑問を問うことから学問が成長しなければまたどこにでも同様な現象が起きるとうことは十分に考えられる。学者という専門集団は歴史のこうした教訓にあまりにも無知で楽観的すぎはしないだろうか。
岩波文庫から奇しくも和辻の『倫理学』が刊行中である。やはりこの機会に読まねばならないか。