『昭和史 戦後篇』(半藤一利著、平凡社刊)を読む。
戦前篇につづいての読書である。時代の移り変わりをこうして読んでいると、状況はその時々で違っても人間の思考や行動は似たようなところがあるものだということを思い知らされる。これが優れた点が似るならば、歴史は「進歩」するのであろうが、残念ながらそうではない。順風満帆に進んでいるときは、未来はすべて自分の思い通りになるものだと驕慢になり、絶望の淵に落とされたときには理性は曇ってしまうのが人の常なのだろうか。
戦後の混乱期の記述を読んでいると、なおさらこの思いが強くなる。そして時代は変わっても似たようなことは起こるものである。GHQの占領下におかれたとき、1945年9月11日主要戦犯容疑者39人の逮捕指令が発せられた。この日、太平洋戦争の最高責任者の一人である東条英機元総理大臣兼陸軍大臣兼参謀総長が自決未遂をした。ピストルで胸を撃ったそうだが、未遂に終わってしまうという醜態を演じた。本書では、この件について高見順氏の日記のコメントを紹介している。
作家の高見順さんが日記に書いていることが、おそらく多くの日本人の感想だったと思います。
「なぜ今になってあわてて取り乱して自殺したりするのだろう。そのくらいなら御詔勅のあった日に自決すべきだ。醜態この上なし。しかも取り乱して死にそこなっている。恥の上塗り」
東条さんには悪いですが、こういう感情をおそらく皆がもったでしょう。いわんや陸軍大臣として「戦陣訓」を発令した人です。そこに曰く、「生きて虜囚の辱めを受けず」と。日本人はこのとき本当にがっかりした、という記憶が強く残っています。
指導者の引き際というものは後々までに語り草になるのである。翻って今の状況もそのスケールは著しく矮小だが似てはいないだろうか。先の参院選で自民党は一敗地にまみれた。このときに指導者は身を引くべきではなかったのか。所信表明演説をした後に、「なぜ今になってあわてて取り乱して」辞職するのか。そのくらいなら選挙結果が分かった日に辞職すべきであったろう。かつて一国の指導者として「美しい日本」を掲げた人なのに、「醜態この上なし」。ことは日本国内の問題だけではない。状況は違ってもそのときにどう判断すべきなのか、歴史はきちんと教えてくれている。