烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

寅次郎、頑張れ!

2005-12-11 18:16:13 | 映画のこと
一週間遅れでBSで放送の『寅次郎、頑張れ!』を観る。
中村雅俊演じる朴訥な九州男児が大竹しのぶ演じる秋田から東京に働きに出てきて食堂に勤める女性に恋するストーリーが描かれている。この映画のシリーズを観ていると、東京でも昔はこんな町並みであったということが背景の風景から知られ驚き、寅さんの旅先の地方の風景がまた一昔前の日本の姿を教えてくれて愕然とする。本作品を観て、また驚いたのは中村雅俊演じる九州男児が大竹しのぶ演じる女性の言葉に失恋したと思い込み、間借りしているとらやの一室でガス自殺に及ぶというプロットであった。「東男に京女」といわれ、とかく九州男児というのは朴訥で不器用で直情径行(それに酒が強い)といったイメージで描かれることが多いのだが、この作品が上映された昭和52年(今からざっと30年前)の青年のメンタリティというのはこれほどまでに繊細で内向的であったのかとしばし感慨に耽ってしまった。相手の女性に対する恋慕の念が通じないと、勢い相手につきまといストーカーまがいの行為に走ったり、あるいはキレて刃傷沙汰に及ぶという事件が新聞の三面記事を賑わしていることに、ある意味慣れきっていた私の脳はこの青年の描写に忘れていた自分の過去を突然思い出させられたような、違和感と郷愁と羞恥の入り混じったなんとも名状しがたい感情を覚えた。
 この青年の自殺未遂行為によってとらやの一部屋が噴き飛ぶのだが、この青年の切羽詰った思いの「爆発」は、今のドラマでは悲しいけど描けない事件だなと思ったのである。そう今この屈折した青年の心理を描写しようとしたらストーカーまがいの行為として描かれてしまうことが確実であろう。そもそも昭和52年には「ストーカー」という言葉さえ存在しなかった。恋心のあまり女性の家に押しかけ、雨が降ろうが風が吹こうが(この表現自体がすでに古色蒼然としているが)ずっと会えるまで待つという行為は、当時なら純情の一表現形態であったはずである。それが今や立派な犯罪行為になるということになんともやりきれない感じを抱くのである。
 張り裂けそうな恋心を伝達するのに、今ではメールやケイタイなどのメディアを介さなければ伝えることができなくなったのだろうか。それは便利でいいことなのであろうか。