烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ゲド戦記

2006-08-04 20:07:59 | 映画のこと

 映画『ゲド戦記』を観る。世界の均衡が崩れつつある最中、映画はエンラッド国の王子アレンが王である父を殺害する(結果として死亡したのかどうかははっきりしないのだが)場面から物語りは始まる。この展開から村上春樹の『海辺のカフカ』を連想した。思春期の息子による父親の殺害というエディプス的関係が物語の通奏低音として響いており、これは監督自身が父親に抱くコンプレックスの投影ではないかと感じられてしまった(しかし、これは映画作品自体とは直接関係ないこと)。
 アレンは逃避行の途中で大賢人と呼ばれる魔法使いハイタカ(ゲド)に出会い、一緒に旅をすることになる。彼は自分を追ってくる自身の「影」に怯えつつホート・タウンで人間たちの狂気を垣間見る。ハイタカは彼に語る。

この世界の森羅万象はすべて均衡の上に成り立っている。風や海も、大地や光の力も、獣や緑の草木も、すべては均衡を崩さぬ範囲で正しく動いている。しかし人間いんは人間ですら支配する力がある。だからこそ、わしらはどうしたら均衡が保たれるか、よくよく学ばねばならない。

 自分の影を怯えつつも最終的には、父から奪い取った剣を見事に抜くことができるようになり、均衡を崩している魔女クモを倒すという筋からすると、原作者と監督はユング的にこの世界を解釈しているようだ。父から奪い取った剣は、すなわちファルスであることは論を俟たない。ファルスを見事に自分のものとしたときに、彼は一人前の男性となり、「影」との調和を達成し成長するというわけだ。
 しかしラカン的にこの映画を解釈してみると、敵対者である魔女クモがハイタカに言った言葉の方が説得力がある。「世界の均衡なんてはじめから崩れていたこともお前も知っていただろう」。
そう、私たちの「世界」にははじめから均衡などないのだ。象徴界へ参入したときから均衡は失われてる。いや、失われているというのも正確ではない。もともと存在しないものを私たちはそれを失ったと思っているだけなのだ。アレンが真の名前の意味を他者から改めて教えられてから剣を抜けるようになったというのは、人は自分では象徴界における位置を定めることはできず、常に他者によるそのネットワークの中に位置づけられる必要があるということからすれば当然であろう。

 龍が人間の地であるこの東世界に現れよったか。太古、人間と龍はひとつであった。しかし、ものを欲した人間は大地と海を選び、自由を欲した龍は風と火を選んだ。以来、人間と龍は交わることがなかった。

とらえることのできない不可解な存在であり、私たちの世界と交わりを持たない龍は、したがってラカンのいう現実界が顕になったものである。それは象徴界にはどうしても位置づけることができない存在である。だから人と龍とはひとつにはなれない(なれたとしたらその時は発狂するときだろう)。
 ユング的にみれば人と龍は一つになって、アレンは自分の罪を償いより大きく成長するという物語なのだろう。ここにユングとラカンを分かつ大きな超えがたい深淵がある。どうしてもラカン的に観てしまう私としては、だからこの結末はしっくりしないのである。不可能な永遠の生命を求めつつ、非道なことをする魔女クモが、ああいう形(これは映画で観てください)で出現した龍によって滅ぼされてしまうのでは、陳腐な勧善懲悪ものになってしまう。最後に龍は突如として出現して、人間たちの争いとは無関係に彼らの世界と偶然交錯し、結果としてクモが死ぬというのがあるべき展開であろう(例えば龍が落とした糞に当たってクモが死ぬというような最期)。まあ、これは娯楽映画としては最低の展開と酷評されるだろうけど、人間が命というものをほんとうに理解して生きていくためには、そんな事実を受け容れることが必要なのだ。