烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

人類最後のタブー

2007-08-06 22:32:24 | 本:自然科学

 『人類最後のタブー』(リー・M・シルヴァー著、楡井浩一訳、NHK出版刊)を読む。分子生物学がもたらす生命倫理問題を議論した著書である。定義されている問題は、現在のバイオテクノロジーのレベルから見て当然問題となる範囲のものであり、その点からみて扇情的ではない。しかし本書もドーキンスの宗教に対する攻撃同様、宗教的非科学的信念に対しては容赦するところがないので、”信心深い”人が読むとかなり挑発的に思えるだろう。実際本書はまず「霊魂」に対する科学者からの論駁から始まる。通常ならまず自分のテリトリーの客観性から解説を始めるのが定石だろうが、その点冒頭から挑戦的な印象を受ける。
 人間と動物の境界、受精卵の発生過程における人間の誕生の境界、人為と自然の境界というものが、現在の生物学からみれば、あいまいなものだということを著者は説得力のある議論で示す。

問題は、人間のES細胞を含む胚に由来するキメラマウスが、マウスの精子や卵子に加えて、完全に人間のものである精子や卵子を生み出せるという点。にある。そういう雑種のマウスの雄と雌が自然に高配すると、完全にマウスのものである胚に加えて、完全に人間のものである胚が生まれるだろう(中略)。もし妊娠したばかりの雌のマウスから、人間の胚を取り出して人間の至急に入れると、その胚は正常な子どもに成長できるだろうが、その遺伝学的良心は(人間と呼ぶことにするのでないかぎりは)マウスになる。マウスの両親それぞれに組み入れられているES細胞を生み出したヒトを両親と考えるべきだ、と思う人がいるかもしれない。しかし真に遺伝学的観点から考えると、その四人のヒト(ふたりの男女による受精卵が、メスのマウスに移植されて卵子となる。卵のふたりの男女による受精卵が、同様にオスのマウスに移植されて精子となるので、ES細胞の”親”は四人いることになる)は、両親ではなく祖父母だ。

そう、生物学的に議論するとそうなんですけどね、シルヴァー教授・・・。さらに教授はこれがマウスではなく大型の類人猿だったらと議論を進める。ここで嫌悪感を顕わにして、こんな技術は一切禁止だと情緒的に反応するのか、この現実に目を閉じずに議論していくのか。後者の態度が必要だと著者は述べる。ここであげてある例は確かにやや極端かもしれないが、事態が医学的治療と関係してくると事態は微妙である。
 著者は自らが行った思考実験を提示している。

ある敬虔なカトリックの夫婦が、最初の子どもが誕生したのを契機に、ふたりとも”嚢胞性線維症”を引き起こす遺伝子の突然変異を保持していることを悟る。ふたりめの子どもが欲しいが、突然変異とは無関係な医学的問題で妻の排卵が止まってしまった。かかりつけの医者に、排卵を開始して”自然な”妊娠を可能にするホルモン注射を頼む。医者はもし受胎すれば、胚は二十八パーセントの確立で先天性欠損症を持つと説明する。夫婦は危険性を理解しているが、それでも妊娠したいと思っている。さらに、どんな状況になっても中絶は考えないと医者に知らせる。子どもが重大な先天性欠損症を持って生まれてくる危険性が二十八パーセント存在する医療行為を医者が提供するのは倫理にかなっているのか、そして合法でありうるのか?

この質問に対してはたいてい生殖の自由という観点から夫婦の意志は阻止できず尊重すべきと答えられる。しかし、ここで次の質問が問われる。

遺伝子工学を利用して、正常な子どもが一生あらゆる形態の癌にもいっさいかからないようにする医療計画が練り上げられた。残念ながら、この計画には先天性欠損症を生じる危険性が二十パーセント伴う。この計画は許されるべきか?もし危険性が、現在のART措置と関連づけられる危険性と同じ八パーセントにまで低下したら、結論は違ってくるだろうか?

 こちらの質問がもし先に問われたなら、たいてい危険性の高さから反対されるだろう。前者はいわゆる”自然”に生じるリスクであり、後者は”不自然(人為的)”に生じるリスクであるとみなされているが、ここを著者は問題にする。両親の意志を尊重する立場からすれば、そこに自然も不自然もないだろう。合理的な考えの中にも私たちは何かしら情緒的な偏見を忍び込ませているのだと著者は指摘する。確かにそうだが、そういう情緒的反応も人間が進化によって獲得した客観的性質という面は否めないと思うのだが。まあそれも考慮に入れた上で敢えて徹底的に合理的に、功利的に議論を進めるのかということだろう。現在の科学の進歩はあまりにも早いので、どうしても長い時間をかけて獲得されたヒトの情緒的認知がそれに適応できないのである。これからの進歩も考慮すれば、私は功利的な観点というのは絶対必要であると思う。

 こうした倫理的議論とはまた別に、著者は現在のアメリカのようにカトリック原理主義が尖鋭になっていると、規制を逃れて科学者の頭脳がアジア(ここでは多神教であり、そうした倫理的葛藤が少ない)に流出してしまうのではないかと政治的な懸念も抱いている。著者のこうしたオリエンタリズム的視点は当然問題なのだが、確かに客観的にみて日本は一神教的風土は薄いから著者やドーキンスがあれほど躍起になるような”科学の敵”はいない。宗教的問題が解決されないとバイオテクノロジーの中心は将来アジアになり、特許など国家間の摩擦問題を産むかもしれない。