『東京大学の歴史』(寺崎昌男著、講談社学術文庫刊)を読む。
日本の学歴社会は、よくも悪くも東京大学を頂点として形成されてきた。高等教育の歴史を知る上でまずその頂点を知ることは、扇の要を押さえるに等しく重要なことであり、またそこを押さえれば日本の大学の姿が見えてくる。なぜならよくも悪くも日本中の大学が東京大学に目を向けていたから。
こうしたヒエラルキーに対する好悪はともかくこの歴史はたいへん面白い。第二部の冒頭(これは著者が学士会夕食会の講演の記録なのだが)に書かれているが、まず東京大学の創立の「理念」なるものあまりなかったということが分かり、驚く。卑しくも日本の頂点の大学とされているのに、設立当初は西南戦争の勃発直後での財政難で、東京開成学校と東京医学校ととりあえず一つにしちゃえということだったらしい(著者は「仕方なしにできた大学」と表現している)。その後1881年に総合大学らしき形態をとり、1886年に帝国大学が誕生する。それまでは慶應義塾があり、仏学塾あり、工部大学校ありと各分野では東京大学を上回る学府が存在していたという。1897年に京都帝国大学が創立され、帝国大学が二つになったことから東京帝国大学が誕生した。
当時は学暦は9月11日から始まっていた。これは大学組織を欧米を範として設立したからそうなったようなのだが、やがて4月が学暦の始めとなる。これは特に、会計年度と一致しないことが不便なこと、徴兵令による壮丁の届出期限が9月から4月に改正されたため、入学時期を9月にしておくと入学志願者が4月のうちに徴兵される可能性があることが理由で変更されという。
発足当初の各学部の独立性は極めて弱く、「学部」というものが現在の感覚とはかなり異なっていたようだ。
そもそも、この当時の学部を、「学部」と表記するのが誤りかも知れないのである。
律令制の影響をつよく受けできた明治初期の太政官制のもとでは、「部」という言葉は官庁の主管区分を示すものだった。文部省、兵部省、工部省、教部省といった当時の中央官庁名が、そのことを示している。
法「学部」ではなく法学「部」であったというわけである。
学位の授与に関してもさまざまな紆余曲折があったことが書かれており、学術的権威を国家の元に管理しようとする政府側の構想と学問の独立性を主張する大学側の駆け引きがあったことを教えてくれる。当時博士号としては、(1)課程博士、(2)論文博士、(3)総長推薦博士(総長が文部大臣に推薦するもの)、(4)博士会博士(博士会が認定したもの)の四種類があり、大学は前三者に関与していた。夏目漱石が辞退したのは、この(4)にあたるという。
成績評価についての記述も興味深い。大学で学生たちが能動的に学問をするようにとの配慮から、学制を学級にわけて学級ごとに時間割を提示し、全部必修とする小学校と同様なシステムである学級制は、「学制ヲシテ自ら学修スルノ自由範囲ヲ狭小ニシ自発的に研究するノ風ヲ起コサシムルコトヲ得サル」風潮を生むことなどから「科目制」にしたこと、試験の粗点により評価するようにすると、学生が「筆記帳ノ作製読誦ニ齷齪タルニ至ル」ので、好ましくないため優・良・可・不可という方式になったという。
教授の定年制についても当時農学部の石川千代松が残した「停年に際し私が急に職を辞せざる理由」という意見書をみると、その気概が伝わってくる。
ある制度の歴史を知るということは、その創立者たちの精神を感じることでもある。制度は時代とともにさまざまに変貌するが、その中に創立者たちの精神がどのような形で受け継がれているのか、あるいはもはや受け継がれていないのか、これを知り、後に生まれる世代へと受け継いでいくことはその末端に位置する時代の人間の務めであろう。
学問をすること、学問を教授することに当時は学生も教授も実に真剣であり、その真剣さが制度に反映されていたのだということが分かり、ある爽快ささえ感じる。大学全入時代の到来といわれるこの時代であるが、学業を修めること-というか卒業証書を手にすることが就職の手段となりさがり、学生も教授も企業への就職に汲々としている状況では大学生がどんなにたくさん生まれようが、どんな学部が新設されようが、そこからこんな真摯さは学生からも教授からも生まれないだろう。