烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

文学の誕生

2007-01-18 21:55:47 | 本:歴史

 『文学の誕生』(大東和重著、講談社選書メチエ)を読む。

・・・日露戦争後、文学の概念は刷新され、それにもとづいて文学史が書かれた。何が文学で何が文学でないのかの境界線が引かれたとき、文学と認定された側に入る作家がいる一方で、非文学へと排除された作家、境界線上を右往左往させられた作家がいる。

 本書の終章に記された言葉どおり、本書では日露戦争を境にして、戦前は不遇でありながら戦後一躍評価が高まった田山花袋や国木田独歩がおり、広津柳浪や川上眉山、江見水蔭など没落していった作家がいる。
 日露戦争が勃発したのが明治37年で、39年は戦後第一年にあたる。夏目漱石が『我輩は猫である』をもって文壇に華々しく登場したのが、明治38年であった。『坊ちゃん』が翌年4月、『草枕』が同年9月の発表である。一躍注目を集めながら、40年以降その作風が「軽い」とされ、評価が下がる。その一方で著作する態度が「真摯」だとして、藤村の評価が上がる。
 この本を読んで感じたのは、いつの世も文学作品とその評価は時代によって変わるものだという月並みなことではない。江戸から明治に時代が変わり、「文学」という新しいジャンルが創設され、それを担っていく専門的職能集団が形成される過程で、自らの存在意義とアイデンティティを確立する必要があったため、集団内で選別淘汰が起こり、最終的に文学史で見られるような状態となったという歴史が面白いなと感じた。これは文学に限らず、特定の専門的な職能集団が形成されていく過程では起こる動力学であり、進化であろう。
 江戸時代の戯作とは異なることを明確にせんがため、必要以上に「真摯さ」が作品および作家に求められたのではないだろうか。自然科学のような分野では、その評価にある程度の客観性があるから、科学と非科学の峻別は保証されるが、芸術に関しては、自然科学のような客観性は期待できない。その分、創作態度のようなところにまでが評価の対象となるようなことが、特にその草創期には起こるのであろう。著者はそれがまさに日露戦争前後で起きたとする。

 日露戦後は以上のように、文学が自らの自律した「約束」を手に入れる時代でもあった。作家が職業として専門化し独立するのみでなく、<文学>なる芸術ジャンルもまた、かまびすしい議論を通して、自前の約束を手に入れ、その「根本の約束」を共有しない旧作家、及び一般の読者を排除し、「特殊化」「専門化」し、他の文字芸術や社会的規範からの独立を達成する。<文学>は、<自己表現>という規則にもとづき、自己の存在理由を説明する根拠を手に入れ、自己同一化する。(中略)
 その結果、文学は今や、「自己の個性を表白するといふ根柢を片時も忘れ」ない文学の規則に忠実な作家と、これを理解しうる選ばれた読者たちの、聖域を形作る。

 文学や絵画、音楽の素養のあるなしによって人を選別する「教養」なるものの社会的形成という、より広い視点へと広がっていく興味ある歴史だと思った。
 巻末に年表があればより便利だったな。