Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

偶然の出会い2

2013-08-15 15:59:05 | 日々のつぶやき

父が、私の隣の部屋に移ってから、1週間余り経つ。

1日に何度も汗が出たと言って着替えるので洗濯物も多かったが、父に洗濯物を脱衣籠に入れる事と、アイスノンを使用したら、冷凍庫にしまう事とか、こちらでのルールを決め、高齢の母の負担を減らすようにしたら、案外ちゃんとしている。母に一つ一つ命令していたのがウソようだ。

母が、

「向こうの家のほうが、風通しがよくて階段も無いし、危なくないから移ったら?」との勧めからだったが、

「うん、いやあの土地は因縁があるから、やっぱ止めた。」

じゃあ~、自分は悪くても娘の私はいいのかい?と言いそうだったが、こらえて

「そんな事もう無いよ。妹なんかグッスリよく眠れるっていうもの。長い間か掛かったけどノワタリさんのお陰でもう大丈夫よ。」

「あの事件の犯人達は○○坂で捕まって、死刑になった…。」と、家族で唯一それを知っている父は事件の事を独り言のように呟いた。

そんな事でやって来たものの、夜8時には就寝するので、私達にはずれがあり、1時半か2時には目が覚める。

1日目の事だった。

「おい、今何時や?」

「1時半よ。」と言って、時計を渡したが、その後トイレの前で

「誰かおるのか?」とわめいている。

「二人しか居らんのに誰が居る。居ったら幽霊だわ。」

「いや、灯りが点いている。」

センサーにしているので、ドアがきっちり閉まってないと反応して点いていたので、翌日普通の電球に取り替えた。

2日目は最悪で、

「おい、冷房が効いてない。」と言って起こし、

「まともに風が来るから、寒い。薄い布団を出してくれ。」と言われ、布団を出した。

そして、朝5時にやって来て、今度は今通っている病院の事をあれこれ言うので、

「夕べは寝てないから、後にして…。」と言ったが、用が無い父は時間を持て余した。

「まだ、日は射してないから、散歩に行ったら?」と言って勧めた。

私は寝たい時に寝るので、深夜まで起きていても、毎朝、5時に起きる事が多いが、寝付いたと思ったら、二度起こされてその日は寝たようになかった。

そんなであったが、大分慣れてきて、3日目からはスムーズに互いに邪魔をしなく手て済むようになったが、12時過ぎて起きていると、

「お前、いったい何時寝るんや?」の一言で、口うるさくないので母より助かる。

13日の夜中、ドスンという大きな転ぶような音がしたので、

「大丈夫?」声を掛けると、

「大丈夫だ、なんでもない。」との返答が帰ってきた。

朝になり、父は散歩から帰り、シャワーを浴びて斜め向かいの母屋へ向かったと思い、私はのんびりと風呂に入り、その後ベランダのゴーヤに水をやっていると、下が騒がしく、お隣のおばさんが私を呼んでいた。

慌てて外へ出ると、近所の人たち3人が

「ネコちゃん、包帯無い?」と言われ、包帯を持って又、外に出た。

「お父さん転んで、手を突いてね。ちょうど其処を○○先生が通られたから、看て貰ったの。右手のこの指2本を包帯で固定してって、脱臼したけど、直してもらったから。」言われ、父に何処で転んだか聞いたが、父は夜中とは言わずに誤魔化した。

今度は、母も出て来て、ご近所さんに御礼を言っていると、先程の整体の先生が、

「レントゲンも撮りたいし、ちゃんとしたいから、もう一回来て。」と、呼びに来たので母は父を連れ、5,6件先の診療所へ行った。幸い、まっすぐだったので固定するだけで済み、レントゲン写真にも異常は無く、半日使わなければすぐによくなるとの事だった。

朝7時頃の出来事で、幸いご近所の方々は家周りの掃除や植木の水遣りをされている所で、整体の先生はその前夜おばあさんを亡くされてその日休診にする所だった。

出会わなければ、治療所に行っても、看て貰えず、何処か整形外科へ行かねばならず、父も半日痛みを堪えないといけない羽目になるところだった。

指の脱臼は昨晩のドスンといった時、布団の上で転んで手を突いたと言うことだたが、真夜中なので、私に遠慮して言えなかったらしかった。

しかし、偶然が重なり父は助けて頂いた。どうしても必要な時、上は優しく手を伸べて下さって入る事を実感する出来事だった。

その後、父は私が患部に手を当てても、大して役に立たないと思っていたのが、それを信じるようになる出来事が起きた。

患部に手を当てても、父は全く、暖かさ以外何も感じない。

朝食を取っていると、

「胃の奥のほうから突き上げるようで食べれない。」と言うので、手を15分くらい当てていると、

「張りが無くなって少し楽になった。」と言ったので、母と、

「それは私がしてるんじゃないのよ。お不動さんのお力よ。私を通してるだけ。お不動さんに御礼を言って感謝してね。今までの10年のお供して歩いたから、こうやって出来るのよ。私だけでなく、妹も多分、姪達も出来るやろうね。」と言うと、父は言われた通り、お不動さんに感謝を述べた。

「今まで信じてなかったでしょ。なかなか反応がなかったもの。反応しだしたら、マイナスが出て行くから効果があるのよ。」

それから、休みの事もあり、朝晩手当てをさせてくれる様になり、1週間お通じが無かったのが、今朝あり、楽になった。

「普通、こんな事ってしてもらえないのよ。この年まで元気に生きてきたんだから感謝よ。ノワタリさんと繋がりたくても、出来ない人もあるんだから。感謝して」と、母は言い、グズグズ愚痴をこぼしていた父にだんだん笑顔が戻りだした。

 

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偶然の出会い1

2013-08-14 01:12:41 | 日々のつぶやき

最近、偶然の出会いを立て続けに二度経験した。

すべては偶然でなく必然とは言うが、粋な計らいだと思っている。

このところ、四国はかって味わった事の無いような酷暑が続いている。

余りの暑さで毎日、父は冷房の中で一日中横になっているが、自分の病が精神的なものと気づいた事と、頼りになる医者に出あったことから、少し以前よりは楽になったようであるが、日替わりで良くなったりそうでなくなったりしているが、確実に歩く姿は以前よりシャキッとしてきた。

お隣のおばさんが、

「車から降りるには時間が少し掛かるけど、どしたん、シャキシャキと歩いてるやない?」と、私に言う。

「そうよ、病気や無いて、精神的なものよ。」と答えたが、それまでは前かがみで杖を突きヨチヨチ歩きで指先でちょっと突いたら、転びそうだったのが、しっかり歩き出した。

しかし、母ともめた数日前から、この暑さもあり、母屋は家の向きで浜風が入りにくいこともあり、私の部屋の隣で夜は休むようになった。

もう、母の体力も気力も限界に来ていたみたいである。ペースメーカーの入れ替えもあるが、それよりも38歳で気管支拡張を患い、喀血したがその傷が大きく残っており、再発した場合大変だと今年、視ていただいた医者に指摘され、それまで完治していたものと思っていたので、気にしていた。

それは一応治ったと思っていたが、20年前まで毎日咳き込み痰を吐いていたが、当時の主治医が待合室で咳き込んでいるのを気づき、薬を投与された事で、それ以降激しく咳き込む事はなくなった。しかし、その医者は不自然な交通事故で亡くなられてしまい、母はひどく落胆した。

しかし、その咳が治まっていなければ、まず現在母は生きてはいないだろうと思うほど、ひどい咳き込み方で心臓に負担が大きいからだ。その時の主治医も心臓でかかっていたのでそう思ったのだろう。

話が大分それてしまったが、本題に。まず、軽い方から…。

先週の金曜日、商用で出るついでに、従姉妹のタカコちゃんとランチを取る事にしていた。父の病気のことで家族がぶつかりあったり、取り扱いメーカーが幾つか大幅な値上げで、見積もりを作ることに追われていた。精神的にこちらもまいっていたので、母も出かけに

「ゆっくりするといいわよ。」と言った。

しかし、疲れていたのか?インターの入り口で危うくETCでなく一般の方へ入りそうになり、慌ててハンドルを切った。後続車がいなかったので良かったものの、その後もまた、同じ事を続けその挙句、高速に乗ると方向が違う。上り方向へ行かないといけないのに下り方向へ行ってしまい、慌てて、遅れることを連絡し、次のインターで入り替えて走った。

午後1時を過ぎて和食店に入ると、人も疎らだった。その後コーヒーショップへ入った。2階席は階段近くの窓際ともう一つは真ん中の席が一つ空いていた。日が射すので窓際をやめて、中央席に座わったが、学生が多くみんな勉強をしているみたいだった。

タカコちゃんも数年お姑さんのお世話をされた。病院へ入院してからもご主人と交代で食事のお世話に通い、他の兄弟があっても、彼女がひとり引き受け毎日通い、すべてしていた。

「タカコちゃんはえらいね、もう私いっぱいいっぱいだわ。」とこぼすと、

「あら、これからよ。ノワタリさんにどれだけ、電話で聞いてもらったか、彼女がいたので助けられたのよ。」と言っていた。その後、あれこれ話して後また、今治まで行かないといけないので席を立とうとしたら、

「ネコちゃん、ネコちゃんやないか?」と、つい立越しに隣の男性が私の名を呼んできた。平日のこの時間にコーヒーを一人でのんびり飲んでいるなんて、リタイヤいた人かなと思っていたら、なんと2級上の学生時代のA先輩だった。

ほぼ40年ぶりで、じっと見つめると目元に面影があるが、すれ違ったくらいだと気づかないであろう。昔話に盛り上がり、特に一緒にドライブしてスピンした事を話された。この出会いも間違えて下りへ走ったロスがなければ、出会わなかっただろうと思う。その事を話すと、

「なんとのんきやね。」と、言われた。

互いの近況を話し、私が一人でいることを知ると、

「あんたは一人でも大丈夫。」と、あり難くない事を言うのでこちらも「いらんわ。」と強がってしまった。タカコちゃん一人が「いや~、これからだから、誰か…。」と、気を使っていた。

「今度出てくる前に連絡頂戴、食事でもしよう。」と言って別れたが、私の学生時代の下宿の部屋に一畳の台所があったので金欠になるとこの先輩とM先輩は「食べさせて~。」とやって来たり、ダンスパーティの後、ラーメン一袋を持って「贅沢は言わん、ご飯だけでいいから…。」と言ってやってきて、「何番目が良かった。」とか言い、私も異性なのに遠慮なくあれこれ踊った女の子達のたな卸しをし、そのうち

「何かある?晩御飯何だった?」と聞き、結局冷蔵庫にあるものを食べ、料理用のブランデーのミニボトルまで飲んで帰っていたが、憎めない人たちだった。

しかし、そのお返し?に焼肉屋や炉辺焼きでご馳走になったり、スナックへ連れて行ってもらったり、お誕生会?をしたり、春休みに帰省しなかった為、仕送りをしてもらえなかった時は、バイトを世話してもらったり何かとこちらもお世話になった。一級上の先輩にはタメ口で話せなかったが、このお二人の先輩には言いたい事を言っていた。

冬は私の部屋で2人の先輩とパンダとIとYの5人で500円投資でビール付きで水炊き鍋をよくした。なぜか、友人のパンダが自炊もしないのに大きな土鍋を持っていて、小さなプロパンとコンロ台をIが持っていて、ご飯は私。

しかも、下ごしらえと後片付けも私とパンダで、最後は鍋に麺を入れるので食べつくして汁も残らなかった。楽しい思い出である。

梅雨の末期の蒸し暑い頃、この先輩がレンタカーを1日借りた。1日と言うので用が済んでももったいないと言う事で、深夜に5人でドライブに行った。私は覚えていなかったが、大雨だったと言われた。

私は端っこに座り途中でうとうとして寝ていたが、水溜りでタイヤがスピンしてしまい車のクルッと回っている時体が揺れそれで目が覚めた。

国道脇の空き地に突っ込んだ途端、サァーと対向車が走りすぎた。みんな顔面蒼白(見えなかったが)になり息を呑んだ。丁度その時、カーラジオからタイガースの「シーシーシー」が流れてきたのを覚えている。数分沈黙が続いた後、安堵した所で、みんなが、

「いいよな~、誰かさんは寝たままあの世行きだったよな~。」と呆れられた。後で聞くと、空き地のその横は崖だったという。

A先輩は今回、「先祖の守護だよ。」と、神妙に言い、「あの時事故っていたら?と思うと…。」と言われ、とても気にしていたらしく、その話ばかりされていた。

下宿の女友達を紹介したが、2,3度デートした所で、女のこの方から

「いい人なんだけどね~、お友達以上にはならないわね。」と言われた。ハンサムでも確かにセクシーさに欠ける。本人はアンソニーパーキンスに似ていると言ってたが、ウサギにしか見えない。しかも、最後のデートはレンタカーがガス欠になり、夜道を二人で車を押す羽目になったことを笑いながら話したが、それ以上話は進まなかった。他にもこの先輩では無いが、私の男友達を他の女友達に紹介した事があったが、それも友達以上にはならなかった。

スピンの件から2ヵ月後、前期試験の終わり頃学校近くの先輩の部屋で、午前中の試験を終えた後そこでパンダが、

「5月の連休中、誰が買いにいくかもめての~。始め じゃんけんで負けたIが近所の薬局へ買いに行ったら、同級生の女の子が出てきたので買えず、風邪薬買ってきたんや。それでMが他の店へ買いに行って開けたんを僕の机の上に置きっぱなしにして、帰ってしまい、汽車の中でそのままになってることに気づいたんやけど、夏休み帰ったら、埃一つ無い机の上にそのままあったんや。お袋は掃除してるんやけどそのままで…。どうしようかと思った。」と、同級生が数人集まり、コンドームを買った話を苦笑いしながら話した。

「あはは、バカヤロー…。」と私とYはパンダとIを笑い飛ばしたが、

その頃はタバコの自販機と並んでその自販機があり、公衆電話の横にある時など、嫌だった。

その話をしていると、先輩が「持ってるぞ。」と言いながら、机の引き出しから茶色っぽい小さな袋を大事そうに出しながら、「使ってないから、開けるなよ。」と、パンダに手渡し、みんなでまわしたが「ふ~ん」で終わった。

しかし、私は「ヒェ~!」こんなもんこの人に必要なのかしらと、結びつかず以外でおかしかった。

ちょっと、下ネタっぽくなってしまったが、私は彼らとは同性の友達よりもうまが合った。私も男の子であればなお良かったのにとも思うが、本当に良い人たちに恵まれた事を感謝している。

 

 

 

 

 

 

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自立神経失調症?

2013-08-08 00:34:26 | 日々のつぶやき

心は自分の物でありながら、自分の思うようにはならない。父は日が替わる事に体調や顔つきが変わる。

昨日の午前中、ノワタリさんから出先に電話があった。

「朝、エネルギーを流してたら、とても胸が苦しくて重いんです。もう、思いで押しつぶされそうですね。何処に手を当てられてますか?」

「はい、胃の上と肩甲骨の間に手を置いてます。」

「じゃあ、胸にも流してください。」と、言われた。

その事を、留守中にチエさんにも連絡があったので、父は前日よりも顔持ちが良かったと言う。

昨晩、御礼を言えなかったので、今朝また連絡を取ると、

「お父さんは、癌の告知を受けて、それって死の宣告を受けたと同じだからね~。とても辛いのよ。治療も無いしね…。」と言われ口ごもった。

「私も、母も叱咤激励するだけで、『そうよそうよね』なんて言わないしね。妹が帰ってきたときは聞いてくれる居たから、ちょっと良かったのね。」と言った所で、

「(上から)『すがる所が無い』って言ってますよ。」

「じゃあ、少しそう言ってあげないといけませんね。」

「でも、そうよそうよばかりも良くないんですけどね。不安でたまらないですね。これも試練、沢山勉強する事がありますね。お父さんは神仏に守られてますから、特にお不動さんに感謝して」と言われ、父に対する態度を反省した。

話は前後するが、先週の土曜日父がずっと37度前後の熱があることを言うので、市内の病院へ連れて行った。

其処は外科から紹介しようかと言われた病院で、開業してまだ数年であったが、往診もしてもらえると言う所だった。

待合室は満員状態で窓口で父が癌のことを言っていたので、診療目的に風邪と書いた為か、2時間以上待たされ、途中電話があったので、順番が来たら連絡をもらう事にして私だけ一旦帰宅した。その時、看護婦さんに癌のことを伝えた。

やっと順番が来て診察室にはいると、医師は長く待たせた事を詫びたが、70歳前後でとても穏やかな人物だったので父に安心感を与えた。

癌の治療をしてもらえず、その事が不安でもあり不満な事を伝えたが、父は食べれない事を訴えた。

触診と採血をし、補助食品と抗うつ剤と睡眠薬を出してくれたが、抗うつ剤は即効性のものでなく、胃に優しくじわじわと効くというものだたが、熱は風邪でなく、癌から来る物かもしれないといわれたことを父は気にしていた。

良い医師に出あったのでその日は落ち着いていたが、2日経ち、月曜になるとまた落ち込んでわがままを言っていたところで、ノワタリさんの電話でその日はまた穏やかに過ごしたが、今朝7日になると、朝起きると頭痛がすると言い出したので、また病院へ連れて行って、順番が来たら連絡するように言って残して帰った。

しかし、父は連絡してこず、処置が終えたところで迎えに行くようになり、ここでも分かっていた事だが処置の仕様が無いことを伝えられた。

先日の血液検査の結果が出ており、その中で2つほど悪い事を伝えられたらしいが、それがどんな事かはよく分からず、タカコちゃんのご主人に検査表をFAXして、教えてもらおうとしたが、以前のものと比較しないとなんとも言えない事を言われ、それまで掛かっていた病院へ行ってもう一度検査する事を勧められたが、木、金曜日と予定が入っているので母に頼むようにした。

しかし、母は「自分も病人だ。」と言って頑として一緒に行く事を拒み、言い争いになった。

母が拒んだのにはその直前、来月入院するかもしれないと父伝えると、以前から、ペースメーカーの入れ替えを言ってたにも拘らず、

「なんで、病院へ行くんだ?」と言われ、自分だけが病人で無いと言って怒っていた。おまけに、体の不調を母にぐだぐだとこぼして当っている事に対して気力も体力も限界になっていた。

私も身一つなので、付いて行くことが出来ない…。思案した挙句、病院へ経緯を話し、この2回分の検査結果のコピーをいただく事にした。

それをまた、FAXして連絡をもらったが、癌のせいと言うものは無く、急に今回結果が極端に悪い物は自分であれば、再検査し判断すると言われ、まだ薬を入れると言う所まではいっていない事も言われた。

父に伝えると、

「何処か大きな病院へ行こうか?」と、処置できる事を望んでいるみたいだったが、

「もう、何処にいっても一緒。癌センターでも出来なかったんだから。それより、今の先生に任せて、しんどいんであれば、点滴に通えばいいわよ。癌って聞いた後、食べれなくなったんでしょ。食べようとしてもオエッっと来るんでしょ。失恋した時とや更年期の症状と同じ、自立神経よ。息苦しいのも、体が重いのも、頭痛も急に汗をどっとかくのも自立神経…。うつの薬が効いてくるのを待つしかないわね。それより、喉が渇かなくても水分とって脳梗塞を起こさないよう気をつけてって。」と言って、胸に手をあてると、痺れを感じた。30分余りした後、自立神経に効くという骨盤を緩めるストレッチをした。

まだ、父が開き直るまで時間が必要みたいだ。しかし、こうやって私も書く事で発散したり、癌でご主人を亡くされたノワタリさんに助言をもらったりや同じくお父さんを亡したユキちゃんに聞いてもらったり、たまにドカ食いや飲酒で乗り切っている。

「あなたも気を抜いて、たまには何処かへ行かれたら?」と、ノワタリさんに言われ、まず行かないだろうと思っていたが、

「そちらへ行こうかしら?」と言うと、

「『その時期で無い』って言ってるよ。」と言われた。確かにそういう状況ではない。

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踏んだり蹴ったり

2013-08-05 21:51:14 | 日々のつぶやき

朝いちばん母屋へ行くと、朝から母が怒っていた。

父が、朝ごはん前に消化器系の癌を患っているのにアイスキャンディーを食べた事が原因だった。

全部で野菜、果物、豆乳、蜂蜜をと10種類はは入っているスムージーは「ねばい」と言って飲もうとしない。アイスを食べた事で、もう御腹は膨らみ、食欲が失せたのだ。

その後、土曜に視て頂いた医者に食欲が無いので栄養補助食品のバナナ味のジュースももらったが、お通じが無いことを伝えるのを忘れたので薬をいただいた方が良いのでは?と話し合い、それを連絡する事になった。

月曜日は忙しいので母にするように言うと、多分私に厄介な事は押し付けるであろうとは思っていたが、結局、自分も病人で起きているのがやっとだととくどくどどこぼした。

しかし、新しく購入したパソコンの初期設定をしていたので断った。

何時もの事である、くだらない世間話をして自分の正当性を主張し、私達を巻き込もうとする。

病人だと言いながら、ご近所さんや友人の電話などは、力を入れ、大きな声で1時間はくだらない長電話をし、周りをうんざりさせる。

しかし、ワイヤレスマウスが反応しない。幾度もやり直したが動かず、指を使うが暑さと湿気で思うように動かず、イライラは募る。

父は昼食時、「ハア~、ハア~」とため息をつくばかりで食事に手をつけず、横になった。

お昼前に母が鬼の爪のようにのんだ爪を切ったのが原因だと言う。その姿勢が辛かったそうだが、そんなにきついのであれば、もう病院へ入院するしかない…。

痛みは無くともそれほど衰弱しているのか?それともこらえ性なく甘えなのか本人で無いと周りは分からない。

その事を母が伝えると、今度は尿が出ないと言うので、今度は母が係っている泌尿科へ連絡して連れて行ったが、なぜ、自分で自分のことが出来ないのかと腹が立つ。

「出なければ尿毒症を起こし死に至るのにそれの方が怖い。」と言うと、自分は癌だと言ってそれが一番の病のように言うが、体のきつさは本人でしか分からず、入院を申しこもうかと言うと、それは否である。

振り回され、仕事にならない。

父はわがままを言い、母はその不甲斐なさを怒り、自分の思い通りにならない不満を私にぶつけてくる。昔からそうだった…。

この先父が亡くなり、二人になっても、一緒には暮らさず距離を置かないと、私がイラつき、自分が押しつぶされる。

今までも、ずっと自分の考えや思いを私達に強要するので私達はそれが良いとしても、その方向には行かず、反抗するしかなかった。

チエさんは私たちのことを良く見ていて、

「社長はちゃんと準備しても、それは要らないと言って、けちをつけ、準備していなかったら、要るという天邪鬼になってわがままを言い、奥さんは自分に従わせようと抗い、もう突き放して好きなようにさせればいいのに…。」と言う。

しかし、私達にはわがままを通させる余裕は無い。少しでも長生きをして欲しいから、体に良いものを勧め、節制して欲しいからだ。

母方の曽祖父は80歳後半で私が幼児の時に老衰で」亡くなったが、自分で葬式の采配をし、家人に毛剃りしてもらってから亡くなった。

それほどしっかりしていた人だったので、自分で判断できず、ただため息ばかりつく父を見るのが腹ただしいみたいである。

結局、マウスはメーカーに電話して誘導してもらいあれこれとしたが、不良品らしく、本体なのかマウスなのかも分からなかった為、交換となった。

本当に踏んだり蹴ったりの日であった。あ~、疲れてしまった。

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ツバメの帰省

2013-08-02 23:08:19 | 日々のつぶやき

8月に入ると同時に、この半月間10羽余りのツバメが群れになって朝早くから賑やかにさえずって飛んでいたのに姿を消した。何時もに比べ、1ヶ月は速い。

夜になると、3つある巣、通気口の管の上で休んでいたので、まだフンの掃除が出来ないでいたが、寂しくかんじる。

商店街近くのスーパーの前の電線に毎年数百羽のツバメがお盆頃とまっていたように記憶があるが、今晩見ると、ここにもいなかった。

よほど気になっていたのだろう、昨晩ツバメが3番子を温めている夢を見た。夢の中で「こんなの初めてだよな~。南に帰るのに間に合うのだろうか?」と、気にしていた。

その事を友人と話すと、今年は異例で自然界は花も何もかも速いと言う。何か起きなければ…と、思う。

以前、大阪の景色を見るのが「見納め」と書いたが、私が予期した時期は過ぎてしまったが、ただ、単に遅れているだけだろうと思う。あの時、水掛不動様が現れ、ご挨拶に行くようにノワタリさんからアドバイスを頂いた事と、旅は入ってこない。

そして、私は友人の死をきっかけに体調が最悪になり、少し落ち着き始めたら、父の癌が分かったこともあり、仕事半分、両親の介護?に振り回される事となった。私だけでなく、チエさんも義父の死、ご主人の手術とバタバタと身辺が忙しかった。昨年の春、一人辞めた時、後の補充をしなかった。補充しても、仕事になるのは最低2年は掛かるが、お得意は高齢化で廃業する店も増えてくるだけなので、その時少額なお得意は通信に一部切り替えた。

そのせいではなかろうが、自分達の意思に係わらず、余計な物がそぎ落とされていくような感じである。年齢のせいか?横柄かもしれないが、気に向かない事はしたくないという強い。

父は風邪を引いた事から、我慢が出来ず ますます我がままが増し、熱は低くても、高齢者は肺炎を起こす事があるので、市立病院から往診をしてくれると教えてもらった病院へつれて行ったが、生憎と今日は休診日で出直す事となった。

「何時死んでもいいから、旨い物を食べる。」と言うので、よほどすし屋の前で置いて帰ろうかと思ったが、帰宅して上ニギリの折をもらいに行った。しかし、昨晩もふぐのから揚げを作ったのに、それはまずい物なのかといいたい。

チエさんは「旨い物でなく、食べたい物よ。食べたいって言うんだから、まだ死にたくないのよ。アンパンとジャムパンを用意してたら」と、言う、アルコールを飲まなくなったので、甘い物に食指が動いているので言い当てているが、食事時の度、

「食べたくないが、押し込もうか。」と耳にする度、ムッとくる。

母は母で、「曾祖母が90歳半ばで亡くなったとき、泣いたのは娘である祖父の二人の姉妹だけだった。」と言い、思い出したら90歳で祖父が亡くなったときも、誰も泣かず、

「お祝いだよ、大往生だ。」と言う言葉を聞いた覚えがある。しかし、物静かで温厚だった父の幼児帰りに異常な暑さもありはほとほと疲れる。

そんな日々であるが、2週間前 町外れで信号待ちをしていると後ろでド~ングシャという大きな鈍い音がしてバックミラーを覗くと、すぐ後ろの車から、30歳代の男性が首筋に手を当てて走り出て後ろの車へ向かっていた。私の前はバス、車間距離もそう無かったのによく玉突きにならなかった事と安堵したが、守られている事を実感した。(過去に二度追突されているが、今回は免れた)

ポコポコと間の抜けた天井の音はラップ音でなく、これも1週間前の夜 「ゲフォ」と言うネコが毛玉を履くような音が頭上でした。今度は猫かい?と思ったら、その30秒足らずでまた同じ音がして真っ暗になり、頭上のシーリングライトが壊れた。

そのまま、ダウンライトで暮らしているが、完全にラップ音もしなくなったようである。

 

 

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