Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

国王神社

2013-01-18 22:57:27 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

泉神社からおよそ120キロ、高速を降りた後昼食と休憩を取り着いたのは大分日も傾きかけた午後3時だった。

さすが正月月だからか駐車場には数台の車があったが、境内に入ると誰も居らず静だった。

入母屋造りというのだろうかお社は民家のようで親しみやすい雰囲気、午後だと言うのに空気は澄んでいて気持ちよい。

拝殿の正面に立つとノワタリさんの奉納された提灯が目の前にあった。

ご挨拶をして祈っていると、前世の一つが将門公の唯一生き残った姫である如蔵尼だったノワタリさんが泣いておられた。上記の木像の写真はその姫が彫ったものだと言われている。

以前お参りした時、泣きながら彫っているのが見せられそれが前世である事を知ったと言われた。

初めて来たHも「良い所だね。来れて良かった。」と、言っていた。

お社の前で話していると、家族連れがやって来て拝殿中にあがって入った。

こちらは上がってもよいと聞いたので、私達も上がりまたご神前に近寄って祈った。

ノワタリさんは涙声でお別れをされていた。ここもしばらくは行けれないそうである。

壁に幾つかの写真があり、その中にこの神社の紋のようにかやぶき屋根の上に太陽があり、取り囲むように赤い○が幾つか写っている神秘的なものがあった。

以前お参りした時、将門公の事を書いた漫画本が置いてあった。それを読むと、この辺を開墾し、民衆に慕われた事と、一族間の争いの事が書いてあった。

余りにも力が強くなりすぎて朝廷に恐れられたのだろう、首は飛んで行き、東京に首塚があるというが、死んでも首と胴を離さないと安心できないほど恐れられたみたいである。

その後最後の目的地である将門公の胴塚がある延命院に向かったはずだった。

以前も間違えたが近くに延命寺がある。Hも間違えて其処へ行ってしまい「近いじゃない。」と言ったが、「此処ではない。もっと先よ。」と言って通り過ぎたが、ナビには出ていない。

「何処なんだよ。」

「え~と、横浜に向いて帰り道に案内が出ていて、右の細い道を走ってるとあるわ。周りに林があったな。」と、心もとない。

しばらく走るが案内板は無い。見回せば、あちこちに横道がありその先に林もあり、みんな同じような景色で目印も無く、その辺を2,3度右往左往したが、行き着けない。

こちらの町に入った時にコンビニでお水と塩、ライターを買い、ノワタリさんは生花も持参していたが、また、コンビニで飲み物を買って場所を尋ねても、誰も知らず住宅地図で調べたが、はっきりしない。

それらしい風景の横道に入り、民家に行って教えてもらったが、これもとてもアバウトでその通り走っても無い。もう一度指示通り走りなおしていった先は似たような名前の○○院で別物。

延命寺近くのお百姓さんに聞いてもご存知なく、じゃあもう一度、国王神社に戻って社務所で聞いてということになった。

管理されている建物を雨戸の隙間から覗くと、何か集会か宴会らしく10人足らずの人がいた。先程の駐車場の車が多いワケである。

ガラス越しに窓を叩いて教えてもらったが、訛りがきつく「神田山」と言われたらしいがそう聞こえずよく分からない。教えてくれた人以外に言い直す人ありでそれも「町の方」と言われ、その通り進むと、横浜とは反対方向でどうも違うのでまた、引返したが、もう日が暮れかけていた。

「もう、遅くなったから、帰りに有ったら行きましょう。」ということになり、半ばみんな諦めていた。

結局、見当たらないまま町を出てしまい大きな夕日が地平線に沈んでいくのを見ながら同じような景色の中を走ったが、見つからないのでイラチのHは疲れていただろうと思う。

後で帰宅してgoogleで調べると簡単に出た。なぜ、あの時スマホを持っていたHも私もそれが浮かばなかったのか?残念だが仕方ない。行かなくて良いと言うことか?

以前行った時ノワタリさんは「お父様」と言って、号泣された姿を思い出す。

その夜は横浜泊まりとなり、妹と姪と合流した。

 

 

 

 


泉神社 日立市

2013-01-17 22:13:20 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

11日の最終便で上京し、何時ものことながら遅くまでおしゃべりに花が咲き、寝不足のまま朝8時占い師のHの車で飼い犬の殿と一緒に出発。

およそ泉神社までは180キロ、Hとは昨年3月以来だったので車の中はまた賑やかにおしゃべりをした。

その朝、雑談をしていると何時もよりもノワタリさんに降りる言葉は多く、何度も「ちょっと待って!」と会話を中断してメッセージを伝えてくれた。

首都高を走っていて「此処で大きな地震にあったら、どうしようも無いわね~。」と言っていると、

「飴の様に溶ける...」と言われた。そして先日の姪の住まいを妹が相談している時、ノワタリさんの目の前に姪がガシッと両脇を抱えられてj引き上げられる姿を見せられたそうだ。

「助かる人はどこに居ても助かるけど、こんなにリアルに見せられるとは。」と言われたが、家の周辺の話(新居に入居して1か月しないうちに事故死したり、家の跡取りが事故死してほかの家族も出ていってしまたりとか、挙げていくと切りがないくらい多いが)をすると、「人だけでなく、家も同じなのね。」と言われた。

「ありがたい事ですね。」と言うと、「日頃の礼だ。」と言われた。両親ともに信心深い。

そうするうちにスカイツリーが見えて来た。ノワタリさんはむせって声が出しにくくなり、頭痛を訴えた。

無機質なコンクリート群と鉄のタワー、どうも気が良くない。

どうして地盤の弱い場所に立てたのだろうか?そんな事を話していると、Hがスカイツリーと東京タワーの説明をしてくれた。

東京タワーは良質な鉄鋼が無い頃だったので、朝鮮戦争後の古い戦車を買い受けて使用した物なので別名「戦車タワー」と言われ、関東ローム層の地盤で芝の増上寺の一角に立てたとの説明。

そうやって聞くと、木材だけでなく、鉄鋼も再利用と言うことがあるので怖いと思ったが、本来そういうものを引き寄せるその人の性質と考えたら、仕方ないか?今となっては何もかも意味があると思っている。

そのほか占い師なので算命術、風水、地震の話をしてくれた。

しかし、昨年2階建ての天中殺の最後の山を越したはずが、今度は来年の還暦で易から言うと今年は前厄と言われた。何時も私は何かが良くなるともう一方がそうでなくなるパターンでしまう。

どちらにしても還暦を過ぎると良いらしいが、もう老人と言われる年齢で何か新たな展開があるのだろうかと考えてしまう。しかし、この1,2年で世の中はどのように変わるかは分からないが大きく変わるであろうと思う。

「ちょっと、去年何もなかったわよ。」と Hに文句を言うと、「あるよロマンスは。」と、短く答えた。

まあ~、当てにしないでいよう。

次の世代までに因縁や土地の浄化をして渡すのがわたしの役目だと言うとノワタリさんは「大方済んだ。」とメッセージを伝えてくれた。

常磐道に入ると車はぐっと少なくなり、お天気もよく快調に進んだ。

途中寄ったサービスエリアで芋なっとうを買い、支払いをしていると「余り食べるとお昼が食べれないからね。」と注意され、種無し梅を1個づつ頂いた。

どちらもとても美味しく帰りには土産に買おうと言っていたが、自称エコ人間のHの運転だったので残念ながらその後サービスエリアによる事は無かった。

泉神社に着くと11時を回っていた。

御祭神様は天速玉姫命様、11月の篠山の速玉男命と引き続く。

私達が駐車場に着いた時は車は1台も無かったが、ご挨拶をしているとボツボツと参拝者がやって来た。

お昼前にもかかわらず、清涼とした空気が流れ心地よく厳かな雰囲気の神社であった。

とても御神気が強く、拝殿の中央から風を感じた。すると人が途切れた所でHと私を御神前の前に立たせ、後に立たれたノワタリさんに挟まれご神気を頂いた。その間私は祝詞をHは御真言を銘々唱え、ノワタリさんはずっと歌われた。目を閉じていると くら~っとするくらい強かった。

カメラを除いた時には真ん中に赤い光の筋が入ったが、3枚目の写真の社殿の上に白く御神気が写っている。

しばらく私達はその気を受けた後、同じ境内にある池のある弁天神社へ向かった。

 

 丁度お昼時間だったせいか、誰もいない。

弁天様のお社を中央に挟んで左は水がわき出ている神秘的なヒスイの様な色をした池と、右はそこから小川となって流れていく透明な池があった。

私たちが覗き込むと同化したような色の鯉があちこちから出てきて、ゆっくりと群れて泳いでいる。2匹は主のように大きく、後は小ぶりで誰かが入れたのか小さな赤い色の鯉も出てきた。

立て看板には「魚を入れたり、銭を入れているので飲料にはなりません。入れないでください。」と言うようなことを書いてあった。投げ込まれた銭は1円硬貨ばかりが目につく、トレビの泉の影響?

「此処でお清めが出来るわね。車から持ってきて。」と、Hに頼むと、

「分からないから、全部持って来たよ。」と、手渡されたのはいつものお清め用の3点セットで紙パックのお神酒と、今朝、ノワタリさんに頂いたご神前から下げられた箱入りの金粉入りのお神酒だった。

頂いた時には飲まないからとお断りしたが、「おうちの周囲に撒いてもいいし...、ああ、おチョウさんにあげればいいわ。」という事で頂き、車のトランクに入れていた。

「ああ~、そうなんだここに撒けばいいんだわ。」と言って、金粉入りのお神酒をHに指示して撒き、後の2つを手分けして撒いた。

そうすると、静かだった水面が静かに浪打出し、波紋が広がっていった。ノワタリさんはHが手を入れて波打たせたのかと見渡したが誰もおらず、上のなさっていることに気づいたと言う。

そして、撒く前よりも水は透明度を増し、表面はまるで鏡のように空と木々を映し出した。それは上の言葉通り見せてくれた物で私たちは一時池を見つめていた。

それから、ノワタリさんはコートを脱ぎ膝まづいて弁天様にご挨拶して祈った後、

小川に続く右の池に手を入れエネルギーを流された。水は暖かかく、本当に地下から湧き出ているのを実感させた。

この神社へ来るきっかけとなった写真の真ん中に卍が大きく表れ、「この池が中心となり...。」と言う言葉を頂いたが、この池の水が流れて大洋に広がり浄化して行、やがては循環して空気も清めるという事だろうと、私たちは話し合った。宮崎の口蹄疫病のお清めの時と同じである、地震も緩衝されるのではと今、思っている。

すべてが終えた時、12時半になっていた。其処から、今度は坂東市の平将門さんの祀られている国王神社へお参りする事をHに伝えると、「待っている。」との言葉をノワタリさんが受け取られた。


行き違い

2013-01-14 15:31:50 | 日々のつぶやき

昨日まで11日の夜から神社へ行く為に上京していた。

11月に話が決まりチケットを取る時に妹の予定を合わせ一緒に空港へ行くように帰りの日時をあわしていた。その時、「10日から出かけるから、日曜の5時半にしようと思うのよ。」と、言うので同じ時間に取った。その後で14日の月曜が成人の日で祝日だということに気づいた。

しかし、12月のクリスマス頃話していると妹は14日の5時半だと言う。

あらら...、私のチケットは変更が利かず没にしてその時点でも安いチケットはあったので新たに取ろうかとも思ったが、なぜか迷った。10年近く旅をしているがこんな事は初めてである。

何かあるなと思った。その後ノワタリさんと話を進めると、14日はノワタリさんの予定が入っており14日は動けない事が分かった。13日に私が買えることにすると終日動く事ができなくなるので12日に茨城へ行く事になる。

妹の本来の目的は寮を出る姪の新たな住まいを決める事だったのでそちらを優先する事になるので残念ながら12日には参加できなくなる。

結局、10日にすぐ住まいは見つかったが、12日に管理会社へ行くようになったのでどちらにしてもダメだった。

回りくどくなったが、こんな行き違いは何かあるだろうと思っていたが、今日であれば欠航で仕事に穴があく、妹が連絡してきたが羽田にいるが明日の便でも取れるかどうか分からず、モノレールが動いているので都内には出れるが、横浜の叔母の所へは行けれないだろうと言っていた。

昨日みんなと羽田で別れて帰った私は、大風では10分ぐらい遅れたもののアナウンスで言われたようには揺れなかった。

松山空港に着くと、雨。だんだん激しくなり、夕飯も取ってなかったが、地元に着くまで一刻も早く帰ったほうがいいだろうと思い後回しにした。

雨の夜の対面通行の高速は路面が光っている上、対向車のライトが反射して走りにくいと、思っただけで気が重く、一般道にしようかとも迷ったが高速に乗った。

掲示板には「大雪警報」と、あったが山間部に行っても積雪は無く、途切れ途切れにある幾つかの追い越し車線が終わった後、ずっと前を見ると真っ赤でライトが続いている。どの車もおとなしく列を作って60~70キロで走っていて案ずる事は無かった。

ありがたい事にそういう形で守られていると感じた。感謝である。

 


寝相

2013-01-11 00:07:28 | 日々のつぶやき

私は寝相はよい方で、朝起きても布団が乱れている事は少なかったはずだった。

この最近、毛布と布団がずれて明け方左肩が冷えて目覚める事が多く、ちょっと気になっていた。

以前御神木の枠木のベッドを使用していた時は、寝ている間動き回り、夜中に目が覚めると180度動いて足元に頭が来たり、布団がずれて床に落ちたり、寝にくいので真夏は床に寝たりする事もあった。その間横になって休んでいるはずが動いているので、朝目覚めると年中疲れていた。

そのうちに不眠がひどくなっていって38歳で更年期障害になってしまったが。

その当時、見ていただいた祈祷師はご神木は神様のものであるから、人間には恐れ多く眠らさないようにしていたと言われた事があった。その事が分かってから、お詫びして使用するのを止め処分した。それ以来、木製の家具を買うことに躊躇してしまいベッドは使っていない。

年が明けて、休日が長かったのもあり忙しく疲れがたまっていたのもあり、最近憑けることも無かったので気づかなかった。

ノワタリさんに報告する事があり、電話で話していると、

「左の肩がとても冷たいですね...。」と言い始め、何かをつけているのを指摘され、「左半身がとても冷たいけど、以前ならこれですまなかったですよね。」と言われ、その晩お塩とお神酒をたっぷり入れたお風呂にゆっくり浸かり、シャワーで洗い流してすっきりしたはずだった。

しかし、翌日も疲れが残っていた事もあり、なかなか仕事が進まない上に朝から面倒なクレーム処理とか、いらだつ事が多く脳が沸きそうになっているところに、とても面倒なおばさんがやって来てなお一層疲れた。

そのおばさんは叔母の同級生と言う事でこの数年お付き合いがあった。

霊障もありノワタリさんに紹介したが、とても頑固でご自分の意を前面に出すのでなかなか進まない。

付き合っている内に彼女の素が分かり、苦手でこの最近は私は避けていた。

おばさんの所有の駐車場に3階のご夫婦を紹介した事から、何かと文句を言ってくる上に、借主が車を出そうとしたら、隣の借りているスペース(2台分借りている)に知らない車が入っていて大きいので出せなくなっていた事からおばさんに連絡を取ろうにも取れず、仕方なく警察に車番を調べてもらい連絡を取ったと言うことだった。

それを「何も警察に言わなくても」と言って文句を言い、(時間貸しをしていたみたいであった。)借主のご夫婦を「かかあ殿下だ。」と言ったり、「そのスペースにゴミを置いている。」と何時も、何か文句を言っていた。

無償で使わしてもらっているならば仕方が無いが、お金を払っている以上借主に権利があり、目名余る事さえなければ、何もいえないはずなのが分かってない。

昨日は「タバコの吸殻をいっぱい捨てている。」と、母に言ってきた。

少し離れていた所で耳にしたので、「お酒もタバコも吸わない人が何で吸殻を捨てるの?誰だかわからないんだから、気になるなら張り紙をすればいいでしょ。」と、忠告した。

どうも誰かに嫌がらせを受けているみたいである。それ以外にも夜中にドアベルを鳴らされたりするとか言っていたが、両隣とは境界線でもめお付き合いが無い。長谷川町子の意地悪ばあさんを地でいく人だ。

それだけでなく、お借りした時、母が面倒だからと3ヶ月分の駐車料を立て替えて払った事から、チエさんが1か月分を支払った所、「契約は3ヶ月分前払いだ。」と、威圧的に言ってもって帰ったと言う。

それを父と聞いて引いてしまったが、10月は途中で入居されたので不動産屋さんが日割り計算で頂いたので駐車料も払いすぎていた。

その事を伝えて 10月の払いすぎた分を今月は決算なので払い戻していただく事と、3ヶ月前払いと言う契約はしていない事と伝えると、今度は母に「安くしているから。」と泣きついてきたが、父と私はもううんざりだった。

そんな事もあり、憑けた物を除いたはずがギスギスした毒気に当てられまた体調がおかしくなってしまい、またお塩と御神酒をたっぷり入れた風呂で2時間近くも寝てしまい、温くなったお湯に目が覚めると2時前になっていた。ほんとにあほな生活態度...。

 

 

 


墓参り

2013-01-03 20:08:25 | 日々のつぶやき

年明け早々、墓参りなどと言うタイトルになってしまった。年が無事に越せるだろうか?と書いたが、何も無くて良かった。

その前に年賀状の続きになってしまうが、還暦近くなると同級生の近況を書いている年賀状は誰も同じでずっとあってない友人達は誰も「逢いたいね」と書いている。約半数はおばあちゃんになり孫に振り回されていると書いている。私のように老齢の親に振り回されているのとは対照的だ。

いや、両親揃ってお正月を迎えさせてもらった事を感謝である。

一方では30歳過ぎた娘が結婚しないと嘆いているのもある。

が、私のようなものもいるからまだ大丈夫、心配ないと書いた。

さて本題、昨日家の中ばかりでじっとしているのも疲れてくるので、父と近くの温泉へ行った。

温泉が近づいてきた時、まだ3時前だったので父が子供の頃大変かわいがってくれた親戚の戦死されたお兄さんのお墓参りに誘った。偶然、昨年の夏近くへ仕事でよった時に戦死者ばかり集めた石塔がったている中にその名を見つけ、必ず父を連れて行こうと思っていた。

その時、そのおばあちゃんは私に憑いて来ていて体が重いので気づき、ノワタリさんに手伝っていただきその晩供養をした。

その村の先の大戦で亡くなられた人たちのお墓は宇和海に向かって立っていた。

その人は父より少し年上で昭和17年に24歳で亡くなられていた。軍曹と肩書きが書いてあった。

一人息子だったので、残された親の落胆は計り知れない。後年、私が子供の頃養子をもらっていたがその養子も30代で先立たれ、おばあちゃんはとても優しいよい人だったがご苦労された。

とっさの事で、何も用意していなかったので般若心経と光明真言だけあげたが、父は墓石の側面に亡くなった当時の事を書いてあるのを懸命に読もうとしたが、古すぎて私の目でも残念ながら読めない。

父はしばらく墓石の前に感慨深そうに佇んでいたが、幾つかある墓石の名を見て行き、「この人達も顔見知りだな」と、ポツッと言った。

父は子供の頃毎年夏休みの1ヶ月近く此処に預けられ、近くの子供達と遊び、そのお兄さんはしっかりされてる上に優秀だったのでいつも勉強を教えてもらったと言う。そのお陰で勉強する習慣が身に付き、上の学校へ進む事が出来たという。

その後、家に帰っても子供の頃の話を父はしていて、中国戦線で額の真ん中を玉が貫通したと言う事だった。

父だとて、同級生が沢山戦死している。一番仲良かった人は満州でなくなった。丁度その日他2人も同じ日に亡くなっている。(ソ連軍が侵攻してきた日だろう)

父は私の若い頃と同じでやせっぽちで兵隊検査に撥ねられたが、世の中が不穏になり、自分から志願して行き佐世保の海軍工廠の事務方になり、その後、ジャワで終戦1年後、まで過ごした。

世の中のサイクルは7,80年で回ると言う。

今から7,80年と言うと昭和大恐慌から戦争に向かう時代である。

そう考えていくととても怖い。25年ほど前に亡くなった祖父はそのころの事をよく話した。

とても物の動かない時代で呉服屋さんが気が狂ってして自殺したとかよく言っていた。

東北では沢山の娘が売られた...とか言っていたが、父は「うちには売る娘もいない...」と言って私の顔をみんなが見たが(とうが立ち過ぎている)、「戦前は不景気なると戦争を起こしていたけど、もう局地戦ではすまない時代だからな...。」とよく言っていた。

でも実際、不安な世の中である。