Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

残留波動 Ⅱ

2010-02-04 09:10:33 | 日々のつぶやき

その年の10月、今度は自分自身の古い衣類を処分する事になった。自分の持ち物でありながら悪い影響を与えると言う。言われる事は良く分る。今から12年前に着なくなった服やもう使用しないや7cm以上のヒールのなど処分したが、手を通さなくなっても高価な物は捨てる事が出来なかった。

いざ、選り分け様とクローゼット、物置から衣装ケースを取り出したが、中々踏ん切りが付かない。何度もノワタリさんにグズグズと弱音を吐いた。その度に電話の向こうで彼女は咳をしていた。部屋中、衣類を出しっぱなしにしているので良くない気が充満している為、反応しているのだ。自分に良くない影響をおよぼすのであるから、譲渡する事も、リサイクルに出す事も駄目であると言われた。そういえば、以前友人から古布で作ったジャケットを貰った時、モロ影響を受けてしまい大変だった。

その頃、読んだ本の中に「映画やテレビでポアロとか、シャーロック、ホームズが事件に遭遇した女性の持ち物を調べる時、クローゼットの中にある服で女性の事を判断する時、10着も入ってない。日本人は持ちすぎだ。」と書いてあった。ノワタリさんは「心配しなくても直ぐいっぱいになりますよ。」とも言われた。

3,4日経ち、行動に移した。この10年以前の物を処分した。サイズの合わないものから捨てていった。20年~25年前の物も持っていた。(気に入った物はサイズ直しして破れようが開こうが着続けた)5桁のお金を出した物、思い入れのある物は辛く、流石に躊躇したが、半ばやけくそになり袋に詰めた。結局、1番大きい4、5リットルのゴミ袋8個にもなった。

処分後のクローゼットはとても寂しいものになり、今度は寂寥感に襲われた。まだ、本当に心構えが出来ていなかったせいだろう。最近は年がら年中、旅をしているので衣服までにお金を掛ける事が出来ないので買っていない。この10年はズボンばかり履きスカートが無い。引き出しも空っぽ同然でこの頃は近年は毛糸の厚手の物はお店に並んでいないから、買っていないのでそれも無い。昔に比べると、かなり砕けた格好ばかりしている。(単なるズボラ)

クローゼットを開けたままにして、冠婚葬祭があれば、どうしよう...。改まった席に出る事になったら、どうしようと思った。

指し向き、必要だと思う物を少し買い、その年のバーゲンに行ったが、余り気に入った物は見つからず、スカートの流行はAラインで、プルオーバーはかわいい感じの物が多く、私はどちらも好きではない。気づけばお気に入りだった物の影を追っかけていた。私はハデハデのセーターが好きなのだが、時節柄、不景気でそのような物は見当たらないし、昔に比べると遊び心のある物も見当たらず、地元では手ごろな値段でノーブランドの物を売っていたブティックもなくなっていた。折角、処分してすっきりしたのだから上質で流行が無く、気に入った物を探そうと思った。

デパートのテナントの店でセミタイトが欲しいと言うと裏のストックから出して来た。売れ残りと言う事を隠す為、勿体つけて滝川裕美が着て婦人誌の表紙になったとか言っていたが、私が着てもその女優の様なエレガントなルックスになれる訳ではなくどうでもいい事だった。それでも私はやっとグレーの無地のセミタイトのスーツを見付け満足した。少しづつ気に入った物を探し、2年かけて買い揃えた。母は捨てた訳を知ってか知らずか、合わなくなったスカートを両手で抱え、山盛りにして持ってきた。

その後、アクセサリーも処分し、これはノワタリさんにエネルギーを調整してもらい本物だけ妹と姪に譲った。元々、窮屈なのでも好きではないので使ってもらえばいいわとしか思わなかった。

最近、やっと気付いた。普段着も仕事用もワンシーズン、2,3枚のパターンで済むと言うことに。余計なものはいらない。今度はズボンを処分しようと思う。

 

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残留波動

2010-02-03 09:24:51 | 日々のつぶやき

フクちゃんが亡くなった8月の下旬、2キロほど離れた倉庫に1年ぶりくらいに荷物を出しに行った。最近は、メーカーの出荷も早くなったのと、不景気で倉庫に積むほどのこともなくなったので、荷物は少なくガラガラであったが、その2年半前に前回書いた家を建て替えた知り合いの家財道具が立て替える間と言うことで貸したがそのまま一階に、二階は同時期詐欺に遭い家を失った知り合いの家財道具に占拠されていた。

二階の使用者はは詐欺に遭い、家を手放さなければならなくなった。その時、元の家の近くの一軒家を地代だけで良いという好条件の話があり、私達も勧めたが家が見えるのがつらいと言って聞かなかった。

遠隔で私のぎっくり腰を直した山梨のおじいちゃんもその家に移り、息子さんと家業をするように言ったが頑として聞かず、仕事は出入りの業者に譲り、「仕事を教えたら、妹の所に行くから、ミシン一つだけ置かせてくれ」と言って倉庫前のアパートに引っ越した。おじいちゃんの言う通りしていたら、同業者は1年後病気で倒れ、仕事が出来なくなったので挽回できただろうが、彼女は手放していた為、権利は無くなっていた。決して、私から勧めた話では無い。彼女の打算だ。

一階もさることながら、二階はこんな事ってあるかと言うほど負の連鎖で、20年前まで、大層裕福なお家だったが、事業に失敗して、駐車場付きの5,6階建てのマンションなど数箇所持っていた不動産を失い、その後、ご主人は自殺、子供さんは離婚、今回は詐欺である。それが、残留波動として家財道具に染込んでいる。

倉庫に行ってみると、仕事用ミシン、仕事材料、箪笥3棹、下駄箱、ダンボールが二階いっぱいあり、よほど慌てて引っ越したらしく、古い平凡パンチなどの週刊誌や子供用の松葉杖など不要と思われる物が山積みになっていた。

一階の使用者も2年前に家は立て替わっているのに、自分の物置に使い、鍵を返してはくれないままだった。したがって、生活に不要な以前の家の戸障子、骨董品、亡くなられたおばあさんの着物などが入っていた。

倉庫に踏み入れた途端、気分が悪くなった。おまけに足も取られた。又、残留波動を受けたみたいだと思った。もうこれ以上置いて置くことは出来ず、ノワタリさんに相談しても「このまま、置いておくとあなたに良くない影響が出てくるだろう。」と言われ、決心も付いた。倉庫も私の物でもなく、両親にも小言を言われていた。

まず、一階の使用者に訳を言い、返してくれるよう伝えたが「そのうちに」と言う。「有難う、世話になった」の言葉もない。2度目は「年内にボツボツ」と言い。3度目は「二階の○○ちゃんと相談して」と言う。便宜をはかって無償で貸しているのになんという事だ。おまけにご主人は「日月神事」とか「浜本末造」さんなど精神世界の本を私に貸してくださり、意味がわかる方なのに...ひどい。父と母の方が私よりも立腹し、カンカンだった。

二階の使用者にも伝えると「有難う、甘えてゴメンナサイ」の言葉は貰ったが、多くの家財道具がアパートに入りきるわけでは無く、又泣き付かれた。ノワタリさんが「他人に迷惑をかけてまで持つ事は許されない。自分で持てる分だけが財産だ。」と言われたのでそう伝え、片付けていただき、当初の約束通り、仕事道具だけ、お一日と15日に粗塩を交換し、浄化しながらと言う条件で置く事になった。しかし、箪笥の中身は無くなったが最後まで箪笥はそのままだった。

一階はその間、何度か荷物を出すよう伝え、やっと1ヵ月後の9月の末に片付いた。その後、付き合いは無い。有難うの言葉は最後まで無かった。

二階は昨年9月に、片付けてもらった。私の再出発と言う事で10月に神棚も御神鏡も新たにする前の事だ。5年半貸したが、彼女とももう付き合いは無い。年賀状を出しても来なかった。私は一時期でもお友達だと思っていたのに、お人よしの馬鹿で甘ちゃんだったみたいだ。人間不信になりそうだった。たぶん二人とも空いてるのに使わしてくれてもいいじゃないと根底に思っているのだろう。とても後味の悪い思いをした。これに懲りて、同情はしない。付き合う必要が無いのだろう。明日、倉庫にお守りを持って行こう。

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さようなら、フクちゃん

2010-02-02 10:17:08 | ネコ

2006年、青森に行った後、9月に熊野三山と玉置に行ったが、その前後に体の変化に伴うさまざまな出来事があった。

6月の初旬の事、所属している会の会報を2,3件の家に届けた後、気分が悪くなり横になった。珍しい事である。もう年齢的なこともあるから、血圧を測ったらと言われ、測るとなんと上が168、下が100近くあった。私は普段上が120位しかない。その日、一日休むと、翌日には気分の悪さは無かったが、ノワタリさんにお尋ねすると、「憑けて来ましたね。」と言われた。最後に寄った家の中庭の踏み石らしい。その家は2年前に前の家の間取りのまま建て替えていた。(残留波動というらしい、そのおうちは先代の時、請け判で財産と病気で伴侶を失い、おばあちゃん一人が家を支えてきた)それまでにも幾度も遊びに行っていたのでまさかと思ったが、私の体の変化らしく、一層過敏になってきたらしい。

しかし、入れ替わりに飼い猫のフクちゃんがぐったりして、食事もしないで蹲っている。慌てて獣医さんに行くと、急性心不全言われた。数本の注射と点滴、薬を貰ったが、どうなるかは難しい。1週間通ったところで、具合が好転して助かった。今まで、病気もせず元気な猫だったが、13歳、もう若くはない。老化も始まっているだろう。

私が旅に出ると、1晩めは私を探すが、いないと分ると、母を誘導して、私の家のドアを開けさせ、自分から戻っていたと言う。2日目になるともういないので諦めて出てこなかったと言う。ずいぶん寂しい思いもさせたと思う。

食事はし出したものの、以前の活発さは見られない。病み上がりかなとも思っていたが、7月の20日過ぎ頃から、体は痩せて来て、おなかだけ膨らんで腹水がたまり、とてもしんどそうであった。獣医さんに行ってももう手のうち用が無かった。フクも体をもてあましてるらしく風呂場の冷たいタイルの上に行き、横になったリしていたが、私の後も元気なうちはついて来ていた。

8月の10日、いつもならばフクの様子を見に何度も部屋に入るのだが、その日に限って、来客が続き、昼休みも伯父が来たりして、午後2時過ぎまでもどれなかった。部屋に入ると、いつも私が座っている椅子の横に冷たくなりかけていた。

可哀想に最後を見取ってやる事も出来なかった。籠に入れてでも事務所に連れて行けばよかったのか...まさか、その日死んでしまうとは思っていなかった。花を買ってきてもらい、チエさんや両親とダンボールケースに入れ、線香をあげ、「フクちゃん、ごめんね」と泣きながら声をかけると、返事をするように鼻水が流れ出た。母が「フクはとても手の掛からない利口なネコだったね。」とみんなで生前のフクの話をした。フクは汲み置き水は飲まず、風呂場や洗面所に行き、舌でトントントンと蛇口を叩き、ポタポタと落ちてくる水を飲むのが習慣だった。母屋に閉じ込めた時は、和式トイレに用をたしていた。食べ物に手を出すことはなく、鯛と紋鯛、サヨリのような白身魚が好物で母が調理していると、背伸びしてせがんだが、青魚などは目もくれなかった。

その晩は夜伽をした。あれこれ楽しかった思いが浮かんできたが、いつも猫を見送るたびに思うが、目の前に居るフクはフクであっても違い、魂の抜けた抜け殻であり、違和感を感じた。翌日、般若心経と光明真言をあげながら、海に戻した。本当にお別れである。その時は、助かる見込みもなく、しんどそうな姿を見ていたので半分、諦めもあり、立ち直りも速いかと思っていた。

ノワタリさんがおっしゃるには「本当は、6月で駄目だったのだけど、心の整理をする為に2ヶ月持たせてもらった。」と言うことだった。本当にそうだと思う。

突然、事故で亡くなったときのような、体の一部が無いような、虚無感は起きなかったが、時間と共にジンワリと寂しさが募って来た。いつも一緒に寝ていた。夏は通販で買ったメディカル枕をベッド代わりに寝て、私は隅に小さく頭を乗せていた。寒くなると湯たんぽ代わりにべったりくっ付いていたので、寝返りを打つと直ぐ目の前にあった顔が見えない度、居ないのだと言い聞かせた。時折、今でも掃除をしていたら、フクの毛や爪の欠けらが部屋の隅っこやクローゼットの奥から埃に混じって出て来るたび、思い出しては涙した。

昨年、精神的に落ち込んでいる時、夢の中に元気な姿で出てきた。とてもうれしかったが、目覚めるとまた、泣いてしまった。その後、留守が多くかまってやる事も出来ないのと、母が「留守中いなくなったりしたら、気が怖いから、もう飼わないでくれ」と言うのでネコはいない。30年間猫と暮らした生活が終わった。

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