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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

阪神淡路慰霊の旅2005年4月 その1

2009-11-22 14:25:30 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

2005年4月には入った頃、阪神淡路大震災モニュメントの資料がfaxで送られてきて、神戸に行く事になった。しかし、伊丹、宝塚、西宮、神戸、淡路島と広くどういう順序で周るか思案した。妹が学生時代西宮に住んでいたので、応援してもらおうと思い連絡したが、「土曜日に子供の学校行事があるので、24日までずらせば 参加できる。」との事。しかし、ノワタリさんは「25日は駄目、必ず24日の日曜までに」と言われた。その事は後で背筋がゾッとする思いをするのだが、その時は解らなかった。

妹にアドバイスしてもらい、プランを練った。ここは交通機関が発達しているので阪急沿い、JR沿い、阪神沿いの3つに分けていく事にした。いつものごとく、私は土、日しか余裕が無いのでノワタリさん一人で20日の木曜に出発し、まず宝塚から周り最終日の日曜に伊丹に帰るようにした。

21日ゆずり葉緑地、宝塚神社、動物霊園、西宮の阪急線沿い、かぶと山を周り西宮に宿を取った。

22日六甲、鵯越、大倉山、長田、兵庫区を周られたが、震災だけでなく、戦争でなくなられた方達の慰霊でもあったという。湊川の旧母子寮と大輪田橋付近、長田区はとても悲しかったと言われた。そして長田で白衣観音様が出て来られ、「お母様、お母様」と言って泣かれたと言う。実際のお母さんとはとても淡白な関係でそれまで、実の母親は他にいるような気がして求めていたがそこで会え、それ以降、求める事はなくなったと言われた。しかし、2日とも、電車を使うよりもタクシーを使うことが多く、お清めする為の水や塩、お酒を持って移動するのはご苦労だったと思う。

イザナギ神宮夫婦の大楠

翌23日土曜日に合流して明石からで淡路島に向かった。途中、震源に近いところで私達は鈴を鳴らしながらに投げ込み、ノワタリさんは歌われた。

地震が起きたとき、うちにやって来ていたセールスの一人が丁度四国行きのフェリーに乗っており、淡路島沖で遭遇したと言う。ド~ンと言う大きな音がして部屋の隅から反対側の隅に飛ばされたので「これは座礁したのだと思った。」と地震の衝撃を話していた。

私もその翌日に神戸に仕事で出かける予定だったのでびっくりした。

は北淡震災記念公園に近い富島に着いた。少し歩くと、住吉神社にお参りし、付近に住居跡と新しい家とが混在している通りを歩いて記念公園に向かった。

記念公園の断層保存館の断層の大きさにも驚いたが、断層のマップを見た時、余りにも断層が多いので万が一の事があれば何処にいても安全な所は無いのではと思った。裏手の家が公開される為にそのままにしてあったが家人は無事であったろうが大変だっただろう。私の住んでいる所はハザードマップによると津波の被害にあうことが大で、山のほうに逃げても、地盤が弱く土石流が起きると書いてある。いったい何処に逃げればいいのか

阪神の地震と同じ大きさの揺れを体験したが、立っては居られない。その揺れが来る事が解っているから何かに縋って構えているから良いものの実際、何時、何処で起きるやら解らない。パニックになってしまうだろうと思った。

外の鎮魂のモニュメントに行き、いつものごとくお清めして、又ノワタリさんは、歌い般若心経と光明真言をあげて御参りした。

その後、イザナギ神宮へタクシーで行った。タクシーの運転手さんはあちこちガイドしてくれながら走った。境内に入ると、とても気持ちの良く、それまでの何か重い気が薄れていった。拝殿の前に立つと同時に、中で御祓いを頼まれた人があり、雅楽が聞こえてきて、祝詞を神主さんがあげ始めた。何か私達の為みたいで得した気になった。

境内を歩いていると、根が一つで幹が二本に分かれた夫婦の大楠と言う立派な御神木があり神社に祀ってあった。境内の売店からとても良い香りが漂っていたのでそのお線香を買ったが、さすが淡路島は線香の産地らしく、お値段も手ごろだった。

その後、バスで神戸に引き返そうとしたが、の時間には遠く、外には誰も歩いていない、もいない。当然タクシーも拾えず、写真屋さんに入り、タクシー会社のを調べて呼んでバスターミナルへ行った。

 

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