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一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

阪神淡路慰霊の旅2005年4月その2

2009-11-23 10:14:02 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

保久良神社岩群

その日、神戸に着いてから金鳥山の中腹の保久良神社に向かった。もう暮れかけていたが、散歩に来た人たちが疎らにいた。境内は綺麗に修復されてあり、折れた鳥居の石は並べて在ったが、古くから「灘の一つ火」と言われた石灯篭も飛んだと書いてあった。そこは大阪湾までずっと見舞わせる眺望の良さだった。古代の祀場の後があるという境内はしめ縄のある磐座と岩が点在して不思議な場所だった。冬の朝、6時前でもお参りや散歩にこられた方が犠牲になったと言う。

お参りした後、麓の岡本の学生街の喫茶で一息つき、今日は終了。

宿にしている三宮のビジネスホテルから、美味しい神戸牛を頂こうと外に出たが、宿代よりもずっとお値段が高いのでびっくりした。年がら年中、動いている私達は贅沢は出来ない。ずっとリーズナブルな三田牛のお店で頂く事にした。週末のレストランは若い人達でほぼ満席だった。せっかくおしゃれな神戸に来ても買い物も、観光も無い旅である。後で妹に言うと、「その辺には安くて美味しいお店が沢山在るのに」といって笑っていた。

翌日曜日は阪神電車沿いの墓地や記念碑のあるところを周っていった。その中の墓地でノワタリさんに観音経の経本を頂いたので、つまりながら、観音経も唱えて行った。

芦屋まで来た時、津地町は1件のみ半壊も倒壊もせず、後は被災したと書いてあったが、道は綺麗なタイル張りになり、大方の家が新しく整然と建っており、公園の石碑を見なければ被災したとはわからないほどであった。前日、バスから見た長田とは大きな違いだと感じた。

電車を乗り換え、阪急で伊丹に着いたときは2時近くになっていた。昼食を取る店を探し駅ビル内を歩いたが、空きスペースになっている所が多かった。不景気と震災のせいだろうか?

昆陽池公園までタクシーで行ったが、出入り口にを数台見かけた。何か事件でもと思ったが、集会があり公園の中は沢山の人だった。広い公園内を石碑を探して歩き回った。1時間以上歩き回り暑さで疲れ果てた頃、池の側に黒い御影石の石碑を見つけた。思ったよりも小さな物で「あなたの思いを灯してください失った命の数をろうそくの灯火にこめて」と彫ってあった。周囲の喧騒の中私達はその前でお参りし、ノワタリさんは歌を歌われた。

公園を出て、タクシーを拾おうとしてもなかなか見当たらず、探しながら歩いた。やっと拾ったで、最後の目的地山田神社へ行った。住宅街の曲がりくねった細い道の中に人気も無くひっそりと佇んでいた。ここも鳥居が崩壊したと言う。お参りして今回は終了。

少し時間があったので、近くの湯の華廊と言う新しいスーパー銭湯に案内してもらい旅の垢を落とす事にした。有馬温泉?のような茶色い色をした露天風呂や塩サウナがあった。そのサウナに入ると、知らない人でも順番に背中を塩でマッサージしてくれた。さすが関西の人、分け隔てなく人なつっこく「手が届かないだろうから、あんたも後の人にしてあげて」と言われ、来る火来る人が背中をさすりあい和気あいあいとした。私の田舎にも出来たが、互いに知らない人には知らん振りで、私はバスブラシで背中をこすっている。

さっぱりした後、午後5時半頃、JR猪名寺駅から新大阪に向かい、ノワタリさんとお茶を飲んでお別れした。

翌朝、帰宅してお昼のニュースを見てびっくりしてしまった。JR福知山線の事故である。1日ずれていて周り方によるとノワタリさんも遭遇したかもしれない。背筋が凍りつきそうだった。だから、日曜までと念を押されたのだと思った。

この年、6月沖縄、8月広島と慰霊の旅が続いた。後でノワタリさんと話して気付いたが、震災が10年目、大戦から60年だった。

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