Wake Up !

一人のヒーラーさんとの出会いから、私の世界が変わっていきました。

インフルエンザから

2009-08-19 21:23:57 | 日々のつぶやき

窓を全開にして寝ていたら、夏風邪を引いたのとお盆の疲れが出てしまい16日は1日中横になり休んだ。やっと昨日あたりから気分もよくなってきた。

気づけば、今年ベランダで生まれ育った4羽のツバメの姿も見なくなり、旅立ったみたいだ。昨年は巣をヒヨドリに襲われ、卵が割れてしまったが...。

うちで生まれた子ツバメたちはベランダや前の電線に止まり毎日、ピキピキと賑やかにさえずり、私がベランダに出ると大きい声で、ピィーピィーと警戒警報を出し、4羽が一斉に飛び回った。どちらが主かわからない有様だったが、いなくなると寂しいものだ。もう秋が近いのかな?

今日、治療中の歯の仮歯がとれ、前歯なので、みっともないのですぐさま直してもらった。

それが原因かどうかは解らないが、7年前の12月インフルエンザになった。金曜の夜の事でひどい頭痛と震えの来るような悪寒、翌日、病院に行けば良かったものの、行く気力もなく、寝ていれば良くなるだろうぐらいにしか思わず、月曜日まで我慢した。さて、病院へと出かけようとしたら、保険証が見当たらないのでまた、やめた。その2日後、保険証は引き出しの奥に落ちているのに気づき、近くの病院へ行った。

受付のお姉さんが、「今日はよした方がいいですよ。明日の先生の方がいいと思います。」などと、変な事をいうが、「今日まで我慢したのだから、是非に」と言って診察してもらう事にした。でも、その時は39度あった熱は平熱にさがっていた。

医者は受付の言うとおり不親切で、ろくに診察も検査もせず、点滴をしないどころか、薬さえださなかった。

結局、私は熱が出たり、下がったりの繰り返しで、2週間近くかかって、治まったと思った。おばかな私は自力でインフルエンザを治したなどと自慢げに言っていたが、後で知り合いに聞くと、私のように金曜日の夜に発病し、インフルエンザの菌が脳に付き月曜に病院に行ったが手遅れで、亡くなった人があると聞き、ぞっとした。

その半月後、お正月の3日、差し歯にしている歯の根元がじくじくして痛い。虫歯でもないのになぜだろうと思っていたが、痛みが引くとぽっこリ根元に膿がたまり膨れていた。歯医者に行くと、「差し歯をのけてからの治療だが、別段悪いものでもないから直ぐ治療をする事もない。」と言われ、昨年までそのままにしておいた。

インフルエンザの高熱はそれだけで済まず、その半月後には帯状疱疹がでて、3月になっても本調子にはならなかった。ろくに治療をしなかった代償は大きかった。

私が通っている歯科医も腕は良いが変人で、受付も助手もいるのに掃除が行き届いてなく、数年前行った時は、面食らうほど汚なく笑いそうだった。窓ガラスは割れて小さな穴があり、器械は旧式で、うがいコップは自動で水が出ないので、口いっぱい水を含み、足りなくなって替りを頼むと、ゆすぎ方が悪い注意をされ、器具を置いてあるステンレスのテーブルは白い紋々だらけで、背もたれの椅子を倒され仰向けになり天井を見ると、隅にくもの巣がはってあり、止めは丁度上にはくもの糸に埃が付き鼠色の紐状のものが下がっていた。どんな感じでいつ誰の上に落ちてくるのだろうと想像するだけでおかしかった。

が、そのくもの糸も落ちることなく、ストーブの近くに殺虫剤スプレーを置いていたのが原因で小火になり、改装されて綺麗になった。それでも保険所に連絡した人があったらしく、昨年久しぶりに行くと、受付に大きく「当医院は衛生的で滅菌消毒してあります。」と言う張り紙がしてあり、大きな箱型のHISの空気清浄機が置いてあった。しかし、新式の器械になってもステンレスの小さなテーブルは以前のままだった。

昨年、歯茎の膨らみが大きくなったような気がして治療を始めたが、思うように進まず、友人に聞くと「切開するほうが早い」と言うので、切開してくれるように頼んだが、受け入れられず、日赤か大学病院の口腔外科に紹介状を書いてくれるように頼んでも、「これは歯医者の領分だ」と言って、取り合ってはくれなかったが、もうどこか他に替わろうかとも思っていたら、やっと1年経って膿が出始めた。根性と同じく歯の根も曲がっているのかしら

 

 

 

 


最後の花火大会の町

2009-08-15 09:42:22 | 日々のつぶやき

今夜は最後の花火大会であるが、天気予報は残念今日は午後から雨。

1番のスポンサーだった建設屋も昨年潰れ、商店街戸を下ろした店が多くもうその元気はない。

漁師町から漁師がいなくなった町は哀れなものである。稼ぐ人も、使う使う人もいない。

大手のチェーンのファミレスが出来た途端、新鮮な食材を使うレストランも食堂も少なくなり、外食する事も減った。当然、喫茶店もない。たまにはワインでも飲みながらゆっくり食事したい物である。

今年の春、この町の産業従事者の数を調べると、予想に反して、第3次産業に従事している人が多かった。なぜ???、この町にはそんなサービス業はないがと思ったが、(漁師が減っていくのと比例して、水商売の店はなくなった。)ありました介護施設とヘルパーさん!

1次産業が多いだろうと思っていたが、農家も高齢化し、みかん畑も場所の悪い所は放置されている。作物の代金を農協に取りにいったら払うほうが多かったと言う話も時々聞く。

昨今の重油高と魚価が安い為、残っていた漁師も漁にでなくなり、その数は100人余りしか居らず、かっての10分の1以下だ。

全国地方はそんなものだろう。それに輪をかけて、介護保険と後期高齢者の医療制度はひどい。本当に必要な人には適用されていない事が多い。

この保険制度が出来るまで、働いて自分の足で歩いていた人が、施設を渡り歩き在宅中は車椅子で家事をしてもらい、入浴もさせてもらっているかと思えば、1日中テレビを見て動かず、食べるだけ食べて肥満になったおばさんなどは、毎日ヘルパーさんが来ている。病気や怪我は仕方がないが、自分の健康管理が出来るよう寝たきりにならないような指導のほうが良いと思うが...

確かにその制度が必要で恩典に預かった人も多いだろう。

が、極端な話、悪用とも取れる話もある。母の友人の一人など、ぼけてもおらず手足が不自由でもないのに、お盆の間のみ施設に入れられている。

兄弟親類を帰省させないためだ。その家には仏さんも居られるのに、ひどい!

私の両親は共に大正生まれで父は86歳、母は83歳でペ-スメーカーを埋め込んでいるが、まだ介護保険のお世話になった事はない。毎日父は仕事をしながら、健康の為水泳に通い散歩し、月に数回のゴルフを生甲斐にしている。車の運転だけはお願いして、近く以外は止めてもらった。

気力で生きている気丈な母は「万が一、ぼけたら柱に縛り付けてもいいから(徘徊したら)施設には入れないでくれ。」と言う。「そんな事をしたら私が老人虐待で捕まってしまう」と言うと、本当に友達二人来ている時に、それを言い 「証人が出来たわよ。」と母は言った。母は脚を鍛える為、朝晩四股を踏んでいる。

両親ともに、厚生年金の振込みを見る度にため息をつき、介護保険の明細を見ると、使用してない人に対しての恩典を付ける様にならないかとぼやいている。みんなわずかの事で扶養家族にする事もできない。

父は6年前、社会保険の健康診断で初期の胃がんが見つかったので、大事にいたらずに済んだ。が今はそれも受けられない、なんか矛盾している。早期発見、治療で助かるのにその機会をう奪っている。父は「本当に早死ね保険だ!自分の年齢の人たちは戦中戦後一番苦労したのに」と、いつも憤慨している。

退院した後、貧血を起こし転倒して怪我をした為、近くの病院に行ったがそこがまた儲け主義!数年前に健康診断で引っかかった時、大腸の2時検査で行ったが院内の病棟を歩かされた。寝たきりの人ばかりでアーアーとかウ~ン、ウ~ンという呻き声しかしなかった。ドアが開けっ放しになっている部屋には管だらけの老人がいた。

その医者が次から次と病気をこしらえて来る。「今度は何?」と聞くと、「カルシウム不足でこれから週に3回点滴に来るようにと言われた。」と父は凹んでいた。

値を聞くとたいしたことはなく「その年齢だから多少どこかは基準値に足らない事は仕方がないだろう。」と私達は鼻先で笑った。父の食事の量とアルコールの量を見れば、老人とは思えないし、あれこれと体の弱かった母は薬草茶を飲んだり、食事に気を遣っている。

お盆にいり、姪が両親の顔を見にと一晩泊まりでやって来た。口の悪い母は「お小遣いもらいによ。」と言いながらも喜んでいたが、心優しい姪は本当にずっと両親の居間でおしゃべりをして何処にも行かず、相手をして帰った。いる間はジジとババ喜びもあって圧倒されるくらい元気だった。

いろいろぼやいたが、3人元気で暮らせる事はあり難い事で幸せだとつくづく思う。

 

 

 

 

 


アジサイが咲いた

2009-08-09 19:43:45 | 日々のつぶやき

6月にはたった1輪しか咲かず、水をやらないと うなだれていた額アジサイが一昨日5輪咲いた。

4月から、6月まで雨は降らず、空梅雨で心配したが、このアジサイが咲いたのも台風による雨のせいだろう。

うちだけではなく、近所のアジサイも綺麗に咲いているのを見かけた。

今日は大雨、また新たに咲き始めた。

今年は 蝉の鳴き声がするのも遅く、本当におかしい。

私の生まれた年、梅雨明けは8月に入ってからだった。その年洞爺丸台風が上陸し多数の犠牲者や被害が出たと言う。チエさんが生まれた日がそれに当たり、お父さんは雨戸を必死で押さえたと聞いた。うちも水害に遭い、家が潮に浸かったと母が言っていた。今年は7月末だったが、それからの天気もはっきりしない。

妹と話しても、最近 台風が来ないけど、今年は大きいのが来るのではないかと気にしていた。

台風と言えば、香港に行ったときも、妹は数年前に家を新築して、わずか半月で駐車場の屋根が飛ばされたことがあり、台風6号が彼女の住んでいる地方の方向に進んでいたので、たいそう心配していた。落ち着かないので、で連絡すると、「それた」と聞いて安堵していた。

が、その台風は紀伊半島に上陸し、私が帰宅すると母が「NHKのニュースでね。この間行った玉置神社の御神木の杉の木が台風で倒れたと放送したよ。」と言った。

考えすぎかもしれないいが、玉置神社のことをネットで調べている時に平井和正の「地球儀の女神」と言う本の後書きに「この山はこの世の終わりが来るときに初めて開かれるハルマゲドン神社なのだ...」と書いてあるのを読んでいたので全国版のその時、ニュースに名前が出る事だけでも、言いようのない不安を感じた。


香港マジカルツアー2004年とヒスイのネコ

2009-08-08 08:53:55 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

黄大仙廟にて

その翌日は知り合いの癌の娘さんの病気快癒の祈願をする為、黄大仙廟と言う古い寺院に行った。現地の礼法に則り、線香を3本供え 炎天下の中地面に跪いて祈った。

周りを高層ビルに囲まれた中国庭園や龍の模様のある城壁を散策した後、近くのレストランに行った。この日は、香港を熟知していると言う女性は別行動で居らず、ガイドブックが頼りで注文をしようとしたら、店の給仕の人たちが、自分達が出ていると言ってガイドブックを見て喜んだ。そしてお勧めを教えてくれたり、入り口のデザートの陳列に連れて行ってくれ、「イチバン、イチバン。」指差しながらと言っておいしいものを進めてくれた。こちらに来て初めて暖かく客扱いをしてもらった。

後ろのテーブルでは何か祝い事をしているらしく20人近くの人がテーブルを囲んでおり、店全体が和やかな雰囲気であった。こうも感じが変わると食事も美味しくなるのかしらと思った。

午後は自由時間で、妹とホテル内のテナントを見て、外に出るとフィリピンの女性たちが、数百人集まっているのに驚いた。メイドをしている人たちらしく、親睦と情報交換の為、集まっていたらしい。

近くのショッピングモールやパシフィックプレイスに行き、買い物をするつもりでいたが、二人とも、何故かもうその気は失せていた。今回も自分に買ったのはネコの置物だけだった。

その夜は、ホテルの上の階のレストランで、夜景を楽しみながら、食事をした。

窓際の席に着いたノワタリさんは、「誰かがいる」と言って、Kさんと席を替わったが、それは女の人らしかったが、しきりに寒気がするといって、気にしていた。

グラスの中のネコ              

 その原因は私の買ったヒスイのネコだった。ノワタリさんは真ん中で髪を分けたその昔の女性が泣いていると言う。ネコを清める為、グラスに水を入れて回りに鈴を置いたが、一晩ではどうしようも出来ず、周りに小銭を置いて、翌朝、地方に帰るため、一足先に私と妹は一足先に帰国した。

処分してもらう為においていったネコは忘れ物だと思ったホテルの人からノワタリさんに渡され、ノワタリさんはその日の午前中ずっと浄化され、持ち帰られた。

上記のネコの写真はなぜか、2枚とも顔に白く光った涙のような粒が写った。他の写真もすべてに出ていた。

ネコちゃんはその後、ノワタリさんの部屋の御神前で狛犬のようになっている。また、出てきた女性は元々の持ち主で、戦国時代の熊本あたりのお姫様だったという。ネコに思いが強く入ってたみたいだ。帰国できて良かったと思う。もちろん、ノワタリさんの前に姿を現され、浄化されたと言う事だった。

今回の旅の写真もノワタリさんからです。

 

 

 

 

 

 


香港マジカルツアー2004年 2

2009-08-07 08:46:48 | 神社 エネルギースッポトを巡る旅

文武廟

翌朝は早く起きて、ホテルのプールで妹と30分くらい泳いだ。室内プールなので15メートルの長さもあっただろうか?他には女性が一人ゆっくりと泳いでいた。

その後、下のレストランでバイキングの朝食を取った。中華、洋食と品数も多く、昨夜のレストランと比べると静かでサービスも良く雲泥の差であった。

9階のMさんたちと会うと、その中の一人が「ネコさ~ん、私達壊れちゃった。ミニバーのお酒を全部飲んじゃったのよ~」と、上機嫌で話し、エスカルゴの形のスカートをひらひらさせて料理を取りに行った。

その後、タクシーで文武廟という道教寺院に行った。学問の神様と関羽が祀られているという。渦巻きの線香と赤い色がやたら目に付き、異国情緒たがだよっていた。

その日は最悪で、行く場所行く場所、よく言えばレトロ、骨董品、悪く言えば、盗品、

中古品の置いてある通りばかり案内され、食堂では冷淡に扱れ、三隣亡ではないか知らんと思う。

まず、ハリウッドロードに行った。店の奥には昔のお金持ちが使っていただろう黒檀に螺鈿細工のある高そうな家具があった。仏像や陶器などがウインドウから見えた。その一角の店で妹はルチルクオーツのリングを買った。その後、キャットストリートに行き、数人が古銭を買っていた。そしてこの日唯一まともな中国茶の店に行き、めいめいが試飲してお茶を買った。私は土産にローズの花茶を数個買った。

それからが観光客は足を踏み入れないような海産物干物が山済みしている問屋街の石段を上がり食堂に行ったが、案内人の態度が悪いのか、注文しても「ない!ない!」と拒否され、やっと決まったと思えば、ポイポイと箸を投げられた。

全く客扱いされず、食べても余り箸も進まなかった。

その後、地下鉄で大陸側に行き、ネイザンロードをぶらぶらした後、タクシーでヒスイ市場に行った。大きな屋根の建物の中に数百軒の小店が屋台のように並び、何もかも無造作に置いてあった。が、これも半分怪しげな物が多いと思われ、場所や品物のエネルギーをすぐ察知されるノワタリさんとkさんはもううんざりと言う顔をされてすぐ外にでていた。それでもMさんと私はヒスイのネコを買った。すると店のおねえさんは小さなネコを一つづつつけてくれた。後でこのネコが大変だったのだが...

その近くの地元の人しか行かないような店でフレンチトーストとコーラを注文したが、グラスと氷はいらない ストローだけ頂戴と言う失礼な注文の仕方だった為、店のおばさんはとても無愛想で、不機嫌だった。でも私はなつかしい昭和30年代の近所のかき氷屋さんの店に来たような気がした。(前年にサーズなんかあったからかしら)

その後、男人街、女人街に行った。通りの真ん中まで衣類や小物などがすごい量商品の山の露天が並んでいたが、外国人の観光客などはいない。はぐれないように用心して固まって歩いた。出口近くの店で、風水盤を目にした。使い方をMさんに尋ねると、「何か問う時に蓋を開けて、針が動いたら、その件は止めたほうがいいんだよ。」と言って、空けた途端、針は揺れていた。「じゃあ、買うのはよすわ。」と言ってその場を去った。

「今度こそはもっとまともな店で食事をしたい。」と案内してくれる女性にみんなが言って、連れて行ってもらったのはお豆腐のデザートが美味しくて、香港スターも来ると言う店だった。そこは広東料理の店で広く、たくさんの客はいてがやがやとうるさかった。お豆腐のデザートは大きな木桶ででてきたが、もう一つ大味で、どれもいまいちだった。

そして、スターフェリーに乗って、ホテルに帰った。確かに香港島の夜景はきれいでした。妹に「なんでこんな所ばかり行くのだろう」と言うと、彼女は「普通行けれないから、それなりに面白いよ。」と平然と言った。