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そもそも「原発の安全神話」ってなんですか?

2011年05月18日 | ニュース・報道
「世直し太郎」の政局斜め読み より転載

これに関して一度まとめて言いたかったので考察します。

よくマスメディアの人や反原発主義者の方々が多用する「原発の安全神話」と言う用語ですが、どうしてもこの意味がよくわかりません。

「原発の安全神話が信じられてきた」とか「原発の安全神話が崩壊した」とか言いますが、あまりにも情緒的、文学的、宗教的な表現で、高度な科学技術の集積である原発を表現するには似つかわしくないですね。

いつ原発が信仰の対象になったのでしょうか?やはり、現代文明を象徴する存在であり、信仰の対象にしたいのでしょうか。

(まあ、古くは映画『猿の惑星』では核ミサイルが信仰の対象にはなっていましたが・・・)

どうしても気になるのは、文字通り、原発には安全神話があったかのような既成事実化がされていますが、いったいいつから原発の安全神話が登場したのでしょうか。

もう30年以上も前から、用語だけが独り歩きしていますが、いったい原発の何が「安全神話」だったのでしょうか。

誰か公に原子力発電所行政を推進する責任者が「原発には安全神話があります。」と言及したのでしょうか。寡聞にして私はその事実を知りません。

どちらかというと原発を批判的に扱う場合に多用されますので、「原発の安全過信」がせいぜい事実としては近いところで、いきなり神話化させてしまうのは、どうも文学力に優れたジャーナリストが創った造語のように思えてなりません。

原発はその発想段階から、そもそも「安全に制御できる仕組みができる」と言った人はいたでしょうが、実際に「安全に制御できる」かどうかは、人為的ミスが介在する以上、100%安全に制御できるかどうかはやってみなければわからなかったはずです。

少なくとも
「設計段階(強度不足・設計ミス)」
→「建設段階(施工ミス・素材選定ミス)」
→「運転段階(操作ミス)」
→「点検整備ミス(操作ミス・部品交換ミス)」
→「補修段階(同前)」
→「廃棄・廃炉段階」とあり、

甚大な事故につながる原因はそれぞれの段階にあり、チェルノブイリ事故はそもそも原子炉の設計ミスからスタートしているし、スリーマイル島事故なら、運転操作ミスでしょう。

また、今回の福島第一原発ように「止める」「冷やす」「封じ込める」という緊急事態収束に向けた被災後の電源供給が出来ない事による緊急停止段階の操作ミスもあるでしょう。

これだけ多くのプロセスを全部100%クリアすることなどほぼ不可能でしょう。

もしも誰かが「いや100%安全です」と言い切ったなら、その段階で「安全過信」があったと判定する事が出来るでしょう。

事故が起きる以上、それには原因があり、起きてしまえば徹底的な責任追及が始まるのは別に原発に始まった事ではありません。

ただし、取り扱っているのが核物質であり、巨大なエネルギー量を抽出できる代わりに、いったん制御不能に陥れば、核反応の連鎖の引き起こす災害の恐怖と闘わなければいけないという点が他と違うと言う事でしょう。

でもこんな指摘はもう10年、20年とやってきたので何ら目新しさはないかもしれません。

あまり長くなってもいけないので、結論を急ぎますが、「無条件で安全」「無限に安全」と誰かが言って、その通りにならなければ神話化などするわけがなく、現実には原発誕生以来、試行錯誤の「文明実験」の中にあることは事実だと言うこと事です。

「100%安全に制御することを目指す」努力目標は存在しても、100%安全だと実証できた事実は、今回の福島第一原発被災後の対応を見る限り、結果として人為的な対応ミスが介在する以上、それは確認されていないということです。

だから、現実に存在してもいない「原発の安全神話」という言葉を使って、さも原発推進者が、原発の安全性を神話化しているかのような印象を与えるのであれば、フェアではないと思います。

原発と言う現代文明の高度な科学技術の集積した装置に、「原発の安全神話」というような優れて文学的な表現を使うのは好ましくないので、もうそろそろ止めませんかと言いたいと思います。

誰も「原発の安全神話」を創るために原発を稼働させている人はいないと思います。

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