hokutoのきまぐれ散歩

ブログも12年目、4000日に到達。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。

早春の千川上水に沿って散歩する②

2021-02-15 05:00:00 | 川と橋
千川上水を歩く散歩の2回目。武蔵野大学の前を通過して護岸がコンクリートになるが、川の幅を広くして草を植え、魚が棲む場所が作られている。



生えている草を良く見るとたくさん鯉が泳ぐ、ただ、写メが下手で右下に鯉の口が見えるだけだが、実際にはたくさんいる。



右手に武蔵野競技場が見えてくると『葭窪橋』、千川中学の向いあたりが『千川橋』と続く。



川の左手に黄色の花をたくさん付けているのが蝋梅、もう満開に近い。水仙に続きもうしっかりと花を咲かせているのである。



この辺りはまた川幅がかなり狭くなり、木材や鉄板で勝手に作った橋が幾つも見ることができる。次の関前橋までには距離があるから致し方ないが、危ないかも。




関前橋では再び暗渠となる。ここを左に折れると青梅街道だが、川沿いに歩く。大通りと別れるため、急に静かになる。



歩道は右側のみとなり、少し盛りを過ぎた椿の赤い花を見ながら進む。ちょうど護岸を工事しているが、途中にいくつか名前のない橋を通過していく。



練馬区に入ってすぐに西窪橋を通過。コンクリート橋だが、趣がある。左右に集合住宅が立っているが、高さ制限があるのか、あまり気にならない。



目の前に少し広い通りが出てくるが、この橋が『更新橋』。橋の横に古い庚申塔が祀られている。



祠の中は暗くて良くわからないが、青面金剛像が彫られ、忿怒の形相をし、6つの腕を持ち、足元の邪鬼を踏んづけていると案内板にはある。それにしても更新橋と庚申塔、どこかで間違えたのか、わざと音を同じにしたのかは分からない。

その先も左右の風景はあまり変わらないが川の南側の住所は『武蔵野市吉祥寺北町』となっていて北側が練馬区、つまり市境なのである。



『西浦北橋』『北裏橋』『桂橋』『東北浦橋』など名前のある橋と同じくらいの数の名前もない橋が続くが、住民が増えたために新たに作られた橋も多いのだろう。



さらに歩くと急に道が狭くなるがここにかかっている橋が『吉祥寺橋』。思わず道はないかと探すがちゃんと細い道が川に沿ってある。



この辺りは大きな農家の横を川が通っていて4〜50年前は全てがこんな風景であったのではと思わせてくれる。左を見ると収穫が終わったキャベツ畑、隣はネギ畑。右側は大根が収穫を待っている。





川幅は細くなり、橋というかエントランスの延長か分からなくなり、車が駐車している所すらある。と思っているとまた暗渠、出てきたと思うとまた暗渠となり、ついに見えなくなってしまう。ちょうど吉祥寺通りに出たので今回の散歩は終了。

歩くたびに川の風景、周りの風景が次々と変わる楽しい散歩となった。歩いた距離は4.6km、1時間15分くらいであった。

早春の千川上水に沿って散歩する①

2021-02-07 05:00:00 | 川と橋
久しぶりに川に沿って橋を巡る企画にチャレンジ。去年の夏から腰から来る足の痛みで長い距離の散歩を諦めていたが、症状も落ち着いてきたことから早速スタート。


あまり遠出も出来ず、玉川上水と千川上水の別れるあたりから千川上水沿いの遊歩道を歩くことにする。吉祥寺駅からバスで15分、境橋で下車。



まずはその分岐点に行く。直角に千川上水は分かれているが、その場所はいい釣り場らしく、ひとりお爺さんが釣り糸を垂れている。何が釣れるかを聞くと、ハヤ、ヤマベ、時折ウナギだとのこと。



分岐点を確認し、信号を渡り、ようやく五日市街道の真ん中に作られた遊歩道を歩き始める。分岐点からしばらくは暗渠だったが、大きな石碑の前から開渠となる。

人工的に作られた水路だけに真っ直ぐ、この辺りは川幅も狭く、飛び越すことが出来そうな幅である。



欅の葉が全て落ちて心地よい落ち葉の弾力を感じながら行くと最初の小さな橋。『蛍橋』と名付けられている。



隣の樋口橋を越えると関前5丁目交差点。ここは井の頭通りの起点となっているが、遊歩道は一旦途切れ、五日市街道を渡り、また、井の頭通りを渡り、さらに五日市街道を渡らないと先にいけない。



千川上水は両岸に生垣があり、川面が一旦見えなくなる。柳橋で武蔵境通りを越してまた遊歩道に戻る。この辺りは植えてあるのは桜だろうか、手前の木に比べて幹が太くなって来たような気がする。



ただ、相変わらず両側に五日市街道、車が途切れなく走るその真ん中が千川上水遊歩道となっていることは変わらない。



鎮守橋というなんとも可愛らしい橋を越えたあたりには水仙が群生。殆どが茶色の世界の中に緑の葉を伸ばし、白い花を見ると愛らしく思わず眺めてしまう。



五叉路の大きな交差点(武蔵野大学前)の横には石橋供養塔なる石碑がある。五日市街道と千川上水が交差するこの地には古くから井口橋と呼ばれた橋が架けられていた。元は木の橋だったが、安政年間(1841年)に近隣住民の力で石橋に架け替えたことを記念する石碑である。

ここからは水路のすぐ横を歩くことができ、また、階段が作られていて水面に触れることもできるようになっている。(以下、次回)




玉川上水の橋を巡る②

2020-05-02 05:00:00 | 川と橋


『ぶらり橋巡り』その102。玉川上水を境橋まで歩いたが、ここで桜橋まで桜通りを引き返す。上水と反対側を歩くが農園もあり、また、民家の藤が綺麗に咲いている。
桜橋を渡ると境浄水場の入口がある。ここから浄水場に沿って歩くが、歩道も広くなり歩きやすい。土手にはまだ八重桜が花を付けている。




次の橋は青く塗色されているのが『松見橋』。近くにはクルミと思われる大木が生えていてイモムシのような花が垂れ下がっている。



さらに行くと『大橋』が現れる。案内板には『江戸時代に玉川上水ができて武蔵野市に作られた橋は保谷橋、新橋と並びこの大橋であった。(中略)この橋を通る道は大正7年に境浄水場ができるまでは西北が田無を経て青梅・所沢、南は調布5宿を経て横浜街道と称していた。』でいった趣旨のことが書かれていて大切な道であったことが分かる。



平成29年に全面掛け替えが行われたが、親柱は昭和7年のものが使われていた。



武蔵境通りに出るがここに架けられているのが『いちょう橋』、こちらも武蔵境通り拡幅に伴い掛け替えられている。



通りを渡り、いちょう橋と並んでいる人道橋『ぎんなん橋』はかつてこの北側にあった武蔵野競技場と三鷹駅を結ぶ鉄路の路盤上に建設されたもの。武蔵野競技場線は1951年開業した武蔵野グリーンパーク野球場への乗客輸送を目的に同年4月に三鷹〜武蔵野競技場前3.2kmが開通した。最初の頃は国鉄スワローズの主催試合や東京六大学な試合(当時は神宮球場が占領軍に接収されていた)が行われた。



(昭和30年1月時刻表から)
しかし、目論んでいたプロ野球チーム本拠地誘致に失敗、プロ野球開催は1951年1年のみであり、その後は球場も使われなくなり、1956年に解体、鉄道路線も1959年11月に廃止された短命な路線である。



ぎんなん橋に鉄路が残されているのはこれを記念するもので、さらに橋の袂には案内板がある。殆ど当時の面影はないが、この廃線跡も一度歩いてみたいと考えている。



西久保公園の横を通り歩き続けると左側から広い車道が現れ、これを越すと再び上水が顔を出す。



三鷹駅手前、欅橋の手前には『庚申塔』、1729年に作られたものらしい。欅橋は昔風に作り直されているが、上水は暗渠となり中央線の下を通過していく。三鷹駅付近は親水公園のように整備されていて緑の多い駅となっていた。








玉川上水の橋を巡る①

2020-04-30 05:00:00 | 川と橋


『ぶらり橋巡り』その101、今回は玉川上水を歩く。スタートはJR中央本線武蔵境駅、駅も高架になり、立派になった。南口と北口の間に自由通路もでき、北口側に行く。駅前ロータリーを抜けて『すきっぶ通り』と名付けられた商店街を北に向かう。商店街は一部休業している店もあるが、結構な賑わい。



商店街を抜けるとそのまま北に武蔵境通りが伸びる。ちょうど白やピンクのハナミズキが見頃で美しい。まだ古い店や空き地もちらほら、のんびりとしている。


少しいくと玉川上水に出くわすが、この橋が桜橋。上水沿いに桜が植えられていて比較的新しい橋だが、これは武蔵境通り拡張に伴い平成11年に架け替えたもの。

その国木田独歩の文学碑が左側に建てられていて『武蔵野』の第6章の書き出し『今から三年前の夏のことであった。自分は或る友と市中の寓居を出て三崎町の停留場から境まで乗り、其所で下りて北へ真っ直ぐ四五丁ゆくと桜橋がある。』と彫られている。



玉川上水に沿って上流を目指す。堤にある歩道は大きくなったソメイヨシノが邪魔をして歩きにくい。



歩道にはタンポポの黄色い花だけではなく、ツリガネニンジンやダイコンの紫色の花やイフェイオン(はなにら)の白い花などがたくさん咲いていて美しい。



次に出てきた橋が『独歩橋』、昭和44年にかけられた。国木田独歩から名前を取った小さな橋である。



また、すぐに橋が出てくるが、これが『うど橋』。地元の名産である独活(ウド)は江戸時代吉祥寺で栽培が始まったと言われている。橋のたもとには『今から180年前(天明5年頃)より土地の人々は薪炭を作り、また落葉の温熱で軟化独活特産地として有名になった。このたび由緒ある玉川上水への橋をかけられるにあたって特産地の名をとどめるため独活橋と命名されたものである。』と刻まれた石碑がある。

この石碑は昭和40年3月25日とあったが、白い石に刻まれていて現地ではよく読めなかった。



この辺りぬ何らかの理由で切り倒された木がいくつもあり、これが腰掛けるのに良い高さに調整され、天然のベンチのようになっている。



少し歩くと水番屋の跡がある。江戸時代は上水を保守管理をする役人がいた詰所で明治に入り水衛所に名を変え、淀橋浄水場廃止に伴い、昭和55年に廃止された。その先には玉川上水の石碑がある。



『境橋』がすぐのところにあり、五日市街道と交差する。さらにここで千川上水が別れ、玉川上水は北に向かって流れていく。(以下、次回)



旧隠田川を遡る②

2020-04-21 05:00:00 | 川と橋


『ぶらり橋巡り』その100。隠田川跡のキャットストリートを歩く。隠田橋を越えると右手に隠田商店街の地図か出てくるが、その規模の大きさに驚かされる。階段を数段上り。表参道に出るが、ここに『参道橋』の親柱がある。




歩道橋を渡り、反対側へ。表参道ヒルズの横を通り、そのまままっすぐ行く。少し道路は高いところを通っているようで再び階段を数段降りる。




表参道から一本入ったあたりだが、大きな建物が多い。一本のサクラが満開となっていて姿をしばし眺める。この辺りにもブティック、さらに気がつくと時計を売っている店も多い。




商店街は原宿神宮前商店街に変わるが、道は相変わらず細くグネグネとしている。蔦が絡まるアパートの横を通るが、ここでやや広い通りを横切る。後で調べると川跡は左に行くのだが、ここで私は右に曲がり、外苑西通りに到達。実は隠田川はこの先、千駄ヶ谷を通り、新宿御苑に通じていたのである。




外苑西通りからはできたばかりの新国立競技場が見えるが、反対側に渡り、まっすぐ行くと青山熊野神社、青山の総鎮守である。




1644年に徳川家邸内にあった御宮をこの地に移したもので元は熊野権現と称していたが、明治になり、青山熊野神社となった。
少し戻り、青山通りを目指す。




途中には赤い山門に特徴がある黄檗宗の海蔵寺の前を通る。青山通りを左に曲がると東京メトロ外苑前駅、結局2駅分を歩いたことになる。







旧隠田川を遡る①

2020-04-19 05:00:00 | 川と橋


『ぶらり橋巡り』その99。今回は廃川跡、渋谷川の上流にあった旧隠田川を遡って歩いてみたい。旧隠田川というと聞き慣れないが、渋谷〜原宿に掛けて続く裏原宿とも呼ばれる『キャットストリート』が暗渠の上に作られた遊歩道である。現在の渋谷区神宮前は原宿、竹下、隠田の3つを統合して1965年にできたのである。




スタートは宮益坂下から新宿方面に少し歩くといかにも川の跡にできた通りが現れる。渋谷川は以前に散歩で歩いた稲荷橋より上流は暗渠化している。宮益橋(JR渋谷駅あたり)があったが、このあたりで宇田川と合流、それより下流が渋谷川となる。上流は隠田川と呼ばれていた。今回はキャットストリートの入口にあった宮下橋跡から歩き始める。


キャットストリートは裏原宿とも言われる有名ブランド目白押しのお洒落な通り。隠田商店街になっていて少し歩くと渋谷教育学園渋谷高校(略称、シフシブ)がある。




江戸時代には大きな水車で脱穀などをやっている風景を安藤広重が絵にしたのはこのあたりと伝えられている。


また、隠田の名前はすぐ裏にある隠田神社に残されている。




若者向けのトミーヒルビガーやアンティークのクロレックスが並ぶあたりからは道端が狭くなり、また、道路に重さ制限の標識が出てくる。




さらに道は細くなり、ラルフローレン、リーボック、ティファニーなど銀座と変わらないブランドショップがならぶ。




ここで植え込みの植物の中を古い橋の親柱を発見、よく見ると『隠田橋』と書いてある。小規模な古着屋が増えてくるが、なんとなくお洒落なのは流石に原宿である。


(以下、次回)




旧葛西橋を目指して

2020-02-21 05:00:00 | 川と橋


『ぶらり橋巡り』その98。色々と街歩きをしている中で『旧〇〇』という構築物や川、橋などにぶつかると唆られる。JRの駅名にも旧が頭につくのは廃止されてしまった石北本線の『旧白滝駅』ひとつだけだったことを思い出した。


その流れで今回は『旧葛西橋』を訪れてみる。行き方は都バス秋26系統秋葉原駅〜葛西駅に乗る。今回は清澄白河駅から乗車、清洲橋通りをひたすらまっすぐ走る。




途中、白河、境川、亀高橋などを通過、旧葛西橋交差点を右に曲がったあたりがバス停。




少し戻り、右に曲がるが、4車線が2車線になる。周りはやはりハゼ釣りに来る人が多いのか、釣具屋が急に増える。




その先は土手になっていて越えると広々とした荒川が見える。対岸には高速道路が走り、雄大な風景だが、実は先ほどの清洲橋通りの延長上に1963年までは葛西橋が存在していたのである。


前の葛西橋つまり旧葛西橋は1928年に荒川放水路完成と同時に作られた片道1車線の橋長549.5mの橋であったが、橋脚が木製のために1950年に一部損壊し、300m下流の新橋完成後取り壊されたのである。




そのため、かつてあった橋のことを偲び、さらに都電29系統の終点があったことから旧葛西橋という地名となり、現在に至る。交差点やバス停には名前が残されている。



荒川の土手に沿って川下の葛西橋に向かう。葛西橋は全長727m、幅員15mの桁橋(吊橋のように見えるが吊材は補鋼材である。)の大規模かつ美しい形状の橋である。


さらに下流には清砂大橋という美しいハープ橋を臨むことができる。天気も良く、やはり橋の近くには魚が多いからなのか大勢の釣り人が竿を垂れていた。






目黒川沿いの橋を巡る(5)

2019-12-11 05:00:00 | 川と橋

『ぶらり橋巡り』その97。目黒線の高架を越えると住所は『目黒区下目黒』となる。川沿いには高級『高層マンションが林立していて低い建物は殆どなくなる。対岸を見ると大きな岩がゴツゴツした場所になり、その先には目黒雅叙園、さらにアルコタワーと超大型物件が並んでいる。

川沿いには桜が植えられていて葉っぱが西日を浴びて赤く光っている。亀の甲橋、目黒線高架橋を越えると橋が暫くない。


ようやく出てきた橋が『太鼓橋』、名前ほど真ん中が高くはなっていない。実は1769年に初めて作られた橋が石橋であり、歌川広重の絵にも残されるような立派な橋であった。

しかし、この橋は1920年9月の豪雨で流されてしまい、その後2回架け替えられ、今の橋は1932年に作られた鉄橋を1991年に改修したものである。


太鼓橋を越えると左側に城のような建物があるが、これがあの有名な目黒エンペラー。1973年開業でその豪華な造りから一時は日本一有名なラブホであった。昼間に見ると塗装も日焼けしてやや寂しいがシンデレラ城のような風貌は変わらない。


その先は少し上り坂となり、立派なアーチ橋が見えてくるが、これが目黒通りに架かる『目黒新橋』である。立派な親柱と聖橋のような美しくフォルム、長さ25.7m、幅員22mある開腹アーチ橋。1933年に完成、近代土木遺産にも指定されている。


この辺りが権之助坂の底になる場所で橋のたもとには権之助坂の説明した青銅の碑が建てられているが、残念ながら裏に何と刻まれているかはよく読めない。


ここから目黒駅に向かうが標高差20mを登らなくてはならない。すぐに権之助坂商店街アーケードが始まるが驚くのは中華料理店とラーメン屋の多いこと。まるで中華街のようである。


目黒駅前にも鉄橋、これは山手線に架かっているものだが、ちゃんと『下目黒橋』と名前がつけられていた。

目黒川沿いの橋を巡る(4)

2019-12-07 05:00:01 | 川と橋

『ぶらり橋巡り』その96。目黒川沿いの橋は中目黒〜大橋は歩いたが、今回は五反田〜目黒を歩いてみる。JR五反田駅を出るとすぐ目黒川に出るが、架かっている橋は『大崎橋』、なぜ五反田橋じゃないのかが気にはなるが、もとはこの辺り全てが大崎と呼ばれていて、古くは江戸時代の新編武蔵や風土記稿にもこの橋は登場する。


ここをスタートに川上に向かって歩く。川幅は広く、桜の葉も赤く色づいている。国道1号線に架かる橋が『五反田大橋』、すぐ先の人道橋『本村橋』とはすぐの位置にある。


橋のすぐ横に人だかりがしているが、これは喫煙所に集まる人々。最近はタバコを吸うのも大変である。

その先に大きな古い屋敷があり、どこかで見たなと思い返す。積水ハウスが地面師に大金を騙し取られた旅館跡ということに気づく。なるほどこれは立地がいい。


少し歩くと高速2号線が上を走る通りに出るが、ここに架かるのが『谷山橋(ややまはし)』。別名が庚申橋、立会橋ともいう。


風景が開けて水の流れも緩やか、浮いている落ち葉を見ると流れていないようにすら見える。次の橋が『市場橋』、旧中央卸売市場荏原支所が1989年まで橋を渡った右側にあった。今はそれも大田市場に吸収されて、市場の跡地は老健施設となり、賑わいは失われている。また、橋のデザインの中に大八車を見つける。

隣には『亀の甲橋』、かつては市場を目指す車で混んだ橋だが、今は人道橋。目の前を東急目黒線の高架が通る。このあたりが品川区と目黒区の境界である。(以下、次回)

妙正寺池〜妙正寺川の橋を巡る(2)

2019-10-04 05:00:13 | 川と橋

『ぶらり橋巡り』その95。妙正寺川は杉並区をスタート後、早稲田通りに沿って流れていく。妙正寺橋の先は寺前橋、上松橋、下松橋と同じような橋が並んでいる。


この辺りから川は左に蛇行し、日向上橋、永久橋と続くが、永久橋で早稲田通りと交差する。川の両岸には遊歩道が整備されていて散歩する人が多いのだろう。また、ところどころに陶製のオブジェが置かれているのも微笑ましい。


また、中野区との区界までの距離が書かれている。松下下橋を越えると徐々に川は左に弧を描いていくが、このあたりで後600m。実は私が子供の頃に住んでいたのはその区界の橋のすぐ横であった。


バス通りがある松下橋を今回は左に曲がる。すぐに銀杏稲荷というバス停がある。子供の頃から気になっていたその稲荷がどこにあるのかを探してみる。うろうろしても見つからなかったが、右手奥に申し訳程度の小さな祠を発見、実はこれが銀杏稲荷。


案内板によると1616年創建の旧下井草村の鎮守であり、その境内に大きな銀杏があったことから名前が付けられた。日本橋小網町にも銀杏稲荷があるが、その2つは関係はないようである。


少し先のバス通り沿いには銀杏稲荷公園という小さな公園がある。ここには大きな木が生えていてゆったりした時を過ごすことがである。ちなみに私が通った幼稚園はすぐ先にある。私は再びバスに乗り、荻窪駅まで戻った。