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hokutoのきまぐれ散歩

ブログも13年目。ネタ探しはきついけどまだまだ毎日更新を続けるつもりです。はてなブログにも投稿を始めました。

大倉山駅付近の坂道①

2025-03-11 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その231。日吉駅〜大倉山駅付近の坂道②、日吉駅の坂巡りを終え、東横線に再び乗車する。綱島駅は通過してまずは大倉山駅付近の坂道を歩くことにした。

まずは東口の方に降りて東横線沿いの道を戻るように歩く。上り坂になっていてだんだんと高くなり、左側に線路がよく見えるようになってくる。目的地の坂は綱島街道沿いにあるため、すぐに行けるかと思ったが、右への脇道に入るとぐるぐる回らされ、ようやく階段があり、降りて団地の中を通り、綱島街道に出た。



これを左に向かって歩くと大倉山記念病院が出てくるが、この辺りが『おぼろ坂』である。名前の由来は『以前、この辺りは森が深く、霧が立ち込めるところで、夜中に道を歩くといわれもない妖気を感じることから付けられた』と言われている。



あまり急な坂道ではないが、今は往来する車も多く、当時の面影はない。近くには大曽根町という横浜市営バスの停留所があるが、大倉山駅を通るバスはなく、やむなく歩いて駅まで戻るが遠い。



大倉山駅西口に辿り着き、再び戻るように坂を登る。『大倉山』という名前は大倉精神文化研究所に由来する。坂の登り口に2009年に住居表示を大倉山に変えた時のモニュメントと碑がある。

それによると東急東横線が1926年に開業した際には地名を取った太尾駅であったが、1932年に渋谷〜桜木町が全線開業した際に研究所創設や梅林の開業などの観光開発に伴い、新たに付けられた名前である。今は研究所の建物は大倉記念館として横浜市に寄贈されたが、山の上に残されている。
研究所を作ったのは大倉邦彦という実業家、その後、東洋大学学長などを歴任したが、すべて無給でしかも多くの寄付を行なった。因みに大倉財閥とは関係ない。
この記念館に向かう坂のため、『記念館坂』と名付けられている。

東横線と並行して登り、その先は左に曲がり、さらにいくと記念館の前に出る。高低差38m、平均斜度5°、長さ380mにもなる坂道である。(以下、次回)


日吉駅〜大倉山駅周辺の坂巡り①

2025-03-01 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その230、今回の坂巡りは東急東横線日吉駅〜大倉山駅付近の坂道を歩くことにした。日吉駅に降りたのは13時過ぎ、2年ほど前にもきたが、ホームが地下に潜り、エスカレーターで1階の改札口を出る。東口は駅から綱島街道を渡るとすぐに慶應義塾大学日吉キャンパスの入口になり、左右にイチョウ並木、坂道となっている。



一方で西口は五方向に道が放射状に伸びる道路などの街づくりを東急が設計、整然としている。それぞれ『サンロード』『浜銀通り』『日吉中央通り』『普通部通り』と言った愛称が付けられていてわかりやすい。

今日は普通部通りを行くのだが、この先に慶應普通部(中学)があるからつけられた名前である。しばらくは左右に飲食店、金融機関、学習塾などが立ち並び、賑やかである。


日吉台小学校の前を校庭に沿って右に曲がっていくと坂が急になって行く。先を右に曲がった所に庚申塔を発見。左側には青面金剛像と三猿、右側は地蔵尊が安置されていた。



再び赤門坂に戻る。坂の途中には色鮮やかな赤い門のお宅が出てくる。この門が坂の名前の由来なのだが、なぜ赤く塗ってあるのが謎であった。

色々と調べると幾つかの他の方のブログに『この場所は金蔵寺の鬼門にあたる場所で、金蔵寺の檀家にあたる横山家では鬼よけとして門を代々赤く塗っている』とあった。もしかすると他にも説があるかもしれないが、一応書いておく事にする。



赤門坂の案内板がある。坂道は初めは緩やかな下りだが途中から急坂となり、長さもかなり長い坂となっている。



なお、ここから先は『関東三十六不動尊〜第5番札所金蔵寺』の方で取り上げる。

王子付近の坂道④

2025-01-19 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その229。王子付近の坂巡りの3回目。牛蒡坂を降りて都電の踏切。これを越えて道なりに行くと広い通りに出る。

これを左に行くと西巣鴨の交差点で中山道に合流、さらに少し行くと懐かしいが寂れた宮元商店街の前に出る。

入口のたばこ屋さんで左右に道が分かれていてそのいずれもが商店街らしい。右側に行くとゆるい坂となり、これが『御代の台の坂』である。



今は店の半分くらいしか営業していないが、かつては賑わっていたらしく、またこの道も古道である。ただ、坂道の案内板もなく、御代の台自体も何を意味しているのかは調べても分からなかった。

私が気になったのは今も営業している古びた食堂、『亀鶴食堂』。亀の字が半分消えかけているが、盛業中でハンバーグや鳥唐揚げ、鯖の塩焼きなど定食中心のようである。ランチがまだなら入っては見たかったが。お隣も四川料理のお店らしい。



再び中山道に戻り、右にまがる。『きつぬ塚通り』と書いてある看板があるが、これを手前の方に右折するとゆるい下り坂となる。これが『狐塚の坂』で案内板には『滝野川消防署三軒家出張所のところに狐塚があったことによる』とある。



さらに『南西向かい側の重吉弁天には1798年造立の石造廻國塔には「これよりたきのがわ(滝野川)べんてん、たきふとう(滝不動)、おふし、六阿弥陀、せんぢゅ(千住)みち」と刻まれ、岩屋弁天、正受院への参詣や六阿弥陀詣での人々が利用したことがしのばれる』とある。

フランス国際学園の先を道なりに行くと右手に滝野川八幡宮が出てくる。創建は不明だが、一説によるも1202年とも言われる旧滝野川村の鎮守であった。




また、江戸時代は野菜の種の生産が盛んで明治以降も種子問屋がたくさん置かれ、組合の会合場所としても使われていた。特にニンジンと牛蒡は有名、ニンジンは金時ニンジンのような濃い赤紅色の香りの強い品種で1mほどになる。また滝野川牛蒡は江戸時代に品種改良された長さ1mを超える大ごぼうであった。



境内は広く、まだ初詣の人が多数いて社務所で御神籤や破魔矢、御朱印などを求めていた。また、境内には大きなイチョウの木があるが、葉は全て落ち丸裸であった。



神社の前の道を行き、パス会社の車庫を左に曲がると石神井川に当たる。そのまま観音橋を渡り、まっすぐ行くと壽徳寺に向かう坂道がある。



これが『谷津観音の坂』である。寿徳寺は谷津観音という子育て観音が有名で江戸時代から参詣する人が通った坂道である。

王子付近の坂道③

2025-01-17 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その228。前回に引き続き王子駅からの坂道巡りの2回目。妙見寺坂を登り、明治通りを渡り、左へ、すぐの一里塚交差点に『ゲーテの小径』という看板がある。



これを右に曲がり、まっすぐ歩くと右側に東京ゲーテ記念館が現れた。この記念館は故、粉川忠氏により1949年に渋谷区神泉町に設立された私立資料館でゲーテの資料18万点を所蔵。1988年にこの地に移転した。



立派な堂々とした建物だが、館内の見学はコロナを機に2020年で終了していた。その向かい側には北区が作った小さな公園、ゲーテパークがあり、ゲーテの年譜や主な作品の紹介などがなされていた。



ゲーテの小径をそのまま行き、動物病院の手前を左に曲がる。突き当たりを右に曲がると幼稚園の園庭に沿って下り坂があるが、これが『熊野坂』である。



細い道は鎌倉道と言われた古道で坂上の不動院にかつてあった熊野神社に由来する。




坂を降りて左に曲がる。広い道に出て右に少し歩き、三角地が出てくるとこれを左に行く。少し開けて前に防災公園が出てきたらY字路を左に行くと緩やかな上り坂となるが、この坂道が『道音坂』(どういんさか)である。



旧西ヶ原・滝野川村の境にあたる道で明治時代の村誌によると『坂名は道音塚にあるに由る』とあり、道音塚が付近にあったためこの名前が付いたと思われる。



坂道を登り、北に向かうと都営荒川線の踏切に向かう細い道が出てくる。住宅街を通るゆるく細い坂道だが、これが『牛蒡坂』(ごぼうさか)である。



このあたりはゴボウやニンジンの栽培が盛んであったため、滝野川牛蒡から付けられたと思われる。(以下、次回)

王子付近の坂道巡り②

2025-01-15 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その227。2015年5月以来久しぶりに王子駅から坂道巡りをした。前回は音無川・王子稲荷周辺の坂道をあるいたのだが、今回は飛鳥山公園からゲーテの小径を通り、さらに西巣鴨あたりを歩く行程にした。



JR王子駅で下車、まずは王子駅のキャラクターである『キツネ王子』がお出迎え。

駅前で少し迷ったが、歩道橋を渡り、都電の電停の方に行く。都電の線路に沿って左に上る坂を歩く。



この坂道が『飛鳥大坂』、緩やかに弧を描きながら登っていく。名前の由来は飛鳥山から取ったものらしい。



すぐに『アスカルゴ』の乗り場に出る。アスカルゴとは飛鳥山の無料モノレールで高低差18m、総延長85mの斜行エレベーターであり、2009年から運転をしている。2分で山頂まで登ることができる便利な乗り物で見た目がカタツムリに似ていることから飛鳥山+エスカルゴ=アスカルゴという愛称で呼ばれている。



但し、物好きにこれに乗るお客さんは私以外おらず、1人で係員のお爺さんに送られ、無事山頂へ。青空の下、眺めは眼下にサクラトラムが走り、上々であった。



公園は桜の季節でもなく、北風も強いためガラガラ。その中で大きなサザンカが見事にピンクの花を付けていた。




本来ならば公園内にある3つの博物館(飛鳥山博物館、紙の博物館、渋沢資料館)を廻るところだが、時間がないのでパス。





代わりに展示してある王子電車から引き継いだ都電の車両とD51機関車、飛鳥山の記念碑などを見て南口から本郷通りに出る。



この辺りの本郷通りは上り坂となるが、これが『六石坂』である。説明板に東京府村誌が引用されていて『長さ24間、広さ3間、元と坂上に租6石を納る水田があり、故に言う』とある。

つまり江戸時代に坂上には150kg×6=900kgの税金を支払うほどの広い水田があったようである。



飛鳥山公園の駐車場を左に曲がると日蓮宗の妙見寺という古刹がある。寺の先が下り坂になっている。先は車が入れないほど細くなるが、この坂道が『妙見寺坂』である。



道幅はお寺の前あたりまで広いため、車が私を追い抜いていくが、先には進めず、ターンもできないため、苦労してバックで坂登りをする様子を何台も見た。(以下、次回)

あけましておめでとう〜ヘビの坂道を歩く

2025-01-01 00:00:00 | 坂道
あけましておめでとうございます。いよいよ2025年へび年となりました。最初の投稿は干支にちなみ、ヘビの付く坂道を集めた
『東京の坂、日本の坂』(特別編)にしてみました。坂のブログは226回書いているが、へび坂(蛇坂)と名付けられた坂道はかなり多い。今回は当時の写メを使ってこうした坂道を見ることにした。

まずは港区高輪にある蛇坂(訪問・2016年2月)、この回では都営地下鉄浅草線泉岳寺駅で降りて伊皿子坂や魚藍坂などを歩いたのちに辿り着いた。普蓮土学園の裏手にあり、細い道だが、かなりの急坂である。



名前の由来は港区設置の看板によると『付近の藪から蛇が出ることがあったからついた』とある。

赤羽にある蛇坂は稲付城址を見たあとに行った弁天坂の先に下っていくダラダラした細い坂道である。名前の由来は北区設置の看板によると『坂の形状が蛇のようにくねっているところからつけられた』という。

さらに『蛇坂とその西にある市場坂の谷を北谷といった。谷の奥に湧き水があり、釣り堀があった。夏の夕暮れ時この谷を埋め尽くすほどヤンマが飛び交い、この坂でトンボ取りをする子供達で賑わったという』と以前は自然あふれる場所だったようだ。



世田谷区成城にある『ヘビ坂』は成城3丁目にある緑地の中にある坂道。由来の書いた説明板はなかったが、ゆるくダラダラ下る細い坂道のため、形状から付けられたようである。

最後は横浜市にある蛇坂である。この坂道に行ったのは未年(ひつじ)になる直前に名前に羊のつく坂道を探して『山羊坂』を歩きに行った際に訪れたもの。

横浜地下鉄ブルーライン阪東橋駅で降りて根岸に向かう途中あたりである。細い山道だった坂で清水が湧き、蛇を多く見つけたことから名付けられた。今は両側にマンションが建ってしまい、ヘビの抜け殻も見ることはできない。



以上4坂を紹介したが、名前の由来が『形状からきているもの』と『近くにから蛇が出たというもの』と2種類あることが分かった。地味な企画だが、私の苗字に坂が入っていることもあり、引き続き新年も新しい坂道を歩いて行くことにしたい。
最後に本年も『hokutoのきまぐれ散歩』をご愛読のほど、よろしくお願い申し上げます。

上野駅界隈の坂道②〜清水(きよみず)坂の上野大仏

2024-12-16 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その226。上野駅界隈の坂道②、エレベーターで上野公園に入ると正面に清水観音堂。



上野寛永寺は天海が開山した徳川家の菩提寺であり、当時の年号を取り、寺の名前とした。面白いことに京都を模して作られ、不忍池が琵琶湖、弁天堂が竹生島、清水観音堂は清水寺、根本中堂は比叡山延暦寺などよくできている。清水寺の様に舞台造となっていて初めはすぐ近くの摺鉢山の上に作られたのだが、根本中堂建設にあたり、1694年に移築された。

ご本尊は千手観世音菩薩像で恵信僧都源信作と伝わる。

また、舞台の前には月の形をした松が設えてあり、願い玉を投げてこの輪の中を通ると願いが叶うと江戸時代から伝わっている。歌川広重作の江戸名所百景にもこの松は描かれている。



横の石段が『清水坂(きよみずさか)』、近くに清水坂(しみずさか・都立上野高校横)もあるから間違えやすい。

階段を降りて見上げると舞台造りがよくわかる。周りを見渡すと外国人観光客ばかり、日本とは思えないほど。 

そのまま階段を降りて不忍池の方に向かう。こちらは露店も並び観光地ムード。八角形の弁天堂があり、まわりにはたくさんの慰霊碑や石碑が並んでいる。





一つずつ見て回ると『ふぐ塚』『鳥塚』『包丁塚』ほかにもたくさんある。もう蓮の葉も枯れて夏とはまた違った趣がある。弁天堂にお祈りして左に曲がる。





少し行くと右に上り坂が分かれるが、これが『忍坂』。五條天神社の参道ともなっている。秋のやや斜めになった日差しの中を歩くが、振り返ると眩しい。左側に時の鐘、芭蕉の名句『花の雲鐘は上野か浅草か』の鐘である。




さらに行くと左側に花園稲荷がでてくる。京都の稲荷大社同様、たくさんの鳥居がならんでいるが、鳥居をくぐり出てきた急な石段が『稲荷坂』である。





近くの『韻松亭』にはたくさんの外国人が詰めかけ、さらに上野精養軒の入口もある。パゴダの横には上野大仏。元は6mの釈迦如来坐像だったが、関東大震災で被害を受け、仏頭が落ちてしまった。



さらに再建に備えて寛永寺で頭と胴体は保管されていたが、戦時中の金属供出のため、顔面を除き持ち去られた。しかし、現代になり、受験生が『これ以上落ちない』と合格祈願をするために参拝する様になり、人気が復活している。



上野公園にきたら『西郷隆盛像』に行かねばと足を伸ばす。背景のイチョウが黄色く色づき、美しかった。こちらも周りにはインバウンドの人ばかり。敬天愛人を知る人は何人いるのであろうか。



お隣の『彰義隊の墓』にもお参りし、帰途についた。


上野駅周辺の坂道を巡る①

2024-12-10 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その225。上野駅周辺の坂道を歩きながら、旧跡も巡ることにした。11月も後半に入ると急激に寒くなり、冬近しと誰もが感じる。上野駅公園口も2022年3月にリニューアルされ、通行量の多かった上野公園通りも南北に分断、駅前は車が入れなくなった。

歩く方からすると実に快適で出口を出て真っ直ぐ行けば動物園、先を右に曲がると国立博物館などわかりやすくなった。駅前のイチョウの木も黄色くなったもの、まだまだ緑色のものなど個性が出ている。

右手には国立西洋美術館、有名なコルビジェ設計の世界遺産。現在、モネ展が開催中のため、たくさんの人が並ぶ。



向かい側にはオーギュスト・ロダンの『考える人』『カレーの市民』という名作が展示されている。列も長いことから並ぶのは諦め、東京文化会館の方に歩く。





下り坂となるが、これが『車坂』。明治16年までは上野寛永寺から東側に降りる坂が3つ(車坂、信濃坂、屏風坂)あったが、上野駅と線路の拡幅により、全て消滅した。



今の車坂は旧町名の車坂町によるものとある。池波正太郎の剣客商売にも登場(消滅した車坂)する。


(パンダ橋)
車坂には上野動物園にいる動物のパネルが埋め込まれていてこれを確かめるのも楽しい。パンダ、ハシビロコウなどを見つけた。

(旧松竹デパート)

(旧聚楽)

その先、階段を降りると右手にかつては上野松竹デパート(上野松竹など映画館の入ったビル)やじゅらく(聚楽)は新しいビルになり、すぐを右に曲がると3階まで行けるエレベーター、降りると上野公園に入ることができる。(以下、次回)


サンシャイン〜護国寺駅付近の坂巡り③

2024-11-06 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その224。雑司ヶ谷の南坂をそのまま上ると旧宣教師館通りと書いたレンガ通りが現れる。



そのまままっすぐ行くと『雑司ヶ谷旧宣教師館』と書いた古い洋館が現れる。これは1907年にアメリカ人宣教師マッケーレブが自らの居宅として建設したもので1941年に彼が帰国するまで生活していた。今は豊島区有形文化財として保存されている。



元の道まで戻り、坂を下りると左に向かう道に出る。これを5分ほど歩いてようやく不忍通りまで戻る。不忍通りは先ほど私が渡ったあたりから首都高護国寺ランプあたりまでが緩い坂道となっているが、これが『小篠坂(こざささか)』である。





説明板によると『江戸時代に御鷹場から坂下の本浄寺に下る道として開かれたものだが、笹が多く生えていたため、この名前となった』とある。



小篠坂の先、友成第二医院というクリニックの先を左に曲がると文京区立青柳小学校への坂道となる。この坂には『希望の坂』という名前がつけられている。



これは首都高速道路建設により1960年に今の場所に移転、その際に子供たちが楽しく学べる通学路であり、希望に満ちた将来を願ってこの名前が付けられたとのことである。





護国寺の前を通り、まっすぐ行くと大塚三丁目の交差点に向かって不忍通りは坂道となっている。この坂道は『富士見坂』と名付けられてある。富士見坂や塩見坂(潮見坂)は東京にたくさんあるが、ここの坂上からは天気の良い朝には本当に富士山を臨むことができる数少ない坂道である。

サンシャイン〜護国寺駅の坂巡り②

2024-10-26 05:00:00 | 坂道
『東京の坂、日本の坂』その223。不忍通りを渡り、雑司ヶ谷墓地の脇の道を歩く。

細くくねくねと曲がっていて方向感覚が狂う。墓地の中は碁盤の目のようになっているにも関わらず、なぜか周囲の道は農道のように曲がっている。高校生の頃に友人のKくんの下宿がこの辺りにあり、道に迷って往生したことを思い出した。

当時は携帯電話もスマホもなく、今自分のいる位置が判らずぐるぐる回っているうちに都電の雑司ヶ谷電停に出て、そこまで迎えにきてもらったことを思い出した。この坂巡りもスマホで地図を見ながら歩けるからこそできるのである。

雑司ヶ谷霊園は1874年に開設した歴史のある公営墓地であり、それ以前は御用地。3代将軍家光は薬草を栽培する御薬園、8代将軍吉宗は鷹狩の鷹を飼育する御鷹部屋として使われていた。歩いていた道も『御鷹方御組屋敷道』として使われていたという説明板もあった。しばらく歩くと左に管理事務所に向かう道が出てくる。 



墓地の中の道はまっすぐでわかりやすい。中央通りと付けられた道を歩き、いちょう通りを左に。確かにこの通りにはいちょうが植えられていて、少し葉も黄色くなり始めていた。



この辺りに夏目漱石の墓があるはずだが、判らず歩いていると竹久夢二の墓を発見。『竹久夢二を埋む』とのみ彫ってある墓碑が印象的であった。



少し戻り、雑司ヶ谷墓地南側に出て右に曲がる。すぐのところから下り坂となっていて右手に清立院というお寺が現れるが、この坂道が『清立院坂』である。このお寺は雑司ヶ谷七福神の毘沙門天が祀られている。

坂を下りて四つ辻を左に歩く。道が台地の下にあるため、薄暗い。さらに道も狭いため、4m道路の確保ができないためなのか、古い家が多い。しばらく歩くと左から下り、さらに右に下る道と交差する。この坂道が『南坂』である。



色々ネットを探したが、この坂道の由来はわからなかった。(以下、次回)