特別、書き記すこともないのだが・・・。
最近、もう一つのブログには全然投稿していない。なによりも、ただ、書き連ねることよりも、自らの実践というものに、いくらか・・・というよりは、かなりの逡巡があった。
自らの意識の流れ、この世界~現象の世界への関わりというものに今ひとつ応じきれない自分の姿を絶えず見ていたようにも思う。人はどうあれ、自らの信じること、ものに対して、もっと素直であっていいのではないか?
また、これまでの人生、環境のなかで積み上げてきたものに対して、率直に評価し、育てるものは育てていくことが大切なのではないか。
さまざまな悲苦多き世界に対して正論で批判することはたやすいとなれど、自らの生き方を定立させることの難しさを考え、いや、本当はもっと簡単、シンプルなものかもしれない。さまざまなしがらみや執着にとらわれているが故に前に進めない、それだけのことかもしれない。
少なくとも、うちの奥さんの方がぼくよりも、中心軸がしっかりしていると思うこのごろである。
なにかしら、かつて、カナンの地でイエスが捕らわれ十字架の刑に処せられたときに、自らの保身のみを考えて逃げ惑った弟子たちの姿が浮かぶ。ただ、かの弟子たちは、自らの弱き姿に涙し乗り越えて、苦難の道に進んで身を投じていったのだけれど。
最近、もう一つのブログには全然投稿していない。なによりも、ただ、書き連ねることよりも、自らの実践というものに、いくらか・・・というよりは、かなりの逡巡があった。
自らの意識の流れ、この世界~現象の世界への関わりというものに今ひとつ応じきれない自分の姿を絶えず見ていたようにも思う。人はどうあれ、自らの信じること、ものに対して、もっと素直であっていいのではないか?
また、これまでの人生、環境のなかで積み上げてきたものに対して、率直に評価し、育てるものは育てていくことが大切なのではないか。
さまざまな悲苦多き世界に対して正論で批判することはたやすいとなれど、自らの生き方を定立させることの難しさを考え、いや、本当はもっと簡単、シンプルなものかもしれない。さまざまなしがらみや執着にとらわれているが故に前に進めない、それだけのことかもしれない。
少なくとも、うちの奥さんの方がぼくよりも、中心軸がしっかりしていると思うこのごろである。
なにかしら、かつて、カナンの地でイエスが捕らわれ十字架の刑に処せられたときに、自らの保身のみを考えて逃げ惑った弟子たちの姿が浮かぶ。ただ、かの弟子たちは、自らの弱き姿に涙し乗り越えて、苦難の道に進んで身を投じていったのだけれど。