座喜味城と今帰仁城の縄張と設計の考察
城郭ビイスタ論 上文字クリック
◆質問者
日本の東北の払田柵はどうもビイスタ工法の
痕跡がある可能性が出ては来ましたね?
◆長谷川
確定はしていません。私個人的な推測です。
◆質問者
時代も背景も全く異なる南の沖縄の首里城にも
ビイスタ工法を用いて琉球王の宮殿を守護して
いたのではないでしょうか?
◆長谷川
首里城は複雑なのでビイスタ工法は無いと思っ
ています。
◆質問者
無いと思っているのは消極性の証拠や固定概念です。
一度検討してみるのが研究家の本道でありません?
◆長谷川
首里城研究クーループ編の1997年の首里城平面
略図をお借りして一度検討してみましょうか?
首里城の北から御座と呼ばれる宮廷/朝廷/正殿
を中心に存在するのかも知れませんが、私には
詳しく解りません。
◆質問者
沖縄は城を何と発音するのですか?
◆長谷川
「グスク」と発音します。近江小谷城の大嶽城
と書いて「おおづく」と発音するのも不思議で
すし小谷城から琉球銭も出土している事や浅井
氏家臣垣見が琉球頭成兜を残している事なども
不思議な現象と言えます。
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ城郭幾何学設計論は
沖縄の座喜味城のような円弧を描く城には絶対
に適合しないと思いますが?
◆長谷川
東洋で城郭は規矩術を応用して作られています。
規=曲尺=サシガネ
矩=コンパス=円弧を描く道具ですから
城郭の方円の縄張に該当すると思います。
◆座喜味城
ウイッキペデイアより引用
歴史[編集]
1416年から1422年に読谷山の護佐丸(ごさまる)
が築城したとされている。 護佐丸は中北山の争い
から逃れた今帰仁王子が伊波城に勢力を持った伊
覇按司の三世の次男と言われる。先代山田城主読
谷山按司(山田按司)も伊覇按司の一族係累であ
ったが嗣子がなかったため、城主の兄弟の伊覇按
司の三世の次男護佐丸が養子となって読谷山按司
を継いだと伝えられる。1430年に中城城に移封さ
れるまで読谷山按司を名乗った。 出土品に16世紀
のものも見られる事から、護佐丸の移封後もしば
らく利用されていたと推定されている。
▼座喜味城図
◆長谷川
まずこの城「グスク」は湾曲した石垣腺が
特徴になっていますが、日本国内の城郭で
言う相横矢「外敵を城兵の両側面から挟撃」
する縄張が随所に見られ軍事的防御性が強い
要塞と思われます。主郭と副郭に相当する2
曲輪からなる大変縄張技巧に優れた城だと
思います。実際の縄張は半円を基調にして
城壁の湾曲を自然地形ではなく極力人為的
に城壁の双方から外敵を挟撃できる合理的
かつ整合性のある城郭として理想的縄張に
なっています。短い赤線は比較的直線に近
い城壁です。
▼
◆長谷川
先ず青線の円弧つまり「矩」で円弧を何か所
も設定設計しています。実に用意周到巧妙な
築城術と言えます。日本国内の城郭で言う所
の内折れや虎口を双方から横矢を掛ける睨み
と言う築城術に近いものです。
◆長谷川
次に一の郭。二の郭、それぞれ中央より縄張
設計しています。中芯放射状設計とも言える。
◆長谷川
更に次に二の郭の中芯より一の郭、二の郭の虎口
「城門」位置を設定した縄張線も考察が出来ます。
◆長谷川
本州の城のような扇型の縄張りも読み取れます。
◆長谷川
上記縄張復元は一見整合性のないようにも見えますが
方位学的に見ても赤線の集束する方向とは真北であり
座喜味城を立体的に外部から見た場合に軍事的に威信
的「為政者の城として見栄えの良い力強い城に見える
見栄え効果!つまり城郭の栄え「はえ」ビイスタ効果
があるのだと私は思います。
◆質問者
そんなに半円形の縄張が意味があるのですか?
◆長谷川
半円形の陣形は侵入する敵に矢玉を集中射撃
出来るんです。さあ思いだしましよう、応用
編です。安土城伝前田利家邸のあの半円形状
の建物配置を敵を睨むように射撃できる形状。
「普遍性」とは時代背景や場所が違っても人
間とは同じ発想や理論に基づいて土木工事を
展開しています。アメリカにはインデアンが
作った日本の武田流の丸馬出のような土塁も
発見されています。これを人間の「普遍性」
と言います。人間はやはり土地や国や地域は
違っても「靴」や「着物」や「家屋」は人間
の普遍性として使っております。人間は知恵
や工夫をするアイデア思考する動物なのです。
▼大津市 歓喜寺城の縄張
▼佐和山城 二ノ丸の扇型縄張も
▼佐和山城 二ノ丸写真
◆質問者
長谷川先生は勿論父上銀蔵さんから城郭を
学ばれた訳ですよね?
◆長谷川
いいえ。私は子供の頃から砦を計測する事
を楽しんでいました。父は私の描く砦図面
を見て400年前の賤ケ岳合戦の砦が現代も
残っている事に人生の後半に気付いた人で
す。『滋賀県中世城郭分布調査報告』でも
砦の計測は長谷川博美が実施していた訳で
す。私は人間や先生の教示から城を勉強し
た訳ではないのです。砦を計測する過程で
城址が私に様々な縄張の仕方を教えてくれ
たのです。ですから私の城の師匠とは現地
の城そのものが城郭の現物であり城の先生
です。
◆一般者
沖縄の御座丸の先祖の城今帰仁城の事も御教示
下さい。
◆長谷川
ウイッキペデイアより引用致します。
「伝説と略歴[編集
「北山世主」および「北山王国」も参照
現地の伝説によれば、今帰仁世の主が築いたと伝
わるが、伝説上の王統・舜天王統が始まるよりも
遥か前の事だと言う。さらに利勇の反乱により世
主は尽く滅亡したと伝わる。なお、現在まで発見
された城郭跡は12 - 13世紀頃の築城である[1]。
『中山世鑑』や『中山世譜』によれば、伝説王・
舜天の兄(異母弟とも)、大舜とその子が城主とな
り、のち舜天二世・舜馬順煕の子、今帰仁世の主
(義本王とは兄弟)が城主となる。なお、この代
の今帰仁世の主の二世(不詳)の養子となり今帰
仁城主を継いだのが英祖王の次男、湧川王子と伝
わる。 湧川王子と子孫は代々城主を継ぐが、係累
の怕尼芝に討たれ、それまでの城主係累は滅亡、
離散する(その子孫に護佐丸がいる)。北山王国
の始まりである。怕尼芝より前代は伝記と系譜だ
けで年代は分かっていないため伝説に近い。
明の洪武帝『明太祖実録』に北山王国の朝貢と今帰
仁城の事が記述されている(現存する文献上、最も
古い記録)。 1416年、北山王国は中山王尚巴志に
滅ぼされるが、以後は北山監守が置かれた。1609年
の琉球侵攻後、1665年(康熙4年)には廃止されて
いる。以降は具志川御殿十世今帰仁朝義と係累が
琉球処分まで監守跡を管理した。 」
▼今帰仁城図
◆質問者
この城にはビイスタ工法/放射測量工法は
存在致しますか?
◆長谷川
一度検討してみる事に致しましょう。これ
により沖縄観光が益々隆盛する事を祈念し
て検討してみます。やはり、もの凄い巨大な
沖縄の北山王国の王城ですから当然威厳に満
ちた堂々たる威容を誇り王宮として複雑で繊
細な城郭構造と言えると私は思います。
▼今帰仁城跡 放射線縄張検討図
◆長谷川
やはり驚くべき事に堂々たる威容とビイスタ
工法を北山王国は今帰仁城に駆使して北山王
国の威厳とたものと思われます。
▼南側面からの典型的放射側面ビイスタ工法
▼西面からの今帰仁城の繊細なビイスタ測量工法 真に見事圧巻