城郭 長谷川博美 基本記録

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首里城、座喜味城、今帰仁城の縄張と設計の考察

2021-10-05 11:54:41 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、

座喜味城と今帰仁城の縄張と設計の考察
城郭ビイスタ論 上文字クリック

◆質問者
日本の東北の払田柵はどうもビイスタ工法の
痕跡がある可能性が出ては来ましたね?

◆長谷川
確定はしていません。私個人的な推測です。


◆質問者
時代も背景も全く異なる南の沖縄の首里城にも
ビイスタ工法を用いて琉球王の宮殿を守護して
いたのではないでしょうか?

◆長谷川
首里城は複雑なのでビイスタ工法は無いと思っ
ています。

◆質問者
無いと思っているのは消極性の証拠や固定概念です。
一度検討してみるのが研究家の本道でありません?

◆長谷川
首里城研究クーループ編の1997年の首里城平面
略図をお借りして一度検討してみましょうか?
首里城の北から御座と呼ばれる宮廷/朝廷/正殿
を中心に存在するのかも知れませんが、私には
詳しく解りません。

◆質問者
沖縄は城を何と発音するのですか?

◆長谷川
「グスク」と発音します。近江小谷城の大嶽城
と書いて「おおづく」と発音するのも不思議で
すし小谷城から琉球銭も出土している事や浅井
氏家臣垣見が琉球頭成兜を残している事なども
不思議な現象と言えます。

◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ城郭幾何学設計論は
沖縄の座喜味城のような円弧を描く城には絶対
に適合しないと思いますが?

◆長谷川
東洋で城郭は規矩術を応用して作られています。
規=曲尺=サシガネ
矩=コンパス=円弧を描く道具ですから
城郭の方円の縄張に該当すると思います。

◆座喜味城
ウイッキペデイアより引用
歴史[編集]
1416年から1422年に読谷山の護佐丸(ごさまる)
が築城したとされている。 護佐丸は中北山の争い
から逃れた今帰仁王子が伊波城に勢力を持った伊
覇按司の三世の次男と言われる。先代山田城主読
谷山按司(山田按司)も伊覇按司の一族係累であ
ったが嗣子がなかったため、城主の兄弟の伊覇按
司の三世の次男護佐丸が養子となって読谷山按司
を継いだと伝えられる。1430年に中城城に移封さ
れるまで読谷山按司を名乗った。 出土品に16世紀
のものも見られる事から、護佐丸の移封後もしば
らく利用されていたと推定されている。 

▼座喜味城図

◆長谷川
まずこの城「グスク」は湾曲した石垣腺が
特徴になっていますが、日本国内の城郭で
言う相横矢「外敵を城兵の両側面から挟撃」
する縄張が随所に見られ軍事的防御性が強い
要塞と思われます。主郭と副郭に相当する2
曲輪からなる大変縄張技巧に優れた城だと
思います。実際の縄張は半円を基調にして
城壁の湾曲を自然地形ではなく極力人為的
に城壁の双方から外敵を挟撃できる合理的
かつ整合性のある城郭として理想的縄張に
なっています。短い赤線は比較的直線に近
い城壁です。

◆長谷川
先ず青線の円弧つまり「矩」で円弧を何か所
も設定設計しています。実に用意周到巧妙な
築城術と言えます。日本国内の城郭で言う所
の内折れや虎口を双方から横矢を掛ける睨み
と言う築城術に近いものです。

◆長谷川
次に一の郭。二の郭、それぞれ中央より縄張
設計しています。中芯放射状設計とも言える。


◆長谷川
更に次に二の郭の中芯より一の郭、二の郭の虎口
「城門」位置を設定した縄張線も考察が出来ます。

◆長谷川
本州の城のような扇型の縄張りも読み取れます。

◆長谷川
上記縄張復元は一見整合性のないようにも見えますが
方位学的に見ても赤線の集束する方向とは真北であり
座喜味城を立体的に外部から見た場合に軍事的に威信
的「為政者の城として見栄えの良い力強い城に見える
見栄え効果!つまり城郭の栄え「はえ」ビイスタ効果
があるのだと私は思います。


◆質問者
そんなに半円形の縄張が意味があるのですか?
◆長谷川
半円形の陣形は侵入する敵に矢玉を集中射撃
出来るんです。さあ思いだしましよう、応用
編です。安土城伝前田利家邸のあの半円形状
の建物配置を敵を睨むように射撃できる形状。
「普遍性」とは時代背景や場所が違っても人
間とは同じ発想や理論に基づいて土木工事を
展開しています。アメリカにはインデアンが
作った日本の武田流の丸馬出のような土塁も
発見されています。これを人間の「普遍性」
と言います。人間はやはり土地や国や地域は
違っても「靴」や「着物」や「家屋」は人間
の普遍性として使っております。人間は知恵
や工夫をするアイデア思考する動物なのです。
▼大津市 歓喜寺城の縄張
▼佐和山城 二ノ丸の扇型縄張も

▼佐和山城 二ノ丸写真 
◆質問者
長谷川先生は勿論父上銀蔵さんから城郭を
学ばれた訳ですよね?

◆長谷川
いいえ。私は子供の頃から砦を計測する事
を楽しんでいました。父は私の描く砦図面
を見て400年前の賤ケ岳合戦の砦が現代も
残っている事に人生の後半に気付いた人で
す。『滋賀県中世城郭分布調査報告』でも
砦の計測は長谷川博美が実施していた訳で
す。私は人間や先生の教示から城を勉強し
た訳ではないのです。砦を計測する過程で
城址が私に様々な縄張の仕方を教えてくれ
たのです。ですから私の城の師匠とは現地
の城そのものが城郭の現物であり城の先生
です。


◆一般者
沖縄の御座丸の先祖の城今帰仁城の事も御教示
下さい。

◆長谷川
ウイッキペデイアより引用致します。

「伝説と略歴[編集
「北山世主」および「北山王国」も参照
現地の伝説によれば、今帰仁世の主が築いたと伝
わるが、伝説上の王統・舜天王統が始まるよりも
遥か前の事だと言う。さらに利勇の反乱により世
主は尽く滅亡したと伝わる。なお、現在まで発見
された城郭跡は12 - 13世紀頃の築城である[1]。 
『中山世鑑』や『中山世譜』によれば、伝説王・
舜天の兄(異母弟とも)、大舜とその子が城主とな
り、のち舜天二世・舜馬順煕の子、今帰仁世の主
(義本王とは兄弟)が城主となる。なお、この代
の今帰仁世の主の二世(不詳)の養子となり今帰
仁城主を継いだのが英祖王の次男、湧川王子と伝
わる。 湧川王子と子孫は代々城主を継ぐが、係累
の怕尼芝に討たれ、それまでの城主係累は滅亡、
離散する(その子孫に護佐丸がいる)。北山王国
の始まりである。怕尼芝より前代は伝記と系譜だ
けで年代は分かっていないため伝説に近い。 
明の洪武帝『明太祖実録』に北山王国の朝貢と今帰
仁城の事が記述されている(現存する文献上、最も
古い記録)。 1416年、北山王国は中山王尚巴志に
滅ぼされるが、以後は北山監守が置かれた。1609年
の琉球侵攻後、1665年(康熙4年)には廃止されて
いる。以降は具志川御殿十世今帰仁朝義と係累が
琉球処分まで監守跡を管理した。 」
▼今帰仁城図
◆質問者
この城にはビイスタ工法/放射測量工法は
存在致しますか?

◆長谷川
一度検討してみる事に致しましょう。これ
により沖縄観光が益々隆盛する事を祈念し
て検討してみます。やはり、もの凄い巨大な
沖縄の北山王国の王城ですから当然威厳に満
ちた堂々たる威容を誇り王宮として複雑で繊
細な城郭構造と言えると私は思います。
▼今帰仁城跡 放射線縄張検討図


◆長谷川
やはり驚くべき事に堂々たる威容とビイスタ
工法を北山王国は今帰仁城に駆使して北山王
国の威厳とたものと思われます。
▼南側面からの典型的放射側面ビイスタ工法


▼西面からの今帰仁城の繊細なビイスタ測量工法 真に見事圧巻

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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2021-10-01 08:27:14
私は連郭式、円郭式、などの城址の様式概念で人生の大半を過し城を見てきました。長谷川さんの投稿をみると私の概念や通念と全く異なる設計者や縄張者の観点に立った実測方法に基盤においた稀代の城郭理論によって城を解釈されている事には驚きを隠せません。ただ私は既に図書や公的講演により既に城郭概念や観念が先入観という固定記憶によって形成されてしまっており長谷川さんの理論を素直に受け入れない脳内環境にあるのが残念に思います。私がもし20代で長谷川さん出会っていたら今まで見て来た日本中の城がどれだけ深く重く貴重な城見学ができたかと思うと残念に思います。長谷川さんを知るのが私には遅すぎたと言えます。
返信する
Unknown (長谷川博美)
2023-01-25 14:09:28
コメントを賜り感謝を致します。
返信する

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