城郭 長谷川博美 基本記録

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秀吉の美濃大返しに疑義あり! 衝撃の新説登場!

2023-07-11 19:41:37 | 規矩術、ビイスタ工法、城郭平面幾何学、
秀吉の美濃大返しに疑義あり! 衝撃の新説登場!
 
 
◆質問者
長谷川先生は一日最高で
何キロ歩かれた経験あり
ますか?その疲労度は?
 
 
◆長谷川
一日30㌔歩いた経験あり
ますが歩き終えて脚部の
痙攣激しい疲労感が発生
して正直身体が動かない
です。たった30㌔歩いて
も激しく疲労し体力消耗
し約一週間体調戻らない。
 
◆質問者
古代ローマ時代マラソン
は軍軍事連絡訓練の一環
として行われていた距離
42、195㎞の里程が根源
です。さて現代マラソン
選手は身体を平素鍛錬を
繰返していますが42㎞を
走破して倒れ込む映像を
目にしますこれが現実!
秀吉軍美濃から木之本ま
52km休まず進軍して
秀吉将兵が果たし大岩山
岩崎山に駐屯する柴田方
の約8000人の将兵達と戦
って果たして勝利出来た
のですか?私はこの史談
を甚だ人間の身体能力を
考え併せて強く疑問です!
 
 
◆長谷川
私が佐久間玄番盛政なら
先ず堀切を掘削して防御
工事を施していない大岩
岩崎の2塁は囮の城だと
看破致します敵がわざと
攻め取りやすい城を用意
してくれる虫の良い話は
ない訳です。桶狭間合戦
では松平元康「徳川家康」
に織田の鷲津丸根を松平
に攻めさせて今川義元は
織田信長の精兵に痛撃さ
れて義元は首を討ちとら
れています。古今囮の城
を看破出来ず。大敗した
武将達は多いと言えます。
元亀元年織田信長は越前
金ケ崎城天筒山城の2城を
電撃的に攻略しています
が浅井と朝倉に挟撃され
て信長は京都に退却して
います金ケ崎城天筒山城
は浅井朝倉方の準備した
越前方の囮の城の2城だと
看破出来来たら信長家康
秀吉は金ヶ崎で大敗しな
かった事でしょう浅井と
朝倉軍の挟撃体制や手筈
や合流が迅速適格に成功
した場合東海の三英傑の
武将信長、秀吉、家康は
敦賀若狭路で必ずや打ち
取られていた事でしょう。
 
◆質問者
合戦が展開される場合は
❏城守備要隊=固定城番兵
▲合流加勢隊=与力協力者
〇本体主要隊=主体大名兵
✖遊撃予備隊=温存予備隊
この四要素で構成されます。
 
◆長谷川
1583年賤ケ岳の戦いでは
❏城守備要隊=羽柴秀長
▲合流加勢隊=丹羽長秀
〇本体主要隊=羽柴秀吉
✖遊撃予備隊=伏兵勢力
 
 
◆質問者
賤ヶ嶽合戦では常識的に考えて
美濃大返しで疲労し切った将兵
より充分に休養と体力を温存し
た秀吉✖遊撃予備隊=伏兵勢力
が活躍したと仮定すると合理的
で整合性があると思いますが?
 
◆木之本町出身者
余呉方面の山岳地帯から見て
伊香高校の北側に位置する谷
は多くの将兵の宿舎陣小屋を
置いても柴田佐久間方からは
全く炊飯をする煙や夜の篝火
は全く視覚的に見えない条件
であります。この谷なら数万
の将兵の炊飯の為の谷川の水
も豊富に存在して柴田側から
見えない南にしか開放してい
ない羽柴軍の伏兵に適した谷
で羽柴大軍絶好の伏兵地です。
これは秀吉方の隠し兵員です。
◆対談者
長谷川先生のビイスタ動画は
もはや6600回再生され全国的
有名動画になって来ました。
 
◆学識経験者
それは長谷川先生が研究家と
してマスメデイアとは関係の
ない純粋学問の世界で支持を
され始めた証左と言えます。
長谷川先生に質問致します。
天正11年1583年羽柴秀吉方
が近江伊香郡木之本に陣取
をしましたがそのその陣場
とは一体何処のでしょう?
 
◆長谷川
秀吉から秀長に送られた指示
書には将兵は木之本宿に小屋
とる者と 小屋「陣小屋」を
新たに建設する事を指示して
います。秀吉の兵員は木之本
の町に別の場所に小屋を建設
するる資料が残って
います。
 
◆木之本町出身者
羽柴方伏兵最適の大駐屯地と
して伊香高校の北側の谷間の
平地は絶好の場所と言えます。
◆対談者
長谷川先生の城郭ビイスタ研究
論の特徴として秀吉の築城する
城の大手や表に城郭ビイスタ論
が存在する事が解って来てます。
▼天正18年秀吉石垣山一夜陣城
 
 
◆対談者
それは安土城の伝秀吉邸や前田
利家邸の城郭ビイスタ構造でも
城の「表」大手方面を読み取れ
ます。要するに将兵が多数登城
して来る方向にビイスタ工法が
施されている言う事が基本です
③秀吉の城 - 城郭 長谷川博美 基本記録
◆一般者
これは面白しい!天正11年賤ケ岳
合戦で木之本を堅固に守備してい
る羽柴秀長の田上山城の城郭遺跡
としての正面玄関を証明する法則
長谷川先生の城郭ビイスタの法則
が大きな歴史解明のカギを握って
いる事を意味していると感じます。
◆長谷川
では天正11年1583年羽柴秀吉
方の牙城たる近江木之本田上
山城の城郭ビイスタが果たし
てどの方向に読み取れるのか!
 
◆一般者
ゾクゾクして来ました!長谷川
先生は希代の城郭研究家にして
城郭の金田一耕助とも言われて
城郭名探偵と言われております。
◆長谷川
本当に困りました!近江田上山城
は城郭の東に巨大ビイスタが読み
取れる従ってこの城は東の谷間に
陣小屋を構えて将兵から一際立派
に見える工夫つまり城郭ビイスタ
が存在すしたと言う事になります。
◆長谷川
と言う事は天正11年美濃大返し
で実質佐久間盛政軍を撃破した
のは現実には木之本で伏兵待機
して53㌔を走破して疲労困憊し
て疲れた将兵でなく柴田佐久間
から見れば木之本田上山城東麓
で十分な休憩を取って柴田方の
北国街道南進に備えていた疲労
の少ない新手の精兵と言う事に
なります。美濃大返しの将兵は
木之本に到着して即刻木之本や
田上山城の交替要員として休憩
させ休息させた新手に進軍させ
さしもの北国の猛将佐久間玄番
も賤ケ岳攻略はおろか大岩山城
岩崎山城から退いた事になりま
す。羽柴方は田上山山麓で充分
に休憩を取った羽柴の精兵達が
賤ケ岳表から退却する柴田三左
衛門を痛撃し権現坂から柴田軍
に再度援軍を出そうと思ってた
佐久間盛政は茂山に布陣してい
た前田親子の戦場離脱で賤ケ岳
崩れと呼ばれる敗戦招きました
それは山崎合戦でも秀吉は同じ
手を取っててます。信長生存説
を織田諸将に宣伝し秀吉本体が
戦うのではなく騙された織田軍
が山崎合戦で先方として戦った
 
◆対談者
 
1583年賤ケ岳の戦いでは
❏城守備要隊=羽柴秀長
▲合流加勢隊=丹羽長秀
〇本体主要隊=羽柴秀吉
✖遊撃予備隊=伏兵勢力
Δ裏切り舞台=離反兵力
 
これが内応予約将兵前田
親子戦場離脱と言う見事
秀吉の陽動作戦に柴田方
は「釣られた」翻弄され
た関ケ原合戦においても
小早川秀秋は西軍→東軍
に家康に味方する 行為
をする事になった最初か
ら合戦のシナリオや予定
が仕組まれていた事です。
 
◆質問者
長谷川先生は佐久間玄番
盛政を猪突猛進型の愚将
と考えておられますか?
 
◆長谷川
全く愚将とは考えてませ
ん彼の行市山城もズバリ
ビイスタ工法で北国街道
をにらんだ縄張がなされ
智勇兼備の優れた武人!
 
 
◆長谷川
〇行市山
〇別所山
〇中谷山
〇林谷山
〇栃谷山
〇柏谷山
〇大谷山
など7カ所7以外の城郭も多数
発見していますが余呉城郭で
は之を見学学習する事は認可
されません。そこは『城歩会』
で未知の城塞を見学したいと
希望しています。文字の上の
砦の数と現実の砦の数に誤差
が実際に必ず存在する希望者
様はまた『城歩会』の宮本様
の方に御相談下さい。楽しく
新発見の城郭を見学します!
 
 
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

美濃大返し(みのおおがえし)は、賤ヶ岳の戦いの際に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が美濃国大垣(岐阜県大市)から近江国木之本(滋賀県長浜市木之本町)までの13里(約52km)の道程を5時間で移動させた大掛かりな軍団移動のことをいう[1][2]。当時としてはかなりの速度であり、直後の戦況に与えた影響や、その戦闘の勝敗が後に秀吉が権力を掌握する切っ掛けとなったため、特にこう呼ばれる。

移動の理由[編集]

天正11年4月20日(グレゴリオ暦;1583年6月10日)、羽柴秀吉は岐阜城織田信孝を倒すために美濃に向かっていた。しかし、大雨で長良川揖斐川が増水したため、それらの川に囲まれている岐阜城を攻められず大垣に留まっていた。その陣中に、柴田勝家勢との戦線に秀吉が築城し中川清秀が守っていた大岩山砦(長浜市余呉町)が敵将の佐久間盛政によって陥落し、中川が戦死したという情報が届いた。秀吉はこの報を受けた時、清秀を哀悼しながらも、柴田勢は掌中にあり、天下の雌雄が決まるときだ[3]と考えたようである。

移動の実際[編集]

秀吉陣営は木之本方面へと通じる街道沿いの村々に先行して使者を送り、炊き出しと松明の用意を命じた。秀吉軍は午後2時頃に大垣を発って、午後7時頃には先頭が近江の現地に到着し、休息を挟んで数を揃えた秀吉軍の反撃は翌未明より開始された[2]。大垣と木之本間の綿密な連絡網から鑑みても、岐阜から賤ケ岳への部隊移動は想定の範囲内であり、かねてより長浜は秀吉に縁が深い領地だったこともあって場当たり的な作戦ではありえなかったと推定されている。

戦況への影響[編集]

一方、を落としたらすぐに退け、という大将柴田勝家の命令を実行せず大岩山に野営していた佐久間は、秀吉が既に木之本に迫っているとの情報に驚き、慌てて撤退を試みたが、秀吉によって追撃がなされ総崩れとなり敗走し、これが柴田全軍の撤退につながった。佐久間は秀吉軍が戻って来ることを知っていたが、その行軍の速さを驚いたという。

さらに、越前府中(武生市)を領していた柴田与力の前田利家などが戦線を勝手に離脱し、のちに秀吉軍の先鋒となって柴田を攻めた。秀吉方は柴田勝家本拠の北庄城(福井県福井市)を4月24日に落城させた。柴田は妻のお市の方とともに自害し、お市の連れ子であった娘3人は秀吉方に保護された。

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