城郭 長谷川博美 基本記録

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常陸 小田城 ビイスタ工法

2023-04-26 18:58:44 | 関東の城 ビイスタ工法

◆一般者

滋賀の長谷川先生と言われる

城郭の先生の城郭の話題動画

城郭ビイス論の話題が止まら

いとの事でその動画再生数は

6100回を超えたとの事で驚く

 

◆質問者

ウチの町の学術動画あるけど

50回そこそこ再生数が6100回

の再生などその手の動画として

は非常に多い話題の動画ですよ。

 

◆対談者

汎用性って意味解りますか?

どんな遺跡にも当てハマル

確率が高い遺跡設計の法則!

それ城郭ビイスタ理論です!

 

◆古代史好き様

先日弥生期の楯築弥生墳墓の

ビイスタ解説に仰天しました。

弥生時代も戦国時代にも通底

する日本の伝統測量術こそが

ビイスタ工法と言う事でそれ

が普遍性や汎用性と言われる。

▼楯築弥生墳墓ビイスタ工法

 

◆茨城県サイクリング客

先日サイクリングしてたら

小田城って城跡で迂回して

休憩を致しましたつくば市

の小田城にもそのビイスタ

工法は施工されています?

江戸城だってビイスタ工法

と聞いた事ある訳だしね?

▼江戸城本丸ビイスタ工法

◆古代史好き様

すごいね!こんな驚くべき

理論が日本国に存在する?

◆茨城県サイクリング客

茨城県つくば市の小田城

にも城郭ビイスタ論存在

しますか?

 

◆長谷川

高度で複雑な縄張の城です

素人の私には解らないです

概略  Wビイスタを用い

て縄張した城郭と推測しま

す。下図W複数型でしょう。

 

◆古代史好き様

すごいね!こんな理論は

歴史教科書にも城郭図書

にも全く掲載されてない!

 

◆対談者

よく考えてみて下さいよ!

先輩先生から学論を受け

ついだ先生は模倣家です

誰も気付かない事に独力

で気付く先生こそ研究家!

 

◆長谷川

様々なビイスタ工法小田

城には認められると思う。

 

◆古代史好き様

すごいね!長谷川先生て人

さぞや!お弟子さん理解者

さんや多数の支持者いる人?

 

◆長谷川

御安心ください!

私は著書がゼロ

ブログ人気ゼロ

講師人気もゼロ

仕事さえもゼロ

と寄る辺なき人

 

◆質問者

城郭中心部の縄張手法は?

 

◆長谷川

中央ビイスタ型が

読み取れるますね

◆長谷川

更に主郭部は正方形ではなく

規矩術用いたビイスタ工法!

 

◆質問者

この城何度も落城してます

が縄張欠点がありますか?

 

◆長谷川

筑波山から縄張が丸見えと

いう欠点があります。攻城

されたら脆弱な城と言えま

すが勝手知ったる元城主は

小田城を奪取する手立てを

常に持ち合わていた事でし

よう。その様な意味でこれ

迷城とも 城将は迷将とも

言える非常に特色ある城址

守護職舘ですから巨大です。

 

▼以下ウイッキペデイアより

鎌倉期から戦国期まで小田氏の居城であり、

その始まりは小田氏の祖・八田知家文治

元年(1185年)に常陸国守護に任命されて

当地に移って居館を構えたことによると言

われる。その後、南北朝期には、当主・

小田治久南朝方に属し、小田城は常陸

南部における南朝方の拠点となり、北畠

親房春日顕国なども入城している。

下って戦国時代の弘治・永禄年間、当主

小田氏治佐竹氏多賀谷氏真壁氏

越後の上杉謙信、小田原の後北条氏らと

抗争を繰り返した。後北条氏と結んだ小

田氏治は、永禄7年(1564年)に山王堂

の戦いで上杉謙信に敗れるなど苦戦を強

いられ、激しい小田城争奪戦が繰り広げ

られる[1]。何度も落城と奪還を繰り返し

たが、天正元年(1573年)の手這坂の戦

に敗れて小田城は佐竹氏のものとなり、以

降小田氏の手には戻らなかった。這坂の戦い

には永禄12年(1569年)説も有り[2]、翌元亀

元年(1570年)に太田資正が城主になり、

同3年(1572年)に資正の子の梶原政景が城主

になったという。のち、佐竹氏の一族・小場

義宗が城主になったが、慶長7年(1602年

に佐竹氏の秋田移封に伴って廃城になった。


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