2009年9月5日撮影
夢はほのぼの福よぶ街か
はずむ心にオワラ駒が出る
剣司
この歌碑は「2」の歌碑に向かう途次にある。
福島公民館を過ぎてすぐの、小森食料品店とまきだ鮮魚店の間くらいにある。
この作者については、歌碑表面に「剣司」としか刻まれていないので、この方が誰であるか、を特定することは私には出来ない。
しかし推定することは出来る。
今年購入した富山県民謡越中八尾おわら保存会発行の歌詞集『越中おわら』を開いてみると、同歌の掲載はないが掲載されている唄の作者の中に
「小谷剣司」の名を見出すことが出来る。
「剣司」が同じ、ということだけで、この唄の作者は「小谷剣司」だ、というのが私の推定である。
さて「小谷」とくれば名前が挙がるのは、おわら中興の祖である川崎順二の片腕として、また、「甚六会」(※)のメンバーとして活躍した
契月 小谷恵太郎
である。
彼の作った唄は今もなお歌い継がれている。
可愛い鳥だよ鶫(つぐみ)の鳥は
柿をつついてオワラ紅つけた
雁がねの翼欲いや海山越えて
妾(わたし)や逢いたいオワラ人がある
昭和62年、八尾町商工会の「むらおこし事業」としておわら歌碑は建てられた。
提案者は、おわら保存会歌詞部副部長(当時)の小谷健二である。
小谷はかの小谷契月の長男であり、提案者として唄を自選して、歌詞の内容に相応しい場所を指摘してむらおこし事業の報告書に発表し、これに賛同した人々が、自己負担で歌碑を建立したのである。
こんな訳?で、作者「剣司」は、実は本名ではなく、立山連峰の剣岳の一字を選んだ雅号であって、同じ音の
「剣司」=「健二」
である、というのが結論(的推定・・・「なんのこっちゃ?」)である。
あとは事実関係に詳しい方の情報に期待するばかりである。
「甚六会」
「総領の甚六」に由来する。
学校の成績が優秀でありながら、家が商売をしていてその家業を継ぐべく運命づけられ、学業を断念せざるを得なかった者たちによって組織された。
一日の仕事を終えた夜に集まり、文学、政治、経済、などについて議論を戦わせつつ、文化的な活動を実践し、おわらの改良、保存運動にも尽力、八尾の文化的発展に大いに寄与した。
以上27基をもって「おわら歌碑めぐり」も終了となる・・・
と思ったが、以前に紹介し、「おわら歌碑めぐり」のパンフレットに掲載されていないが故に、隠れキャラ?的存在としてしまった
については、現に「25」から「27」の歌碑も掲載されていないにも拘わらず、今回これらを含めて紹介した以上、それだけを除外する、ということは適当でない。
よって、改めて次の歌碑を「28」としてここに紹介する。
2006年9月3日撮影
酔ふた身ぶりは踊りに見せぬ
酒も八尾のオワラ玉旭
小杉放庵
絵 林 秋路
まず「11」の歌碑を目指して歩く。
「11」から八尾小学校に向かうと、小学校の手前右側に水上商店があるが、そこに行くまでの途中左側にこの碑は建っている。
他の歌碑と違い、絵は入っているし、大きさも一回りくらい大きな印象である。
と、以上28基をもって「おわら歌碑めぐり」一巻の終わりである。