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WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

青い傘……青春の太田裕美⑤

2006年09月05日 | 青春の太田裕美

Photo_1  最近、このウェブログを書くようになって、昔の太田裕美を時折聞き返すようになり、青春の太田裕美への想いはつのるばかりである。

 今日の昼休み、インターネット検索をしていたら、太田裕美がNHK-FMで毎週金曜日PM 16:00から「Music Plaza   太田裕美のオールジャンル・リクエスト」という番組をやっているのをしった。今週から聴いてみたいものだが、仕事があるので無理だ。そのホームページには過去にオンエアーした曲のリストも掲載してあり、なかなか楽しい。そのリストを眺めていたら、2006.6.9に彼女の「青い傘」がかけられたことを知った。「青い傘」といえば、荒井由美作詞作曲になる太田裕美ファンの多くが名曲と認めるであろう作品だ。私の頭の中に「青い傘」がこびりつき、仕事をしていてもまるでプラトンみたいにそのことがしばしば「想起」されるというありさまだった。幸運なことに、今日は仕事がはやく片づいた。帰宅して半ば義務のように家族との語らいを終えるいなや、自室に篭

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城して、レコード棚から『12ページの詩集』を取り出し、何ものかに憑かれるかのように、この曲を聴いた次第である。

  やはり、名曲だ。感激である。旋律も素晴らしいが、歌詞もまたすばらしい。相手を想い、伝えかねる「つのる思い」を背負いつつ、街をさまよう女性の歌だ。ウェブを検索するとこの曲を「今ならストーカー」などと不用意に語るウェブログもあるが、私はここに宣言しよう、これは断じてストーカーの歌などではない。70年代特有の(もちろんそれは現在でも有効である)純粋な「つのる想い」を歌った曲だ。携帯電話やメールのない時代、人々は「つのる想い」を心の中で暖め、純化していったのだ。大体、近頃は、ちょっと相手を追いかけただけでストーカー呼ばわりされる。大して迷惑もかれていないのにストーカー呼ばわりでは、他者を想う心の生きるスペースがないではないか。「つのる想い」を受け止める精神の豊かさが欠如している。おかしな世の中だ。個人の人権意識が広まった結果、自分を想ってくれる他者の気持ちが理解できなくなったのだろう。すぐに「ストーカー」の語を使いたがるような人たちは「つのる想い」を知らないか、忘却してしまった人に違いない。1つの概念を鬼の首を取ったかのように、拡大解釈したがるのは、日本的貧困だ。

 もう一度、素直な心でこの曲を聴いて、歌詞を噛み締めてみよう。軽々しく「ストーカー」の語を使う自分が恥ずかしくなるはずである。

 「わたしのさしてる青い傘は、歩道に浮かんだしみのようね」というところが、せつない……。

 このせつなさをどうしたらよいのだろう……。

   


マイルス・デイビスのイン・ア・サイレント・ウェイ

2006年09月03日 | 今日の一枚(M-N)

●今日の一枚 39●

Miles Davis

In A Silent Way

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 ジャズを聴き始めて20数年、エレクトリック・マイルスをちゃんと聴いてこなかった。アコースティック・マイルスはあれ程聴いてきたのにだ。今思えば、食わずぎらいだったのだ。若い頃、ジャズ喫茶で一度だけ『ビッチェズ・ブリュー』を聴いたことがあったのだがしっくりこず、以来、エレクトリック・マイルスに接することなく過ごしてきた。限られた予算の中でレコードを買うためには、優先順位というものが存在するのだ。

 転機は数年前、雑誌『GQ』(1999.12)の特集「Miles Is God !」の中のピーター・バラカンのエッセイを読んでからだ。個人的体験をおりまぜながら、このIn A Silent Wayついていつになく熱く語り、しまいには、「もし愛聴版にならなければ、もう2度と僕を信用しなくてもいい」とまでいったピーター・バラカンのことばにちょっと聴いてみようかという気になったわけだ。

 いい作品だ。この浮遊感覚がたまらない。シャカシャカシャカとひたすらビートを刻むハイハットをバックに、繰り広げられるギターやキーボードやトランペットの織り成すパッチワークのような演奏は、音楽的にも電気的にも非常に高い完成度だ。この作品が1969年のものであるとは信じられない程だ。以来、いくつかの電気的マイルスの作品を購入し、聞いている。

 In A Silent Wayがこれから「愛聴版」となるかどうかはわからないが、ときどきとりだしては聴く作品となった。ピーター・バラカンはある程度信用できる男だと思っている。


フリーのライブ!

2006年09月02日 | 今日の一枚(E-F)

●今日の一枚 38●

Free     Live !

Cimg1562  今日の2枚目。正統なブリティッシュ・ロックをもう一枚。フリー・ライブ !。1971年2月~3月にかけて行われたツアーの記録だ。高校生の頃、繰り返し聴いた(そしてギターをコピーした)レコードだが、その演奏のエネルギーと聴衆の熱気に、今聴いても興奮する一枚だ。

 かつては、フリーをバット・カンパニーの前身と紹介したものだが、今やバッド・カンパニーを知るファンも少なくなってしまった。フリーの特徴は、重く落ち込むような独特のサウンドにある。これは、天才ベーシスト、アンディー・フレイザーによるところが大きい。フレイザーは、弱冠15歳でジョン・メイオールのグループに参加して、あのミック・テイラー(のちローリング・ストーンズのギタリスト)と共にプレイしたという男だ。編成上もけっして厚いサウンドとはいえないフリーの演奏を、重くへヴィーなものにしているのは、フレイザーのベースだろう。

 私のフェイバリット・ロックギタリストのうちの1人であるポール・コゾフ。泣きのギターといわれる彼のヴィブラートは今聴いても驚異的だ。エリック・クラプトンが、あれはトレモロ・アームを使っているに違いないと思っていたところ、ライブで指でやっているのを見て驚嘆したという話は有名だ。side-2の② Mr. Big における演奏は圧巻だ。これでもかという程執拗にたたみかける泣き叫ぶようなヴィブラート、どこまでも伸びやかなチョーキング、そしてソロからアルペジオへ変化していくわくわくするような流れ。私がフリーが好きなのは、ポール・コゾフのギターがあるからだといっても過言ではない。

 そして、ポール・ロジャースのボーカル。ロック・ボーカリストとしては、一級品であろう。時にシャウトし、しっとりと歌うこともできる。歌詞をしっかりと踏まえることのできる表現力は、最近の無意味に叫んでしまう歌い手とは一線を画する。

 渋谷陽一ロック ベスト・アルバム・セレクション』(新潮文庫)は、フリーについて、「フリーのサウンドの最大の特徴はやはり重く落ち込み、そして決してネバつかないあの独特のリズムといえるだろう。ローリングストーンズが黒人音楽やスワンプサウンドを真似て重いネバつく音をつくりあげたとするなら、フリーはブルースから離反していく過程で重いリズムを獲得したといっていいだろう。フリーはあくまでも白人独特の疲労感と痛みを歌うグループなのである。」と評価している。基本的には、私も異存はない。


ウィッシュボーン・アッシュの百眼の巨人アーガス

2006年09月02日 | 今日の一枚(W-X)

●今日の一枚 37●

Wishbone Ash     Argas

Cimg1660_1 今週は忙しかった。音楽に向き合う余裕もあまりなかった。今、土曜日の朝6:00、やっとスピーカーの前に座っている。しばらくぶりに、ロックが聴きたくなった。古き良き時代のちゃんとしたロックが……。

 ウィッシュボーン・アッシュの1972年作品  「百眼の巨人アーガス」。いい……。正統的ブリティッシュ・ロックとはこういう作品をいうのだ。過剰なものをすべて削ぎ落としたかのような、ハードだが不思議に静けさを感じるサウンド。ゆっくりときちんと歌いこむボーカル。そして、ブルースフィーリング溢れる哀愁の旋律。

 side-1②Sometime World、side-2③Warrior などいい曲がそろっているが、私はなんといってもside-2④のThrow Down The Sword (武器よさらば)が好きだ。このバンドの「売り」であるツイン・リードギターが最良のかたちでフューチャーされている曲だ。テッド・ターナーとアンディー・パウエルのギターは、どちらが主/副ということなく、互いに別々のソロを弾くが、それが微妙に絡み合いひとつの「演奏」となってゆくさまは、実に聴き応えがある。しかも、その旋律はブルース・フィーリング溢れる美しいものだ。後の、イーグルスの構成的でドラマティックなツイン・リードとは、まったく違った演奏の形を示している。

 渋谷陽一ロック  ベスト・アルバム・セレクション』(新潮文庫)によれば、イギリスの手厳しい批評家ジョン・ピールでさえ、このウィッシュボーン・アッシュというバンドの演奏の、オリジナルの豊富さ、メロディーの美しさ、そのエネルギッシュさに感服しているという。

 もう、30年以上前のバンドだが、現在でもそのサウンドの素晴らしさは色褪せることはない。若い世代がこのようなすぐれたバンドの演奏に触れる機会が少ないのは残念なことだ、そう思う。