WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

ジャズメッセンジャーズの歴史

2020年12月29日 | 今日の一枚(A-B)
◎今日の一枚 452◎
Art Blakey &
Les Jazz-Messengers
Au Club Saint-Germain Vol.1~3

 年末の大掃除は、今年はわりとテキパキとやっている。だから、妻の圧力も少ない。午後からはバスケットLIVEでウインターカップの男子決勝を観戦し、その後は書斎で音楽を聴いている。CDの棚から取り出したのは、『サンジェルマンのジャズメッセンジャーズ』である。アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズは、その時期によって大幅にメンバーが変わり、サウンドの傾向にも大きな違いがある。そこで、頭を整理するために、ジャズメッセンジャーズの歴史を大づかみにまとめておきたい。私の傍らでは『サンジェルマンのジャズメッセンジャーズ』が流れている。
 まず取り上げなければならないのは、1954年録音の名盤『バードランドの夜』(→こちら)であろう。アート・ブレイキー名義であり、正式にはジャズメッセンジャーズとは書かれていないが、ジャズメッセンジャーズの原型とみなしていいだろう。ホレス・シルヴァー(p)が音楽監督を務め、天才クリフォード・ブラウン(tp)が縦横無尽に吹きまくる、ハードバップの誕生を記録するアルバムとして歴史に残る作品だ。熱気に満ちたファンキーな演奏が特色である。
 アート・ブレイキー&ジャズメッセンジャーズ名義の、正式な最初のアルバムは、1955年録音の『カフェ・ボヘミアのジャズメッセンジャーズ』である。クリフォード・ブラウン(tp)がケニー・ドーハム(tp)に、ルー・ドナルドソン(as)がハンク・モブレー(ts)に入れ替わった(ちなみにベースもカーリー・ラッセルからダグ・ワトキンスに変わっている)。ホレス・シルヴァー(p) のファンキーサウンドの延長線上にあるが、ちょっと元気がないと感じるのは私だけだろうか。やはり、天才クリフォード・ブラウン(tp) の抜けた穴は大きかったということだろうか。結局、このメンバーでの吹込みは、このアルバムが最後となる。
 1956年に、ホレス・シルヴァー(p) が脱退すると、ジャズメッセンジャーズは不遇の時代を迎える。大きな転機となるのは、1958年に編曲が得意なベニー・ゴルソン(ts) が加入したことだ。ファンキーな雰囲気はそのままに、ゴルソン・ハーモニーといわれる、管楽器のアンサンブルを中心としたより構成的なサウンドに変化していく。メンバーも大幅に入れ替わり、ベニー・ゴルソン(ts) の他、リー・モーガン(tp) 、ボビー・ティモンズ(p) 、ジミー・メリット(b) が加入した。アート・ブレイキー(ds) 以外はすべて入れ替わったわけだ。この時期の主要な作品の一つがこの『サンジェルマンのジャズメッセンジャーズ』であり、有名な『モーニン』(→こちら)である。わたしの大好きな『オリンピアコンサート』(→こちら)もこの時期の作品である。
 ベニー・ゴルソン(ts) は1959年に脱退し一時的にハンク・モブレー(ts)が加入するが、同年にウェイン・ショーター(ts) が加入して音楽監督を務めるようになると、サウンドは大きく変貌した。新主流派的なサウンドにフリージャズ的要素を付け加え、アート・ブレイキー(ds) のドラムソロを前面に出すサウンド構成は、それまでのサウンドとは一味も二味も違うものとなった。この時期の代表的なアルバムとしては、1960年録音の『チュニジアの夜』をあげることができる。
 その後、ジャズメッセンジャーズは更なる変化を遂げ、若き日のウィントン・マルサリス(tp) が加入したりするわけだが、私は聴いたことがないのでよくわからない。

 さて、今日の一枚の『サンジェルマンのジャズメッセンジャーズ』である。1958年にパリのジャズクラブ「サンジェルマン」で行われたライブの録音盤である。絶頂期のライブといっていい。CDでは3枚構成で、青がVol.1、黄色がVol.2、緑がVol.3である。どの盤も、ファンキーなフィーリングとゴルソン・ハーモニー満載である。ライブ録音ということで、何より熱気が伝わってくるのがいい。世間では、「モーニン」が入ったVol.2が一番人気のようだが、私の好きな「ウィスパー・ノット」の入ったVol.1も捨てがたい。ゲストに迎えられたモダンドラムの父、ケニー・クラークとのドラムバトルが展開されるVol.3 も必聴である。結局、3枚ともいいわけであり、必聴であるといえる。ただ、一枚一枚がそれほど長くはないといっても、やはり3枚組である。通して聴くには、それなりの時間と心の余裕が必要である。年末年始に聴くには最適かもしれない。
 今日聴いて正解だった。

ケルヒャーで大掃除

2020年12月29日 | 今日の一枚(E-F)
◎今日の一枚 451◎
Fourplay
Elixia
 懸案だったケルヒャーを購入した。購入したのは、K3サイレントベランダである。2週間ほど前から、ケルヒャーで年末の大掃除である。家の周りの擁壁、家の外壁、犬走、ベランダ、浴室、テラスなど時間を見つけてはやっている。ケルヒャーは楽しい。汚れが本当によく落ちる。気持ちいい。もはや、大人用おもちゃと化している始末である(おとなのおもちゃではない)。ところが、コンクリートの部分をよく見てみると、つるつるしていたものがザラザラしているではないか。あまりにパワーが強すぎて、コンクリートの表面が削られているのだ。まずい・・・。やはり、何事もやりすぎはいけない。ケルヒャー掃除も一段落したところで、ひどく反省したのであった。
 今日の一枚は、しばらくぶりにフュージョンである。ボブ・ジェームス(p)、リー・リトナー(g)、ネイザン・イースト(b,vo)、ハービー・メイスン(ds)によって結成されたスーパーセッショングループ、フォープレイの1995年作品『エリクシール』だ。フォープレイの3枚目で、リー・リトナーが参加した最後のアルバムである。
 何かのきっかけで、ずっと以前に購入していた作品だが、ほとんど聴くことがなかった。年末だというので、CDの棚を整理していたら目にとまり、かけてみたのである。悪くない。フュージョン・サウンドではあるが予定調和的には感じない。アドリブ的な部分をより多くフューチャーした、ジャズ的な演奏である。不必要にうるさくなく、お洒落で、小ぎれいで、趣味のいいサウンドだが、演奏のレベルが高いためか、なかなか聴かせるものがある。コーヒーでも飲みながら、午前中の時間を穏やかに過ごすのにはもってこいのアルバムである。
 日々の生活の中で、ダイニングのBOSEで聴きたいと思い、さっそく階下に持って行ってみた。


祟る神、天照大神

2020年12月29日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 450◎
Wayne Shorter
Odessey Of Iska
 神棚を作り、神を祀り、神に祈る、年末年始には日本の神々や、神道について、何となく意識してしまう。
 神棚に収める「天照皇大神宮」のお札(神宮大麻)を見るたび、いつも考えてしまうことがある。「天照皇大神宮」、すなわち天照大神(アマテラスオオミオミ)は、《祟る神》なのではないかということである。そもそも、日本人が神を祀るのは、神の祟りを畏れ、神を鎮めるためである。皇祖神といわれるアマテラスも例外ではあるまい。そうであれば、正月に我々が神棚に手を合わせるのも、願い事の祈願ではなく、神を鎮魂し、災厄が身に降りかかりませんようにと祈ることに本来の意味があることになる。そのことは、今年読んだ島田裕巳氏の『「日本人の神」入門』(講談社現代新書2016)、『神社崩壊』(新潮新書2018)などの著作によってほとんど確信となった。
 アマテラスは女の神といわれるが、根拠はぜい弱である。弟のスサノオに対して「汝兄(なせ)」と呼びかけたことがほとんど唯一の根拠だ。「汝兄(なせ)」とは、女性が男性に対して親しみを込めて呼ぶ言い方だからだ。『古事記』『日本書紀』に登場するアマテラスからは女性的な優しさを感じることはほとんどない。むしろそのイメージは男性的ですらある。それは、他者を罰し、逆らう者を殺す怖い神であり、武装して軍隊を率い、戦争する軍神である。実際、中世の史料には男神として登場する例もあるようだ。
 もう一つ、明治天皇が参拝するまで歴代天皇が伊勢神宮を参拝しなかったという事実も重要である。学生時代、兼任講師として講義された中世史の村田正志先生が、「歴代天皇はなぜか伊勢に行かないんだよね。みんな石清水に行くんだ。」と語られたことを思い出す。そもそも、皇祖神であるアマテラスが、宮殿内に祀られず、それどころか都から遠い伊勢の地に祀られていること自体、大きな疑問なのだ。まるで、アマテラスをあえて遠ざけ忌避しているようですらある。この点について、島田裕巳氏は次のように語る。
伊勢という、大和から離れた場所が選ばれたのも、天照大神の放つ禍々しい力を避けようとしてのことではなかったのか。(中 略)日本人は天照大神を恐れ、そこから距離をおこうとしてきた。実際、天照大神は、人々を恐れさせるようなことを繰り返してきたのである。
 非常に説得力のある説明である。古代の人々にとって、神の存在とはよりリアルなものであって、そのパワーはまさしく人々に恐れを抱かせるものだったのであろう。神について存在論的に問わず、国家統合の道具として矮小化してしまった明治以降の国家神道、そして戦後の新宗教である神社本庁は、日本の神々のもともとの姿を大きく歪めてしまったように感じられる。

 今日の一枚は、ウェイン・ショーターの『オデッセイ・オブ・イスカ』である。1970年の録音である(Blue Note)。学生時代、最初に聴いた時には正直いってよくわからなかった。ちょっと前衛的でフリーっぽいテイストがうまく理解できず、難しい音楽だと思っていた。今は、すんなり受け入れることができる。サウンドの全体性やサウンドで構成された世界、イメージを聴く音楽だ。その意味で、後藤雅洋氏が「聴き手は、ただショーターの想像力の世界で遊ばせてもらうのである。」と語ったのは全く正しいと思う。
 神秘的で、スピリチュアルな世界。宇宙的で、超常現象的な世界といってもいい。演奏者の創造する世界が、聴き手のイメージを刺激する。余計なことは考えない。ただじっと耳を傾けるのだ。やがて、静かで、深く、柔らかい感動が訪れる。そんなアルバムである。
 Odessey Of Iska は、風の放浪、あるいは風の旅とでも訳すのだろうか。天照大神の話題には、このアルバムの提示するイメージはまったくふさわしい。