WATERCOLORS ~非哲学的断章~

ジャズ・ロック・時評・追憶

祟る神、天照大神

2020年12月29日 | 今日の一枚(W-X)
◎今日の一枚 450◎
Wayne Shorter
Odessey Of Iska
 神棚を作り、神を祀り、神に祈る、年末年始には日本の神々や、神道について、何となく意識してしまう。
 神棚に収める「天照皇大神宮」のお札(神宮大麻)を見るたび、いつも考えてしまうことがある。「天照皇大神宮」、すなわち天照大神(アマテラスオオミオミ)は、《祟る神》なのではないかということである。そもそも、日本人が神を祀るのは、神の祟りを畏れ、神を鎮めるためである。皇祖神といわれるアマテラスも例外ではあるまい。そうであれば、正月に我々が神棚に手を合わせるのも、願い事の祈願ではなく、神を鎮魂し、災厄が身に降りかかりませんようにと祈ることに本来の意味があることになる。そのことは、今年読んだ島田裕巳氏の『「日本人の神」入門』(講談社現代新書2016)、『神社崩壊』(新潮新書2018)などの著作によってほとんど確信となった。
 アマテラスは女の神といわれるが、根拠はぜい弱である。弟のスサノオに対して「汝兄(なせ)」と呼びかけたことがほとんど唯一の根拠だ。「汝兄(なせ)」とは、女性が男性に対して親しみを込めて呼ぶ言い方だからだ。『古事記』『日本書紀』に登場するアマテラスからは女性的な優しさを感じることはほとんどない。むしろそのイメージは男性的ですらある。それは、他者を罰し、逆らう者を殺す怖い神であり、武装して軍隊を率い、戦争する軍神である。実際、中世の史料には男神として登場する例もあるようだ。
 もう一つ、明治天皇が参拝するまで歴代天皇が伊勢神宮を参拝しなかったという事実も重要である。学生時代、兼任講師として講義された中世史の村田正志先生が、「歴代天皇はなぜか伊勢に行かないんだよね。みんな石清水に行くんだ。」と語られたことを思い出す。そもそも、皇祖神であるアマテラスが、宮殿内に祀られず、それどころか都から遠い伊勢の地に祀られていること自体、大きな疑問なのだ。まるで、アマテラスをあえて遠ざけ忌避しているようですらある。この点について、島田裕巳氏は次のように語る。
伊勢という、大和から離れた場所が選ばれたのも、天照大神の放つ禍々しい力を避けようとしてのことではなかったのか。(中 略)日本人は天照大神を恐れ、そこから距離をおこうとしてきた。実際、天照大神は、人々を恐れさせるようなことを繰り返してきたのである。
 非常に説得力のある説明である。古代の人々にとって、神の存在とはよりリアルなものであって、そのパワーはまさしく人々に恐れを抱かせるものだったのであろう。神について存在論的に問わず、国家統合の道具として矮小化してしまった明治以降の国家神道、そして戦後の新宗教である神社本庁は、日本の神々のもともとの姿を大きく歪めてしまったように感じられる。

 今日の一枚は、ウェイン・ショーターの『オデッセイ・オブ・イスカ』である。1970年の録音である(Blue Note)。学生時代、最初に聴いた時には正直いってよくわからなかった。ちょっと前衛的でフリーっぽいテイストがうまく理解できず、難しい音楽だと思っていた。今は、すんなり受け入れることができる。サウンドの全体性やサウンドで構成された世界、イメージを聴く音楽だ。その意味で、後藤雅洋氏が「聴き手は、ただショーターの想像力の世界で遊ばせてもらうのである。」と語ったのは全く正しいと思う。
 神秘的で、スピリチュアルな世界。宇宙的で、超常現象的な世界といってもいい。演奏者の創造する世界が、聴き手のイメージを刺激する。余計なことは考えない。ただじっと耳を傾けるのだ。やがて、静かで、深く、柔らかい感動が訪れる。そんなアルバムである。
 Odessey Of Iska は、風の放浪、あるいは風の旅とでも訳すのだろうか。天照大神の話題には、このアルバムの提示するイメージはまったくふさわしい。


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