ヒーメロス通信


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井筒俊彦『意識の形而上学』を読む・小林稔、連載第一回、双面(ヤヌス)的構造

2013年09月26日 | 井筒俊彦研究

井筒俊彦『意識の形而上学』(「大乗起信論の哲学」)を読む

来るべき詩学のために(二)

 

小林稔

 

連載第一回 「真如」と「アラヤ識」における双面(ヤヌス)的構造

 

 先の、十八回にわたる「連載エセー『意識と本質』解読」につづいて、十年後に書かれ遺稿になった『意識の形而上学』を読んでいきたいと思う。前書を精読した後では、この難解と思われた書物も、今の私には比較的入りやすいものになっている。三、四年前に読んでいた時の難解さは和らいでいるものの、そのテーマの大きさと、重要性は一段と大きくなっている。必然的に、私の来るべき詩学の完成に向けてインパクトを深く与えるものになっているようである。(中公文庫版『意識の形而上学』をテクストにする。)

 第一部の序において、『大乗起信論』のテクストがいつどこで誰によって書かれたか不明だが、大乗仏教の書物としては名声高いものであり、六世紀以降の仏教思想史の流れにすこぶる大きな影響を賦与していると井筒氏は紹介する。漢訳本から日本語に置き換えられた書であるからには言語はサンスクリットであろうが、あるいは当初から中国語で書かれた偽書の可能性もあるという。そう述べた後で、井筒氏は『意識の形而上学』を執筆する指針を明らかにする。それによると、本質的に宗教書である『大乗起信論』を仏教哲学書として読み、そこから生起する哲学的問題を分析しようとするものだという。

 前回の連載の折にも触れたが、彼の主張する東洋哲学の共時的構造化の一資料として、「それの意識形而上学の構造を、新しい見地から構築してみようとする」試みであるとする。彼の「共時論的構造の把握」とは、現代に視点を置き、我々にとって古典を有意義にしていこうとするものであるが、一種のテクストの読み直しを迫るものといえよう。

 

 貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思想テクストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったままにしておかないで、積極的にそれらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと。

                   『意識の形而上学』井筒俊彦「第一部Ⅰ序」

 

 このテクストの読み直しは井筒氏独自の考えではなく、彼の他の論文で自ら言っているように、「創造的に思索しようとする思想家があって、研究者とは全然違う目的のために、過去の偉大な哲学者たちの著作を読む」という傾向は現代ヨーロッパの思想界では、「一つの顕著な戦略」であり、一種の誤読とも考えられるが、そうすることによって「過去の思想家たちは現在に生き返り、新しい生を生き始める」と述べ、現代哲学者、ドゥルーズやデリダの名を挙げている。しかしながら現代日本の思想家たちは、自らの思索のインスピレーションを求める場所は東洋哲学の古典ではなく、マルクスやヘーゲルやニーチェといった西洋の古典であると井筒氏は不満を述べる。(井筒俊彦『意味分節理論と空海』参照)

 さらに私は、このようにして残された井筒氏の哲学書を、詩学を築くために誤読しようとしているのかもしれない。このエセーは少なくとも「詩とは何か」を考える導きとして、哲学や神学との差異を明確にするための、詩の実作者(私)からの読み直しなのである。

 

p14~

Ⅱ 双面的思惟形態

 

 『大乗起信論』には顕著な二つの特徴があると井筒氏はいう。意識(こころ)という非空間的な内的機能を主題としながら、形而上学的思惟を空間的に構想することと、思惟が至るところで双面〈ヤヌス〉的に展開することであると指摘する。思考展開の筋道は二岐に分かれ振幅を描きながら進んでいく、つまり直線的ではないという。詳細は後に論じていくとしながらも例を一つ挙げる。大乗仏教全体に共通する、「真如」と「アラヤ識」というキータームだ。

1、真如について井筒氏から教えを乞おう。存在エネルギーの全一態。絶対の無であり空であるという。一切の事物の本体と考え、全存在者の現象顕現する次元での存在者であり、また現象的自己展開でもあるという。「真如」と反対は「無明」であるが、それらがイコールで結ばれる事態があると『起信論』は考える。存在論的に双面性があるということ。しかもこの二極は徹底的に対立する、つまり相互矛盾的対立関係にある。現実はすべて妄念の世界と措定するのだ。そして相矛盾する二つの側面が「真如」において同時成立すると考える。この二重構造を超出して事の真相をそのまま無矛盾的に、同時に見通すことのできる人をこそが『起信論』の理想とする完璧な達人であると井筒氏はいう。矛盾したものを無矛盾的に見るという困難さがある。

2、「アラヤ識」について耳を傾けてみよう。『起信論』の「アラヤ識」が唯識哲学の「アラヤ識」とどのように相違するかが重要なテーマになると井筒氏はいう。「起信論」における「アラヤ識」は「真如」の非現象界と現象界の中間地帯として空間的に把握される。「真如」が非現象的「無」からいままさに現象的「有」的次元に転換し、経験的事物事象の形に乱れ散ろうとする境位、つまり意味分節体、存在分節体に変わろうとする場である。非現象態から現象態、逆に、現象態から非現象態に還帰する「真如」が必ず通過する中間地帯と考える。「アラヤ識」はこういう意味で双面的であるのだと井筒氏はいう。

 現象的事物の世界(経験的世界)を「真如」の本然性からの逸脱と考えるか、あるいは「真如」それ自体の存在展開と見るかで価値符号が正反対になる。前者は「アラヤ識」を限りない妄象現出の出現として「負」と捉え、後者は「アラヤ識」を「真如」の限りない自己展開の始点として「正」と見なすことになると井筒氏はいう。二方向の運動によって、存在分節否定の立場と存在分節肯定の立場に分岐することになる。この事態を「起信論」では「不生滅」(非現象性)と生滅(現象性)と和合して、「非同非異」(同一であることもなく相違することもない)という自己矛盾的一文で表現すると井筒氏はいう。そこから「起信論」では「アラヤ識」を「和合識」と名づけているという。第二部で詳しく論じているのを見るであろう。唯識哲学の「アラヤ識」と「起信論」独自の「アラヤ識」には同じものと相違するものがあるようだ。両面をこれから理解し、さらに井筒氏独自の「言語アラヤ識」を『意識と本質』その他の井筒氏の論説を読み直し、深く考えてみようと思う。

 意識という非空間的機能を時間性を離脱した空間的広がりとして構造化する「起信論」などに見られる思索は、西洋哲学にない東洋哲学独自のものであり心惹かれるものだ。

 

「『意識の形而上学』を読む」第一回終了。

 

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