ヒーメロス通信


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夏の碑、『遠い岬』(小林稔第八詩集2011年より)

2013年05月10日 | 小林稔第8詩集『遠い岬』

 小林稔第八詩集『遠い岬』(2011年以心社)

 

夏の碑

 

時の蹠(あしうら)が ぶしつけに水辺の草草を踏みしだいていく

かつて あれほどまでに信じられた夏の一日は

いまは牡蠣の殻にきつく閉ざされ 煌(きらめ)きを増している

腐蝕が始まっている私の肉体が

命の綱を離す瞬間まで 私は携えていくだろう

かたわらで見守りつづけた きみの十四度目の夏を

 

稲妻と驟雨に襲われ

駆け込んだ民家の軒下でびしょぬれて

やがて宿舎に向かうタクシーの車内は

きみの身体から放たれた草いきれに満ち

遠い記憶に呼びとめられ

私は息をすることさえ はばかれた

明るい室内と夜の森を隔てる 一枚のガラス戸に

等身で立つきみが写されている 闇の向こうに

湖が月の破片を浮かべ ひっそりと眠っているだろう

 

素足をそっと踏んでは ためらい後ずさり

おそれ あこがれ 羽ばたき

繁茂する樹木と 燃える草草に触れ

たましひは もがき 苦しんでいた

ふるさとへ向かう折り返し地点で

(私もぞんざいで若さにあふれていた)

きみの瞼から包帯を解き放ち

悦びと哀しみの邦を ともに訪うための

出発はいく度も夢見られ やむなく見送られた

 

いくつもの夏が背を向けて通り過ぎた

私は荒涼とした原野に独り立たされる

私の眼前 無防備に投げ出された

うだるような熱風に あてられ伸びた腕と脚

時の位層に残された記憶の片(かけら)を

蒐(あつ)めては 丹念に縫い合わせ

かつてへの追憶を在りし日のようになつかしむ

あの日 郷愁の綱にからめ捕られた私のたましひは

豊饒なあまりに生産される種子を唆(そそのか)して

私の脆弱な杖に 言葉の葉(は)叢(むら)を繁らせるだろう

 

歳月の高みでよろけ 刻印された地上の夏の

あらかじめ失われ ふたたび失われた王國を俯瞰する

やがては空蝉を枝に懸けるように

たましひは肉の縛(いまし)めから解かれ 墜ちていくだろう

湖面に映された さかしまの空を

 

 

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