ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

『残照』詩誌「ヒーメロス」23号、2012年12月20日発行

2012年12月28日 | 「ヒーメロス」最新号の詩作品

残照

小林 稔

 

闇に浮上したぼくらは長い間一つに溶け合っていた。シーツに包まれ互いの体温

を感じていた。あいつの乳臭い息、にじみ出る蜜のような体液、微睡(まどろ)み

ながらも覚めた五感で捉えていたあいつという存在。一瞬、ぼくは深い眠りの谷

間に墜落した。あいつはぼくから体を離して闇を歩いている。レールを曳いて放

ったカーテンの向こうから光がぼくのいる寝台に届く。あいつの裸体が窓際に見

え、さっきから聞いていた小鳥の囀(さえず)りがいっそう激しくなる。              

 

 

 一、 エアポート

 

君の頭上で飛行機が飛び立っていく

ファインダーから覗く君のおどけた顔

なぜここにぼくを誘ったのかを考えたら

針の突き刺さった胸がひりひり傷んだ

いつかいっしょに君と空を飛べたらと思う

ぼくらは指を絡めたままで

真っ白い階段を駆け降りた

そのとき軽やかに駆け上がる

年上の男女のカップルとすれ違い

ためらったように君が足を止めたのはなぜなんだ

 

記憶を反芻させては

甘い陶酔におぼれる日々が通り過ぎる

いく日かしてぼくのアパートの扉を君は叩いた

夜が明けるにはまだ二、三時間は残っている

お化粧の匂いが君の首筋でして

ぼくに教えない夜のバイトが気にかかる

また一つ思い出を体に刻んで君は帰っていく

君を街で拾った男のもとへ滑り込むんだ

 

ぼくの半身が深夜の道をふらついている

二つに割れたぼくの体の片方を君は盗んで

道端にでも放り投げたのかもしれない

街灯の光が届かない暗がりから

滑走路がのびているのに

剥がれた翼が再生するのを

死のいざないにも勝ち

しんぼう強く待てるだろうか

フィルムを抜き取り昼の光を当てても

あいつの記憶は死に際にまで持ちこたえるだろう

寝台に横たえたぼくの半身は

さらわれた片割れを求め闇の底に沈んでいく

 

 

  二、闇を疾走するシューベルト

 

友人の弟が銭湯帰りの道端を

脛から血をたらしながら走ってくる

どうしたの、というぼくの問いに

そんなこというなよ、とせつない声で答える

そういわれて、ぼくもせつなくなる

きっと生えたての脛毛を剃ったんだ

友人と弟はどういう事情があってか二人で住んでいて

ときどきぼくの部屋にきてコーヒーの粉をくれという

ぼくには弟がいないからどうしようもなく

身を切られるくらい羨望に駆られるんだ

見つかったぞ、とかつてぼくが思ったあいつは

楽園の門扉をぼくのまえで外して見せたが

たちまち地獄にぼくを落とし消えてしまった

弟のいる友人には、ぼくの気持ちはわからないだろう

シューベルトの最後のソナタがラジオから流れている

水が聞こえているね、といない君がささやく

葉むらを震わせる風が音を連れ去って

奏でられたピアノの残響を光の粒子が泳いでいる

闇でガラスの砕ける音を聞いたような気がした

壁だと思っていたところに闇がひろがっている

その空白を充たすものは何か

あの日、ぼくは予言した

性愛とは死者へのはかない憧憬に過ぎないんだと

 

君の首を飾るカラーは白鍵

ぼくの指が滑り込んで

黒い棺に納められた夜を叩く

青磁のふくよかな底に立つ闇がいとほしく

梨をがぶりと齧りつき、たちまちに芯をさらす

 

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高橋睦郎『詩歌の国の住人として』(現代詩手帖12月号)を読んで。詩誌「ヒーメロス」23号から

2012年12月28日 | 現代詩提言

高橋睦郎『詩歌の国の住人として』を読んで。

現代詩手帳12月号(展望・現代詩年鑑2013)

 小林 稔

 

 高橋氏の論考は今年(2012年)九月に催された国際詩祭についての報告から始まる。テーマは「城市・水域・心霊」であったという。文体が「です・ます」調で記述されているので、おそらくそこで高橋氏が述べたであろう話が冒頭部で紹介されている。自分が日本国国民であるとともに詩歌の国の住民あることを伝え、日本国民であることは自分の意志でなったのではないが、詩歌の国の住人は自ら選んだのであるから後者に重きを置いているという。

 日本では基本的には城壁がなかったこと、水域という考え方も本来なかったこと、ユーラシアの西から東まで自我意識が強かったが、今世紀になって危うくなってきたものの、もともと日本人は自我意識が希薄だったので、心霊を持っているという自覚は淡いもので、死後は肉体から解放され、「世界霊ともいうべき広々とした心霊に還っていく」という考えを持っていたことを高橋氏は指摘した。現代において叫ばれる世界のグローバル化は人類の価値観の危機も共有されている。人類文明の再生のためには「未開の世界観」が求められると高橋氏は主張する。さらに世界じゅうにいる詩歌の国の住民が原初(未開)の世界観を持って自我意識や国家意識を超えることが有効な手段ではないかと発言する。

 「詩歌の国の住人」という考えが高橋氏のなかでどのように確信づけられたかが以下に述べられている。要約すると、古代ギリシア人は「人間は死すべきもの」という自覚に立ち、先入観なしに物事を見て表現しようとした。詩人をはじめ、あらゆる表現者が表現する生きるものの規範があると考え、古代ギリシア人はそれらを受け入れた。その例としてホメーロスの叙事詩『イーリアス』では敵味方にとらわれず、公平な態度で表現されていて、いわば「精神的には世界市民」だったといえるのではないか。しかし時としてオルペウスのごとく現実の国の住人から迫害される危険にも晒される。詩歌の国の住人の敵は現実の国にだけいるのではない。現実の国にしか属さない国民は、詩歌の国の住人から関わりを積極的に持たない限り敵とはならない。詩歌の国の住人の真の敵は、詩歌の国の住人のふりをして紛れ込んでいる贋の住人である。贋者と本物を見分けるポイントは、詩と詩人のどちらを重要と考えるかであると高橋氏はいう。もちろん詩歌の国で重要なのは詩人ではなく詩である。詩人を重視するものは、「詩人の名のもとに自分を重く見せようとする者」である。なぜなら現実の国の価値観、名誉と権力を詩歌の国に持ち込みこむからであるという。(その一例として詩歌賞の功罪を論じている。)ホメーロスをはじめ、その後裔であるピンダロス、シモーニデースなどの伝記内容の乏しさによって裏打ちされるように、詩の栄光の前で無名かつ無力でなければならない。高橋氏の論考の後半部で述べられる日本人の詩歌、物語の世界もまた、敵味方なく公平に書かれたギリシアの叙事詩『イーリアス』と同じく、『平家物語』『義経千本桜』にも敵味方を越えたものがあり、さらに人間・動物間の公平、人間・植物間の公平まで広がっているのは驚嘆されるべきである。なぜそうなりえたか。「人間始原にあった未開の世界感覚が、ユーラシアから零れた列島弧という位置にあることで、大陸文化の影響をくりかえし受けつつも、奇跡的に保たれたからではないか」と高橋氏はいう。

 以上は私なりの要約であるが、結論として高橋氏が主張しようとすることは、今後の詩歌の国の住人としてのあるべき姿であろう。明治維新によって開国した日本が、戦後の物質的反映のなかで、「いのちの儚さ」の感覚を失い、ひたすら現実の国の国民となったという。現実の国で生きることの不得手な者が逃げ込むことで詩歌の国はかろうじて維持されたが、それゆえ、詩歌の国にまで現実の国の価値観がもたらされている。そのような時に起こった巨大地震と原発事故は、我々の国土が世界にも稀有な災害列島であることを再認識し、詩歌の国の回復にはかけがえのない契機として捉え、人間を含めてすべての生命体が、「いのちの儚さ」の上に立っていることを知ることが大切であると結んでいる。

ここから、私が思う三つの問題点を挙げてみよう。

 一、人類文明再生の有効な手段の一つが未開の世界観であるということを高橋氏は主張しているが、未開や原初的という言葉から、吉本隆明氏の『アフリカ的段階について』(春秋社)で述べられているアフリカ的段階(プレ・アジア的)を思い起こした。ここでは詳細は避けるが、吉本氏のこの著書は、ヘーゲルが哲学的な歴史という観点から世界史を捉えた意義深い書物、『歴史哲学講義』(岩波文庫)に基づき、ヘーゲルの西洋一辺倒の理性主義の史観から除外された旧世界とするアフリカ的段階をプレ・アジア的段階としてアジア的段階の制度的な特徴を区別しながらも接続しようとするものである。つまり、アフリカ的段階では王の絶対的専制は住民の総体的な専制になりうるという両義性が見られるが、それらが分離され、制度、生産物の占有と、霊威の専制に分かれ固定されていった。アジア的段階では住民の奉納と引き換えに灌漑水利や軍事的な保護が王権の役割になってついてくると、吉本氏は解し、制度の根本的な相違を持ちながらもアフリカ的とアジア的は接続されているという。吉本氏の主張は、十九世紀前半のヘーゲル史観の拡張にある。「ヘーゲルが世界史の枠外に置いたアフリカ的世界はプレ・アジア的な特徴を持ちながら世界史の視野に現われてきた」ということであり、プレ・アジア的世界としてどれだけ普遍性を示すことができるかである。ヘーゲルがアフリカを世界史から取り除いた理由はアフリカの原住民は法律と神の観念がなく魔術が至上のものであるからである。自然の意識と自分の意識が区別されていないので倫理の意識が生まれていない。人間の魔術的な能力が自然現象を変えられると考えているからである。吉本氏によれば、「ヘーゲルはアフリカ的世界を野蛮や未開を残虐や残酷と結びつけ、生命の重さや人間性を軽んじている状態にあると解釈している」という。これらはヘーゲルの絶対的な近代主義から由来するものであり、外在的な文明からの視点を重要視し、内在の精神史を捨象して始めて成立する史観であった。吉本氏はこの内在の精神史を人類の母型とする。私が吉本氏の『アフリカ的段階』について述べたのは、高橋氏の、日本人の持つ未開の、あるいは原初の世界観が人類文明の再生のための有効な一つではないかという文章に触れたからである。ここで高橋氏のいう未開とアフリカ的段階が同一のものであるかはわからない。吉本氏は、アフリカ的段階は「内在の精神史からは人類の原型にゆきつく特性を象徴している」とし、「人間が天然や自然の本性のところまで下りてゆくことができる深層をしめしている」ので、「どこまで深層へ掘り下げられるかを問われている」と主張する。「日本人には伝統的に自我意識は希薄だった」と高橋氏はいうが、単純に肯定することはできない。内部での権力闘争は激しかったし、武家社会の非人間的行為を知っているからである。詩歌の世界で敵・味方間を超えた認識が生まれたのは、日本列島の位置的関係からだけでなく、仏教思想の影響が大きかったためであろう。しかし明治時代の開国から近代化が行なわれ、現在の私たちに与えた生活様式は意識できないほど西洋化されている。とうぜん世界観も西洋化の影響を受けている。アジア的段階が西洋文明を後追いすると同時に、つまり外在的に進歩を追跡することと、「アジア的」な停滞と退歩の精神史、つまり、季節ごとに反復する農耕の世界を蓄積していく社会であるという歴史概念を持つとき、「アフリカ的」段階はその母型として普遍性を持つと吉本氏はいう。ということは、私たちは西洋思考を母型としてのアフリカ的段階をアジア的段階として共有していると考えられる。このような観点から考えると、高橋氏の論旨は不明瞭であり、つきつめられる必要がある。ヘーゲルが旧世界として除外した、人類の母型である内在精神を詩人は詩作において積極的に探究すべきである。

二、日本が近代化するとともに、詩の世界にも近代化が始まった。明治十五年の「新体詩抄」から出発するのが通説である。西洋の詩が紹介され、これまでの日本の詩には思想のないことが自覚され、花鳥風月的世界からの離別を求めた。しかし江戸時代の後半には俳文や自由詩に近い形式で芭蕉や蕪村が詩と呼ばれる形式に到達していたのであるが、新体詩の運動は伝統的詩歌の世界を否定して西洋の詩に目を向けたのであり、詩の独立性が今も問題になる。

 私が詩を書き始めたのは、日本の詩歌の世界に目覚めたからではなく、十九世紀末のフランスの詩に接したからである。ボードレールやランボー、あるいはシュルレアリズムに接したからであり、高橋氏が述べるように「現実の国に生きることの不得手な者が逃げ込む」のではなかった。詩に積極的に意義を求め自ら一般的な人々が遵守する世事を踏襲することがなかったのは、詩作と生が分離することを求めなかったからである。先に挙げた詩人たちに共通するのは詩を「生の変革」と捉えていたということであろ。私自身、詩を四十年以上も書き続け、未だにこの思いは変わらずにある。現実には厳しい生活状況にあるが、「生の変革」以外に私には詩を書く理由がない。日本の古典に深く感じ入ることはあっても、詩歌の世界と現代詩の世界には断絶がある。さらに詩と詩人の関係についても高橋氏と私ではかなりの考えの相違があり、次の論点になる。

三、新批評以来、作品と作者を切り離して考えることが一般的になった。作品を読解するとき、作者の人生から解くことをしない。しかしこのことと、例えば詩人の経験的世界を無意味とすることを同次元で論じてはならない。詩と詩人の生き方はぴたり重なることはない。だからといって詩人の現実の生は無視してもよいということにはならない。「詩歌の国では重要なのは詩であり、詩人ではない」と高橋氏は主張する。そのことに異論はない。さらに、「詩よりも詩人を重視する者は、詩人の名のもとに自分を重く見せようとする者でいかに詩歌の国の住民のふりをしようと現実の国の国民でしかない」というが、右のような詩人はほんとうの詩人ではないのは確かであるが、ほんとうの詩はほんとうの詩人からしか生まれてこない以上、詩自身の解釈や評価とは別に詩人の生は問われねばならない。詩人のふりをしているニセ詩人はどうでもよい。ほんとうの詩人のなかには詩人像があり、その理想に向かって限りなく近づこうとするのではないか。したがって詩人の経験は重要である。手品師が胸から鳩を出現させるように詩を生み出すことはないのだ。詩人の意識と現実の相克から詩作に励むのだと思う。そのように詩人は己の生を代価にして詩を書き、死んでいくのである。詩が重要であり詩人は重要ではないということを都合よく解釈し、自己の探求から離れたところで主体から一定の距離をおいて書かれた詩が横行する現状が、詩を貧しいものにしているのではないかと私は思っているのだがどうであろうか。私の主張は、「詩の栄光の前で詩人は無名かつ無力でなければならない」という高橋氏の論旨とは矛盾しないのである。