ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

季刊個人誌『ヒーメロス』20号(2012年3月20日ついに発刊します。

2012年03月15日 | お知らせ

 季刊個人誌『ヒーメロス』20号が出航準備に入っています。


 発行を延期していました「ヒーメロス」20号が編集・製作中。
 今年も年四回実現目指してがんばります。

 詩 連作「楱(はしばみ)の繁みで(二) 小林 稔
      三、闇  四、使者  五、摂理
   秋には、第十七号河岸で  原 葵

 書評
   情念のエクリチュール(400字詰め75枚)小説「ショパン、炎のバラード」ロベルト・コトロオーネ 
集英社刊
   小林 稔

 エセー
   「自己への配慮と詩人像」第十二回(400字詰め50枚)
(39詩と聖性 40キリスト教の確立における結婚観と修道士の出現)
    
小林 稔

定価500円

 年間購読者を募集します。年四冊 2000円 よろしくお願いします。
  432-0056 埼玉県吉川市平沼226-1 小林稔気付 以心社 までご連絡ください。


生成する音楽、ビートルズ。(季刊個人誌『ヒーメロス12号』2009年12月2日発行)からのコラム

2011年12月21日 | お知らせ

生成する音楽、ビートルズ

小林稔

 吉祥寺にあったビー・バップというロックのレコードを聞かせる店の薄暗い部屋の窓から、朝の通りを行き交う人々を見ているのが私には快かった。発売されたばかりのビートルズのアルバム『アビーロード』が大音量で流れていた。一九七〇年のことである。
 六十年代後半は世界が変わろうとする気配を感じさせる時期であった。アメリカからヒッピー文化が日本にも紹介され、新宿の地下通路を若者たちが寝転んで占拠していた。六十八年には世界の大学生が旧体制を破壊しようと学生運動が起こった。私は地下鉄駅の出口を出て高校の正門に向かう途中、機動隊に追われて逃げる大学生の集団を眼にしたことがあった。このような世界状況の中で、ビートルズはアイドルを脱皮し変貌していった。コンサートは止め音の追求をスタジオで始めるようになり、アルバム単位で発表するようになっていた。今、ドキュメントビデオを見ると、スタジオが実験室になっていたことがわかる。即興のギター演奏で語り合い、それぞれの音楽の断片がスパークし、ひらめき、つまりその場で破壊と創造をくり返し、構成されていく。レコーディングを何度もやり直し終了するまで続くのだ。『サージャント・ロンリーハート・クラブバンド』のアルバムからアーティストの道を歩み始め、実際世界中の芸術家から、それまで否定的な評価を下していた芸術家からさえ絶賛されたのであった。
 やがてビートルズの解散という時期が訪れ、次の段階に入っていく。それはアーティストへと歩き始めた彼らにとっては必然的な、すべての芸術家の宿命として与えられる孤独の道程であった。解散後、ポールは彼の本来の持ち味であるポップ調のアルバムをいち早く発表したし、ジョンはギンズバーグ調の自己の叫びを激しいリズムで表現していた。ジョンはロック界の詩人であった。彼の中で音楽は生成し続けていた。つまり、人生と音楽を一体化させ、自分の人生を生き抜くことで真実を見つけ出そうとしていたのだ。アルバム『マザー』は傑作である。『イマジン』で社会的なテーマで世界に訴えたが、その後はアーティストとしての困難な道を歩んでいる。四十歳にならんとするまで、日本人の妻、ヨーコとの間に授かった子どもの養育に当たり、音楽から遠ざかっていた。四十歳になったとき、家族をテーマにした『ダブルファンタジー』というアルバムを発表した。喜びを持ってスターティングオーバー(再出発)しようと世界に向かっていくジョンがいた。経験からインスパイアされるほんものの芸術家がいた。しかし、発売されてまもなく一人の熱狂的なファンの銃弾を浴び命をなくした。
 七十年前後の時代の風潮の中で私は詩を書き始めた。私は、アーティストになってからのビートルズには大きく影響されたが、ビートルズから何を学んだのだろう。四十年たった今、私は、それは生成する芸術の力だと言うことができる。生き様が芸術を生み、その芸術が芸術家を変貌させていく。つまり生の変革なのだ。それは奇抜な生活をすることではなく、あらゆる固定観念を棄て自由を得てひたすら信じるように生きることだ。自由に生きられる環境を選び人生を歩くことで世間の多くの人たちと乖離することでもある。
 その後、様々なポピュラーミュージックに出会ったが、そのとき限りの消費物に成りさがっている。今や音楽も文学も売ろうとする商業主義が露骨に表わされ、買い手も喜んで乗せられているように見える。ビートルズのような存在は二度と現れないだろう。


ランボーのこと。個人季刊誌『ヒーメロス10号』2009年7月5日発行からのコラム抜粋記事より。

2011年12月18日 | お知らせ

ランボーのこと 


 もはやランボーという歴史上、実在した一詩人が問題なのではない。二千年を超える西洋文化史のなかで、固有名詞ランボーという身体を通過した詩の諸問題を考え、さらにはわが国の現代詩の源流である新体詩以降の流れに私たちが位置する意味を考えてみたいのである。
 青春期に患う一過性の熱病のようにランボー体験を捉える人もいれば、ランボーのみならずヨーロッパの詩から直接的な関係を絶ち、すでに日本の詩はそれ自身として確立していると考える人たちも多くいよう。しかし、あえていま私が普通名詞としてのランボーに(現代詩を考える上で避けられない現象という意味で)言及するのは、日本の現代詩が、新体詩以前の詩歌との、あるいは現代においても書き継がれている短歌や俳句との相違を明確にさせていないからである。ジャンルによることなく、詩を感ずればよしとする書き手もいるが、それは読み手の側の論理であり、詩の存在意義を矮小化してしまうことになる。明らかに、詩という形式でしかできない内容があると信じるのである。
 塚本邦雄を嚆矢とする現代短歌の世界は一つの頂点を極めた、とする私の考えが妥当性をもちえるならば、現代詩の世界はいくつかの峰々が屏風のように取り巻いているにすぎない。言い方を変えれば千差万別で、試行錯誤ばかりが目立つのである。つまり混迷のみを深め詩人相互の連関がないのである。確立には程遠いと言わざるをえない。詩人相互の批評が成立していないことの理由も同じところにある。短歌や俳句、さらに小説との分岐線はどこに引かれるのであろうか。詩においてのみなしえることとは何かを考えたいのである。それが私のランボー問題の原点である。
 反発を恐れずに言えば、ほんとうの詩作は詩人の生き方と分離して考えることはできないということである。詩人が何を考え、どのように時間を捉えるか、つまり自分という一過性の生を歴史に位置づけ、いかに生き、何を書きえか、その足跡を残さずして詩人と呼ぶことはできない。しかし、言葉に残したものだけが詩であるという意見に異を唱えるわけではない。このことは詩人の生を重視することと矛盾しない。この点では、読み手の関心とは必ずしも重複しない。あくまで詩人の行き方の問題として提出したいのである。もっとも、詩より詩人の生き方に関心を寄せ、伝説の詩人像に興味を寄せる読み手がいるが、詩作の真相を歪曲するだけであり、書き手は極力避けなければならない。かつてプルーストは、文学を知るにはその作者を知らなければならないと主張するサントブーヴに反論した。日常生活をする自我と、書こうとする自我は同じではない。書こうとする自我には、たとえば一人の詩人に自覚された詩人像があり、その詩人の生を牽引するものであろう。詩人像とは詩人としての生の自覚からなされる理想像である。ランボーのいわゆる見者の手紙が表明している。書かれた詩は詩人自身の生を切り開く啓示となる。プルーストの場合は、彼の生涯を再発見することに小説の使命を悟ったが、詩人はそれ以上に、現在時の生から詩を生みだす者であるという観点では異なる、と私は考える。その生とは、彼の捉える詩人像に牽引された生である。ここで、「個別的なものの頂点でこそ普遍的なものが花開く」と述べたプルースト自身の言葉を引くのも無駄ではないだろう。小説家のみならず、詩人にも言えることだからである。つまり一詩人の存在理由なくして普遍性に到達する詩を獲得できないと考えるのである。詩人自身の生が一つの実験であるという意味もそこにある。


詩集『遠い岬』にいち早く応えてくれました。

2011年12月16日 | お知らせ

私の最新詩集『遠い岬』を敬愛する詩人や批評家に献呈させていただいたところ、11月20日、谷内修三さんの「詩はどこにあるか」というブログにすぐコメントがありました。今までも数度、個人季刊誌「ヒーメロス」に掲載した私の作品「脾肉之嘆」の連作に重要な示唆をいただき、感謝していました。今回は詩集に載せた他の作品を引用しています。また、11月23日には神谷光信氏のブログ、フォントネー研究所のブログにも前回の詩集『砂の襞』と同様に、取り上げていただきました。「ヒーメロス19号」の編集後記に記載した、八月下旬から40日間の私の入院生活を案じられるコメントもありました。皮膚科の入院なので比較的軽くすみました。退院後もすっかり治るわけでもないのですが、長期の治療を覚悟して病気と付き合っていかなければなりません。ご心配をおかけしました。お二人は、私のごく少ない理解者であり、これからも失望させないような作品を書き続けていきたいと思います。