飛鳥寺の西側、飛鳥川との間の田園が広がる所に、蘇我入鹿の首塚と伝わる五輪塔がある。
蘇我入鹿は、飛鳥時代の豪族で、皇極天皇の時代に、父、蘇我蝦夷とともに、政権を主導するも、中臣鎌足や中大兄皇子らに暗殺された人物である。ただ、非常に聡明な人物であったともいわれている。昔、教科書では、この入鹿の暗殺が大化の改新であるかのように習ったのだが、あくまで、ここから、律令国家の成立に向けての一連の改革の出発点であり、最近は、乙巳の変と言われることが多いようである。
この入鹿の首塚だが、いつからそう呼ばれてたのか明らかではない。昔は、石畳などはなかったように記憶しているのだが、いつの間にか五輪塔の周りに、石畳が敷かれ、綺麗に整備されるようになっている。
江戸時代の国学者、本居宣長の菅笠日記に、この首塚についての記載があるということだ。ただ、面白いのは、数年前に開催された飛鳥資料館の特別展「あすかの原風景」で古地図とともに、石田茂作氏の文章を引用していた。明治時代の古地図には、「キノモト」という記載があり、石田氏は、馬子塚という名称の伝承を伝えている。
ということは、明治時代には、入鹿の首塚という伝承は身を潜めていて、むしろ、蘇我馬子の関連のものと思われていたということなのだろうか。また、キノモトという名称は、飛鳥寺の塔を思わせる名称であるとの述べている。確かに首塚のすぐ前には、飛鳥寺の西門の跡があるのだが・・・。
面白いことに、キノモトという名称を、飛鳥寺のそばにあったと言われる槻木があったことを伝える名称ということで、近年の飛鳥西方遺跡の発掘調査が始まっている。
こういったこともあり、最近は、この辺りを訪れる機会も多いこともあって、酒船石や亀石と異なり、この場所の写真を撮ることが結構ある。
本当にこの辺りに広がる田園風景は、日本の原風景といった感じがする。伝飛鳥板葺宮跡から飛鳥寺へ至るこの道をぶらぶら歩いて、最後は、飛鳥寺の近くにある和菓子屋さんで、お茶と焼餅をいただいて帰るのが定番のようになっている。
四季折々、いろんな姿が見えるが、やっぱり、夏の終わりから秋、初冬ぐらいが一番いいような気がする。
ちなみに、入鹿の首塚とされる五輪塔は、鎌倉時代の後半から南北朝時代のものとされる。考えれば700年ぐらい前の立派な文化財なのである。
この五輪塔の下に、眠っている人物は、誰かはわからないが、いつ行っても花が添えられていて大事にされていることが感じられる気がする。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます