東大寺の転害門を見学した後、京街道を南へ行くと天平倶楽部という如何にも由緒ありげな日本料理のレストランがある。この地は、江戸時代の終わりから明治、大正、昭和にかけて、對山楼という高級旅館があった。伊藤博文や山県有朋などの著名な政治家などが訪れている。そうした中、1895年(明治28)年には、正岡子規も對山楼に宿泊している。
正岡子規の奈良旅行は、短い子規の生涯の中で最後の旅行となったものである。有名な「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」の句もこの旅行の時に詠んだものである。
子規の庭は、天平倶楽部の片隅に、柿の古木が見つかり、その木の保存運動を契機に、子規好みの庭を2006(平成18)年を整備したのもである。
子規の庭には、天平倶楽部の南隅にある入り口から、建物の横の細い道を抜け、天平倶楽部の裏側にある庭に足を踏み入れることになる。
庭の真ん中には、小さな池があり、子規が好んだ草木が植えられている。作庭のコンセプトとしては、子規が、随筆「筆まかせ」に書いた「一秋の野草を植え、皆野生の有様にて乱れたるを最上とする。すべて日本風の野趣を存すべし。」という一文に寄っているという。
この日は、もみじが池の水面に映え、子規が見たという御所柿にも、小さな柿の実が実っていた。
また、庭の隅には、子規の句碑がある。碑の石材は、愛媛県の西条市で産出する伊予青石と呼ばれるものである。
句碑には、對山楼のことを詠んだ「秋暮るる 奈良の旅籠や 柿の味」という一句が刻まれている。また、句碑が立っている場所からは、東大寺の大仏殿や春日の山が借景となっていて、非常に趣のある景色になっている。
(句碑の写真は、秋ではなく、新緑のころのものである。)
先ほども引用した、柿食えばの一句も、この對山楼の柿を見て、着想したという話もある。
子規の庭を出て、再び京街道を南に行くと、東大寺の中門跡がある。焼け門とも呼ばれ、1606年に火災で焼失した。
門があった場所の中心を車道が通っており、両側に門の礎石が残る。もともとは転害門と同じく三間一戸の八脚門であったと考えられている。
さらに南へ行くと、今度は西大門跡という碑が立った広い空間があった。
西大門は、平城京への東大寺の正門であり、現、南大門と同等もしくはそれ以上の規模であったと言われている。1583年に大風で倒壊した。銀杏の落ち葉が絨毯のようになっている中、西大門に使われた礎石が顔を出していた。
西大門跡から南へ行くと雲井坂と呼ばれるところになり、一里塚や轟橋と刻まれた石碑が立っている。
ちなみに、雲井坂や轟橋については、南都八景とうたわれている。
南都八景とは①東大寺の鐘、②春日野の鹿、③南円堂の藤、④猿沢池の月、⑤佐保川の蛍、⑥雲井坂の雨、⑦轟橋の旅人、⑧三笠山の月の八つである。轟橋は、国道の建設に伴い、すでになく、佐保川の蛍もいない。その他は、健在である。
ここからは、最近できた、奈良県立バスターミナルの横を通って、近鉄八尾駅に戻ることにしよう。奈良のきたまち散歩もこれで終了である。総行程約9.5㎞でした。よく歩きました。
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